朝一で研究室へ。コンペ最終プリントアウトを見る。いろいろ注文を付けているうちに助手のコンピューターがフリーズ。なんだかんだやっていたら昼である。最終品は4年生主体チームにしてはまあまあのできだと思う。CGなどまるで使えなかった4年生がなんとかレンダリングまでできるようになってきた。嬉しいことである。それにしてもコンペの最後を4日連続でチェックなんて長野にいたら絶対できなかった。そのおかげで提出物のグレードは少し上がったかもしれない。
事務所に戻り打ち合わせ。夕方再び大学。コンペは無事提出したとのこと。ほっとした。
他大院受験希望者から電話。名古屋からだが一度会いに来るように伝える。東京に帰ってくると、「帰ってきたのだから」ということで、ゲストクリティークやら非常勤やらお誘いがぐーんと増える。ありがたいことでもあるが学則で制限があるのでお断りすることも多い。その場合は申し訳ない。大学院の希望者もやはり東京だと増えるのだろうか?信大の時は他大からの応募者は実家が長野という方が大半だった。東京に来るとそうでもないようである。僕の考えに興味があってやる気のある人なら歓迎である。
朝から早稲田の講義の主体性⇔他者性のパワポを作り直す。近代で確立された主体性が20世紀に崩壊しその主体性の崩壊後の表現の位相を見極めると言うのが講義の主旨である。他者性の表現は圧倒的な状況(他者)の受け入れか過激なモノ性(他者)の凝視から生まれるというのが一つの結論である。今までだましだまし昔学生と一緒に作ったものを使っていたが0から作り直した。1回分の講義だけれど結構エネルギーがいる。でも手前みそだが深みのあるお話となった。
夕方大学へ、コンペのチェック。飯の後八束さんの大部の書『メタボリズム・ネクサス』オーム社2011に挑戦。さすがに内容が多くて半分で疲れた。著者が語るように、最初の半分くらいは丹下論である。確かにメタボリムを日本建築史からそこだけ切り抜いて来ても説明がつかない。その丹下論を読んでいるとつくづくその凄さを見せつけられる。旧制の大学生の教養が高いのはそのシステム上当然のように言われてしまうのだが、それにしてもヴェルフリンやリーグルの著作に既に高校時代に触れていたと知ると愕然とする。現在そんな学生に出会う確率は恐らく1%もないだろう。
朝ジムで走った後かみさんと麻布へ。焼き鳥を食べながら街を探検しようと企てたが焼き鳥屋は午後からだった。
六本木のオオタファインアーツとその隣のwako works of artを覗きゲルハルトリヒターとサイ・トゥオンブリーの新作を見るhttp://ofda.jp/column/。昼飯食ってギャラ間の五十嵐淳さんの展覧会へ。ベニヤ模型が清清しい。鉄の足が生えていたのは下から覗くためだったとは。建物名の「○○の谷」とか「○○の矩形」は篠原一男を彷彿とさせるのだが、模型を見ていたら名前だけではなく空間も同質のものを感じた。そもそも単一マテリアルでモノリシックな模型表現が篠原的である。6月3日に製図のゲストクリティークでお呼びしているので聞いてみたい。ギャラ間の本屋に行ったら坂本一成の系譜図という手書きのフローチャートが置いてあった。一体だれがこんなものを作ったのか?それによると僕は篠原一男の弟子として坂本一成と並列に並んでいるのだが、これは間違いである。僕は坂本の弟子でもある。そしてその系譜図のそばに拙著発見。思わず二つを並べて記念撮影。
夕方研究室に行きコンペの進捗チェック。みんな頑張れあと少し。
午前中早稲田の演習。学生発表。今日は視覚的建築と体感的建築。建築芸術と建築写真芸術はそれぞれ違うものであると言う指摘があった。なかなか的を射ていると思った。それに従えば『新建築』と言う雑誌は『新建築写真』となってもいいのかもしれない。また建築で重要なのは雰囲気や人の気配というハイデッガー並みの指摘も良い。でもそれはどういうところから感じられるのかの突っ込みがやや不足。まあそこに目を付けているだけでも建築学科の2年生よりかはましである。
午後事務所で設備事務所との打ち合わせ。大盛りの内容で5時までに終わらず事務所を出て大学へ。コンペのシートを見ようと思ったが未だもう少し時間がかかりそう。今日は製図の提出日。各スタジオを巡回する。面白そうなものもぽつぽつ見られるが総じて図面のプレゼンテーションが稚拙である。
研究室の勉強会。1時間設計は住吉の長屋を都市に開け。減築可。増築は木造でというのが条件。輪読は松井みどりの『芸術が終わった後のアート』。この手の本は本物を美術館で見ていないと実感が湧かないものである。とにかくなんでもいいからモノを見て欲しい。建築とアートの繋がりは切っても切れない。
ウィーン工科大学で木造建築の耐火性能の研究をしているTさんが学会出席で一時帰国、理科大にも顔を出してくれた。日本はさまざまな意味で(火災保険料が高いなど)木造が発展しないようになっていると嘆いていた。ウィーンではそういうことは無いと言う。
話に夢中になっていたらドクターの中間発表に遅刻(ごめんなさい)。その後九段下で会議、場所を移動して神楽坂で会議。会議は明らかに信大より多い。そのうえ内容の重複が激しい。今日の内容など99%教室会議で聞いたことである。
会議後雑務、雑務、飯、雑務。夜アンソニー・フリント(Flint, A)渡邊康彦訳『ジェイブズ対モーゼス―ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』鹿島出版会(2009 )2011を読む。先日ジェーン・ジェイコブズの名著『アメリカ大都市の生と死』を通読したのでこの本も読んでみた。苦労の末アーキテクチャラル・フォーラムの編集者になった彼女が1956年ハーバード大学でのアーバンデザイン総会で上司の代役で講演した。ここにはディーンのセルト、ヒデオ・ササキ、ビクター・グルーエンなど再開発推進派のモダニストがごろごろしていたわけである。もっと言えばハーバードこそそういう輩を輩出する、彼女が反発してきたあらゆるものの権化だった。
そこで彼女は非難承知で都市再開発を否定し既存の近隣居住区画のごちゃごちゃ寄せ集めを模倣せよとぶったのである。この発言はやはりかなり冒険だっただろう。勇気ある言葉だと思う。ハーバードモダニズムはこれに大ブーイングを示したが彼女に拍手したジャーナリズムも一方にあり、それから彼女の闘いが始まるわけである。
この本思わず読みふけってしまう。彼女の理論というよりその戦いぶりに血わき肉躍る。僕の仲人をしてくれた恩師の奥さんがまさにこうした運動を現在しているが、ジェイコブズと彼女がだぶって見えてきた。
事務所でスケッチ。150×150×6のカットTを@600で並べた天井の6ミリの小口を赤く塗ろうと思った。そのカットTがぶつかる壁に6ミリのすかし目地をつけて2階の床まで下ろす。このすかし目地の底も赤く塗る。あくまで底だけ。
夕方大学に来てコンペの状態を見る。少しずつ進んでいる。
夜研究室でCPUにソフトをインストールするのだがなかなかうまく入らない。アカデミックエディションは意地悪されているのだろうか?やたら時間がかかる。仕方なく積んであった新書を抜き取り読む。有馬哲夫『原発・正力・CIA』新潮新書2008。原爆を落としたアメリカはソ連が核を保持したことに脅威を覚え、原子力安全利用キャンペーンを張る。その一貫としてアジアに目を向け、日本には核と通信網を普及させたいと考えた。そんなアメリカと通信網を作りたく政治家として花をさせたい新聞屋正力松太郎の利害が一致する。その仲介にCIAが入り、新聞とテレビで核の安全利用の大キャンペーンをはった正力は見事新聞界から政界へ打って出た。絵にかいたような話だが、それを若くしてバックアップしたのが中曽根である。
そんな歴史を振り返ると、アメリカと結託し原子力を巧みに利用し最大の利益を得たのは自民党以外のなにものでもない。この事実に彼らは一言も無いのだろうか?
朝一で古河へ。クライアントの部長さんと一対一の打ち合わせ。3時間半昼飯抜きで実に多くのことが打ち合わせで来た。もう一回こういう打ち合わせするかな。
2時ころ古河から上野へ。車内で記録を書いて事務所に送る。
行き帰りの電車でディビッド・ホン、ジャン=ポール・エリエール『世界のグロービッシュ』東洋経済新報社2011を読む。対訳がついているが英語で読む。世界語としての英語は今や英語をネイティブとしない国民によって多く話されている。例えばスペイン人が日本人にコミュニケーションをとろうとすれば8割がた英語を使うであろう。そこで使われる英語はもちろんネィティブイングリッシュではない。スペイン訛りと日本訛りのヘンな英語である。ドイツ人が中国人に話す英語だって同様である。国民の数だけ英語があると言ってもいい。そんな世界ではもはやネィティブイングリッシュにどれだけの意味があるかというのがフランス人著者たちの問いである。そして世界英語としてのglobishを考案した。1500語の単語。時制を単純化。イディオムを使わない。
確かにこの英文は十分深い内容を日本語のように読み進めることができる。イングリッシュネイティブにグロービッシュを書けと言えば困難かもしれないが、日本人に書けと言えば恐らく簡単に達成できるだろう。事務所に戻りさっきの記録の説明をしてから大学へ。コンペ打ち合わせ、そして製図のエスキス。
朝一で教室会議。とにかく資料が多くて短時間では理解ができない。午後事務所に戻り打ち合わせ。夕方再び大学へ。行ったり来たりできるのは地の利である。コンペの打ち合わせをしてから講義。ゴールデンウィークを過ぎると学生が減ると言われていたが確かにぐっと減ってきた。講義を終えてから再びコンペのレイアウトを見ながら指示をする。段々と盛り上がってきたかな?研究室最初のコンペだからどこまでできるかわからないけれどこういうものはとにかく全力を振り絞ることに意味がある。だいたいの指示を出してからY,I,I先生と食事に行く。こうやって同僚の先生と食事なんていうことは信大ではあり得なかった。意匠の先生1人の信大では孤立していた。こうやって意匠の話をできる先生がまわりにいるって幸せである。理科大に移った意味はここにもある。家に帰るとかみさんに「理科大から帰ると楽しそうね?」と聞かれた。「うん楽しい」「良かったね」と言われた。そうかも。もちろんいいことだけではないけれど、いいことの方が悪いことよりかは多い。
最近自転車に乗ると体調が悪くなる。理由は分からないけれど今日はマスクして帽子かぶって大学に行った。午前中コンペの打ち合わせ。午後課題の敷地を再度よく見たく北の丸公園へ。武道館は誰かのコンサートで黒装束で化粧した若い男女が凄い人数集まっている。その脇を抜けて池を回り近代美術館へ「路上」展を覗くhttp://ofda.jp/column/。420円と安く、量も多くないけれどピリッと小粒でパンチのきいた展覧会。
帰宅後片山杜秀編集『思想としての音楽』講談社2010の中から片山杜秀VS菊池成孔と片山杜秀VS許光俊の二つの対談を読む。菊池の語り口は相変わらず鋭いし本音ベースでいいなあ。例えば現代音楽の音楽家(恐らく作曲者も奏者も)を菊池は三つに分類する。①マゾ上がり(退屈に耐えられる)、②頭が良くなってここまで来た人、③幼稚園のころから無調が好きだったりする(感性で退屈が好きな人)。この分類が既に凄―く冴えていると思うのだが、、、、先日、音楽の形式主義って快感レンジが狭いと書いたけれど音楽のプロもそう思っているということがこれで分かった。逆に言うと建築、まあ広く造形芸術を受け取る視覚というものは聴覚や味覚や嗅覚に比べると遥かに不快レンジが狭い、、、、という気がする。
さてもう一つの対談は片山が許に「最高の演奏」とは何かと聞く対談。ここで許はカラヤンとチェリビダッケの差をスリラーとドストエフスキーだと言う。つまり同じクラシックでも喜ばせる相手の領域が違うと言うわけである。それって良い表現だと思った。建築もそんな感じが常々する。カラヤン型の建築家とチェリビダッケ型の建築家がいたりする。もちろんカラヤン型の建築家の方が人気は上がる。
それにしても、音楽って片山にしても、許にしても、菊池にしてもきちんと評論する人がいるモノだと感心する。建築って批評の貧困な場所である。建築家が勝手に自分の都合のいいことだけを語っているに過ぎない。
1988年の朝まで生テレビで原発議論がなされたhttp://www.youtube.com/watch?v=yEwmEFmSi9I。その時の反原発の中心人物であった高木仁三郎が2000年に書いた『原発事故はなぜくりかえすのか』岩波新書を読んだ。高木さんは90年代に既に、古くなった原発の危険性、地震はもとより津波、火事などに起因する災害の可能性を訴えていた。もんじゅ、JCOの事故があっても抜本的なことを何もしない国のあり方を批判している。
また高木さんは東大理学部を卒業後60年代に日本原子力事業(三井系の原子力会社)で研究を始め、その当時の原子力推進民間会社の雰囲気を「議論なし、批判なし、思想なし」と書いている。原子炉周りの放射能汚染の状況を論文にして発表したら上司から理由もなく止めるように指示された。
原子力は国の方針で旧財閥系が組織されて開発を半ば強制的に後押しされた、その時事故に対する損害賠償の議論が皆無でアメリカが1957年にプライスアンダーソン法という法制度を確立したのに遅れること4年。1961年に原子力賠償法が制定された。しかしその責任限度額がアメリカは日本の10倍。そのせいでアメリカはリスクが高いと判断して企業が原子力事業から撤退しているという。一方日本は官の号令を断り切れない企業側が議論もなくずるずると継続しているのである。責任範囲が曖昧ないかにも日本的な状況である。
高木さんが原発津波事故に言及したファイルをダウンロード