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Aug 2011

都市と田舎の流動性を作るには

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by 卓 坂牛

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●建築トークイン上越2011のフライヤー(こういうものはやる前にアップするのでしょうが、備忘録なもので、、、とほほ)建築トークイン上越2011フライヤー
遅く寝たのだが起きたのは6時ころ。外は雨だが空気がうまい。朝食をてい山荘でいただき9時ころ学生の待つ公民館へ。川口としこさん僕、トムヘネガンの順でショートレクチャーをしてから昨日の議論の続きを行う。2時までぶっ続けトークをして各班まとめの発表。去年は「土地に潜在する力」というテーマで今年は「都市と田舎」だが出てきた話は去年とかぶるところも多々ある。つまり「都市と田舎」のネットワーク流動性がこれからは必要で、そのためには「土地に潜在する力」が鈎になると言うもの。
今年はコーディネーターとして北山恒さんが広井良典の『コミュニティを問いなおす』ちくま新書2009を読むように勧めていたが、広井氏の著作の中では前著『グローバル定常型社会』も重要で、この2冊を読むと現代は歴史的に見ても成長の時代ではなく定常の時代であることが納得される。そうなると限界集落に近い場所のあるべき姿も違って見えてくる。作るではなくメンテナンスであり、活かすか殺すかではなく維持。人を呼ぶではなく人を流す。流動性をつくるというものである。
人々が都市や田舎を流動的に生きるにはもちろん田舎の価値を見出し顕在化する必要もあるが加えて、地縁血縁、一生涯一職場、家族同居というような固定概念から解放されないと難しい。こうしたことは昔の話しというわけでもなく学生に聞いても十分その呪縛のなかにいることがよく分かった。
すべてが終わり先生たちは2台のレンタカーに分乗して越後湯沢を目指す。急いでいる2人を除いて駅前で珈琲を飲んでから夕刻の新幹線に。ひどく混んでいて席はばらばらである。

上越トークイン初日

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by 卓 坂牛

昨晩はひどい睡眠不足状態。9時半のマックスときで越後湯沢へ。車中来週審査をする博士論文を読む。テーマは分離派だが美学からの視点も入った美学の学生の論文である。自分は歴史の教員でもないから適任かどうかは分からないが、論文の現代的なアクチュアリティという視点から読み込ませていただいている。1時間で越後湯沢。渡辺真理さん、千葉学さん、山城悟さん、川口としこさん、古谷誠章さん、トムヘネガンさんと合流してレンタカーで浦川原へ向かう。現場で北山さん、篠原聡子さんと合流。
午後から学生を含めた上越トークイン。テーマは都市と田舎。夕方までみっちり学生とのトーク。夜は学生が小学校を宿舎にコンヴァージョンした月影の里で懇親会。利き酒大会優勝。

日の丸アイス

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by 卓 坂牛

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夜F先生の学会論文賞のお祝会食。市ヶ谷のフランス料理屋に出向く。食べ慣れないものだがフランス料理っぽくない素材の味を大事にした作り方が好みである。ほっき貝、ムース、冷パスタ、そしてメインディッシュのヒラメと豚ロース。クライマックスである、そしてデザートが三種類。この日の丸デザートはアイスクリームの詰まった桃にフランボワーズのソースがかかったもの。実に美しく最後を締めくくるにふさわしい。
食事の流れも音楽の流れも人の心を徐々に高めるようにできている。それが普通だよなっと考えながら今朝見た読売書法展のことを思い返した。
書の選抜展はどれも1000以上ある作品が巨匠のものから入選回数の多い順に並んでいく。日展もそうである。なので最初の部屋はなかなか見ごたえがあるがだんだんしぼんでいく。メインディッシュから始まりオードブルに進むのである。
順番がそうだということを知っていると後ろに進むほど見る方も力が入らなくなるし、展示も3段重ねくらいに密度が濃くなり注意散漫となる。本来逆に並べるべきなのだろうが、なにせ数が多いからそんなことしているとメインディッシュ食べる前に満腹になってしまう。しかし目を凝らしてみているとオードブルにもメインに負けない作品が多々。料理も同じだが。

形や構成の操作の仕方

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by 卓 坂牛

事務所で一日模型を作る。今週は小さなプロジェクトをひたすらスタッフと一緒になって考えている。世の中お盆だし、大学へは入れないし、あまり邪魔もされずに、雑用もなくとてもいい時間である。
昨日の続きだが、設計者は設計する時に形や構成を考えている。そしてそれはできた時の現れを予想しながら操作している。でも現れを予想するとはどういうことだろうか?それはできた時の像を想像するということなのか、できた時の雰囲気を言語化すると言うことなのか?
前者は可能であるが言葉の助けが無いと通り一遍のものになる。一方後者は現れを指示する語彙があやふやなので言葉が浮かんでもそれが適当な像に結び付かない。つまりこの作業はあまり生産的ではない。
そこで思うのは形や構成を考える時の思考方法である。形や構成は「現れ」よりか、遥かに言語化しやすい。そしてその言語はAに対して非Aという物差しの中で考えることができる。例えば直線的か曲線的か、広いか狭いか、太いか細いか、長いか短いか。構成であれば連結か分割か、包含か接続か、などである。こうした物差しの上で操作していくとその目盛の半ばくらいでその物差しとは違う次元の物差しが現れたりする場合がある。曲線か直線かを操作していると蛇のようなにょろにょろした感じとか、糸くずのような感じとかである。それらは比喩だったり、形容詞だったり、あるいは形の次元から現れの次元に飛ぶ場合もあるかもしれない。それはその時々で異なる。いずれにしてもこうした基本的な形や構成の操作の目盛を回しながら以外な場所に飛びだせるような気がする。
そんなことは恐らくだれでも自然にやっていることなのだと思う。もっと言えば、料理だって服飾だって、音楽だって表現のファクターの目盛を少しずつ変えることでいい味を出しているわけだ。スパイスの量を変えたり、生地の長さを調節したり、ビブラートの掛け方を変えたり、、、だからこんなことは当たり前なのだろうが、それを少しばかり意識的に方法的にやってみると展開がスムーズになるということである。

構成と現れの非平行関係

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by 卓 坂牛

建築の構成を単純な言葉で2分化してしまうと、それに対応する表現(現れ)も二つで終わってしまう。例えば開くか閉じるかなどという構成の分類を単純に2分するだけだと表現も二つ以上を探求せずに終わってしまう。しかし実は開くにも数種類の構成があるわけでそうなるとそれに対応する表現(現れ)もその数だけあるはずである。
例えば中野本町の家は閉じた住宅でシルバーハットは開いた住宅である。でも例えば中野本町のFL+400までが全周にわたりガラスだとこう言う空間は閉じていると呼ぶのも変だし、開いているというのもちょっと違う。こういうのは被(かぶ)さっているとでも呼ぶのがいいのだろうか????
日本語では(恐らく他の言語でも)対義語の中間を表す語彙は少ない。だから間は程度を表す形容詞をくっつけて表現してしまう(少し開く、開く、非常に開くetc)。確かに構成はこういう程度問題として片づけることができる。しかし問題は中間に現れる空間がその対義語の程度以外の別の質を表す時に生じる。先程の例もそうである。400の帯が回る時それは開くとか閉じるというような水準とは違う水準において現われているのである。つまり構成と現れは、あるところで言葉の対応が乖離する。その乖離するところが表現の操作としては重要なように思うわけである。

後藤新平の震災復興

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by 卓 坂牛

震災後によく後藤新平を見習えという言葉を聞いた。後藤新平とはもちろん、関東大震災後に発足した山本内閣の内務大臣であり、帝都復興院の創設に尽力し自らその幹事長となった人物である。後藤はそこで様々な人物を適材適所に配置して稀有壮大な提案をする。因みにその時建築局長に任命されたのが佐野利器である。
しかし後藤の提案は当時野党の政友会に財源の問題などの追及を受け大きく修正妥協した。山本は政友会の妥協案を蹴って衆院の解散をするほどの勇気を持たず、後藤も否定するほどの信念は無かった。山本内閣消滅と同時に後藤も120日間の在任期間を終えて職を辞し、その末に復興政策の実行は山本内閣を継いだ清浦内閣によって行われた。
後藤新平研究会編著『震災復興―後藤新平の120日』藤原書店2011を読みながら後藤の瞬発力は確かに凄かったものの、結局弱腰の総理大臣のもとで壮大な計画は打ち上げ花火に終わったと感じた。政治はいつの時代もこんなものかと少々期待はずれ。当時の政治情勢などをよく知らぬものが偉そうに発言できるものでもないのだが、90年前の復興が果たして現在の姿よりはるかに優れていたものかどうか僕にはよく分からない。

雲海を持って帰る

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by 卓 坂牛

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吉岡徳仁のデザインが好きである。三宅一生のところでプロダクトや店舗をデザインしているくらいに思っていたのだが、去年ネイチャーセンス展で羽毛を風で吹き散らすインスタレーションを見た時に妙に共感した。表現方法はとてもストレートだし、なんの捻りもないのだが逆にそれが気持ち良かった。最近彼の書いた『みえないかたち』アクセス・パブリッシング2009を読んだらこの人の考えていることが僕もよく思うことであると分かった。
例えば飛行機に乗っていて窓から見える雲海を自宅に持って帰りたいと言う。自然の一部を切り取りとろうという発想である。僕もよくそう思うのだが建築屋はそこで終わってしまう。でも彼は実際にそんなことを感じさせるようなものを作ってしまう。凄いなあと思うし彼のテリトリーはそんなことを現実化する可能性を持っている。
しかしそんなあきらめを持たずに建築でもそんなことができないか?チャンスがあったらチャレンジしてみたい。

いろんな学生と会う

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by 卓 坂牛

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朝、防衛省の周りをジョギング。暑い。途中で事務所の鍵を空けエアコンつけてから家へ。シャワー浴びて再び事務所へ。理科大研究室の学生が来てコンペの打ち合わせ。節電で大学入れてもらえないので仕方なく、、、、。結局事務所で電気使っているのだから節電になってない???
午後白金にお墓参り。かみさん方の甥っ子と会う。バークリーから一時帰国中。女の子のような長髪になってすっかりミュージシャン風である。バークリーでの授業風景を動画で見せてもらう。凄いミュージシャンが沢山教えに来ている。さすが。
夕方事務所に早大で建築勉強中の別の甥っ子が来る。いらない洋書や雑誌をあげようと思って品定め。ついでに我が家にも来て要らない本の品定め。とりあえずなんでも欲しいと言うことなのでなんでもあげることにする。夜は甥っ子と一杯。3分遅れてビハインドとなった課題を見せてもらう。テーマは30年後の自分の小学校。少し新しい課題の作り方である。

自分のやりたいことが分かっていること

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by 卓 坂牛

週末がなんやかんやでつぶれていたので行けなかったジェクサーに行ってみたらお盆休みだった。しかたなく地下鉄で外苑前に出てギャラリーワタリで草間弥生を見るhttp://ofda.jp/column/。この人の打ち込み方は半端じゃない。凄い人だ。
昨晩夕食をともにしたニューヨークの友人が「私は自分のやりたいことが分かっていてそれをしている人が好きだ」と言うので「同感」と言って盛り上がった。草間はもちろんそんな人だ。しかし我々の周りを見回してそういう人がそんなにいるわけでもない。
オンサンディーズで草間弥生『無限の網―草間弥生自伝』作品社2002と中原昌也『死んでも何も残さない』新潮社2011を買う。面白そうな写真集がいろいろあったが重そうなので買わない。ワタリウムの隣のFUGAという植物屋を覗いてからぶらぶらと歩いて家へ戻る。ジェクサーが休館だったので少し小走りで運動した気になる。帰宅後シャワーを浴びてサラダを食べてから買った本を読む。草間も中原も自分のやりたいことが分かっている人だしそれをやっている。こう言う人には実際会って話をしてみたいものだ。

篠原一男の論理性

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by 卓 坂牛

本田勝一は日本語の通説となっている非論理性に反論し、「非論理的言語など存在しない」と主張した。黒木登志夫は(『知的文章とプレゼンテーション』中公新書2011)この主張を非論理的であるとして「『完全に論理的な言語』は存在しないというのであれば、納得がいく、もし、完全に論理的な言語を求めるのであれば、それは数学であろう・・・」と述べた。そして改めて主語欠乏症を日本語非論理性の要因として、自らの文章の3割に主語が欠けており、その7割が私、我々などの1人称であることを明らかにした。
それを読みながら篠原一男の文章指南を思い出した。卒業後何度か氏に文章の赤入れをしていただいたが、その時によく言われたのが主語(私)を入れろであった。この時は自らの主張を明確にせよと言う意味だと思っていたのだが、上記黒木の話などを読んだ後だと、これは数学者篠原の論理性の表れかもしれないと感ずるしだいである。