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Sep 2011

ケアは金で買う

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by 卓 坂牛

朝一で水戸へ。車中クライアントとスケジュール、予算の話をする。構造は木造にすると言ったら意外そうな顔をする。木は耐久性の点で不安だと言うので模型を見せる。構造を露わにした荒々しさを作るには木が最適と説明。模型を見て納得してくれた。現地で周辺状況や展示する屏風を確認、採寸。昼をいただきスタッフは市役所へ、僕は東京へ戻る。
帰りの車中上野千鶴子『ケアの社会学』太田出版2011を読み始める。上野千鶴子ケア学の総まとめである。500ページ近い大部の書。先ずはケアという概念の捉え方が上野流である。すなわち上野にとってケアとは家事労働と同等に極めて社会構築的概念なのである。つまり家事、育児、セックスはある文脈では愛の行為であり、ある文脈では労働となる。加えてこれらは有償の場合もあることで無償であることが問題化される。ケアも同様で、ある文脈では倫理的行為であり、ある文脈では重荷となる。そして有償にもなることによって無償であることが概念化される。
こうしたケア概念の捉え方によってこの行為の問題系が鮮明になる。ケアとはもともと個人的なできごとであり社会的問題ではなかった。それは家事と同じようなものである。しかしこれらを個人的領域から政治的領域に引きずり出すことで初めてこれらがproblematize(問題化)されたと上野は言う。
しかしケアが社会問題化したのは何も学者の力によるわけでもない。一言で言えば大家族の時には同居している子供によって可能だったケアが、核家族化及び嫁の労働によって困難な時代になってきたのである。その時ケアは子供ではない第三者の手に委ねられ、それをするべく公に財源が無い時、商品化され巷に出回ってきたわけである。ここにケアは社会現象として現れざるを得なかったわけである。
昨今我々の親世代を見ているとケアのグレードの差に驚かざるを得ない。簡単に言えば金のある人は豪華なケアを買えるということである。

スペイン人は赤がお好き

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by 卓 坂牛

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午後研究室でしこしこ模型を作る。夕方セルバンテス文化センター東京に行く。この施設は世界中でスペイン語圏の文化普及を行っている。先日友人に是非来たらと誘われた。UIA関連のイベントとは聞いていたが一体何をやっているのかは正確には聞いていなかった。まあ大学のそばだし、スペイン語圏建築のファンなので寄ってみた。来てみたら「景観再生」と題したシンポジウム。先ずカタルーニャの建築家、ミゲル・アギラル、カルロス・フェラテル、ジュセップ・フェランド、エステバン・テラダスらの連続プレゼンがあり、それを受けて隈さんのレクチャー。
スペインの建築を一年ぶりに見てやはりいいなあと思った。映された絵は殆どバルセロナなのだが去年のマドリードを思い出す。彼らの街にはオーダー(規律)のようなものが歴史的に刻まれており、それを抜きに新しい建築はできないのだが、その中で新たな規律を上乗せしていく決意のようなものが感じられる。
シャンペンを飲んでトイレを探したが見つからない。女子トイレはいくつもあるのになあと思ってサインをよく見たら、この建物内のサインは全て赤なのである。男子トイレも赤だから見つからないわけである。

コンサマトリー化する若者

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by 卓 坂牛

児童養護施設のお金がやっとまとまりゼネコンへ設計説明を行う。200枚近くの図面を3時間くらいで理解してもらうのは無理なことだがとにかく最初が肝心。構造からは建て方要領のアドバイスまで行われた。本来ゼネコンがやるべきことなのだが心配なのだろう。
行き帰りに古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』講談社2011を読む。著者は弱冠26歳の論客である。日本の20代の若者の生活満足度は2010年の時点で男子で65.9%女子で75.2%だそうだ。過去40年間で15%近くも上昇している。景気低迷+就職難で若者の状況はどんどん悪化しているのにも関わらずである。しかし、じゃあ世の中何の問題も無いのかと言えば、20代の日ごろの生活の中での不安感はここ20年間くらいで30%以上も上昇している。幸福だけど不安なのである。大澤真幸はこう解読する。幸福と言うのはそれ以上の幸福の可能性が無い状態の時に生まれる感情だと。「今日よりも明日がよくならない」と思う時、人は「今が幸せ」と答えるのだと。そしてこの今の幸せを大事にする感性をコンサマトリーと呼び今の若者はコンサマトリー化していると分析される。この解読はなんとなく妥当。しかしそう思うと少々もの悲しい。身の回りの小さな幸せに満足してしまうと言うことは、未来への夢など持ち得ないから。もちろんそんな生き方を否定しないけれど、それでいいのだろうか?

知識が身の回りを切り分ける

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by 卓 坂牛

早めの夕食を学食で食べながらT先生の自然観察という授業のことを聞いた。学生と大学周辺を歩き何が見えるかを教えるのだそうだ。夜の木のシルエットだけ見ながらこの形は何の木と教える。蜘蛛の巣の中に巣を食べる小さな蜘蛛がいることを教える。普段何気なく見ている風景が知識によって分節化されていくのだとT先生は言う。
6時から卒制の中間発表会。ゲストクリティークに新建築元編集長の大森さんをお呼びした。30人弱の制作者にA1、1枚をピンナップしてもらい巡回して内容を制作者にヒアリング。講評。その後大森さんに町の読み方などについてお話いただく。理科大前の靖国通りからは西に富士山、東にスカイツリーが見えると教えられた。なるほどそう言われれば確かにこの道はそんな軸にのっている。
普段見えない富士さんもT先生が言う蜘蛛も視覚表象というよりかは知識表象である。人間ってそんな風に知的に世界を切り分けどんどん見えないものが見えるように(見えないものを見るように)なっていくのである。

経営工学との連携プロジェクト

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by 卓 坂牛

午前中教室会議。昼カロリーメイトを頬張りながら事務所に行って打合せ。3時にまた大学へ。今日は信大のM2相手に修論ゼミ。僕の学生を受け入れてくれたのは心理学の研究室と歴史の研究室。心理学の方では触覚実験から設計、もう一人は色実験から設計をしようとしている。歴史系は映画の分析から設計、もう一人はスティーブンホールのドローイング分析である。まだ深みはないのだが流れは悪くない。
夜経営工学の先生と打ちあわせ。先日発表した某企業のCIづくりに続き第二弾の企業とのコラボプロジェクトを持ってきてくれた。今度もかなり有名な企業相手のプロジェクト。テーマは「本社ビルのイメージづくり」。プレゼンは12月半ば。4年生は卒業設計でいっぱいいっぱいだし、2年3年も課題の締め切りと重なりそう。しかし建築の学生にしたらダイレクトなテーマだし、大学時代にクライアントへのプレゼンをするチャンスなんて滅多に無い。チャンスを逃すな。是非参加してほしい。
誰もやらなければ僕がやろうかな??

八潮のポンプ

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by 卓 坂牛

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今日は八潮day。午前中は公園の打合せ。午後は八潮のツカイカタと称し5大学で考えてきた案を市長、市民を前にプレゼン。学生の発表も4年前に取り組み始めたころに比べると遥かに上手になった。先輩の背中を見ながら少しずつ上達するものだ。
今年のワークショップは八潮の特徴を3つの視点から捉えそこで様々な案を出して、その一つを実際に作る。3つの視点とはランドスケープ(水路)、防災(水害)、コミュニティ。例えば防災班からは花壇で水害ハザードマップを作るなんていう案が出てきた。ハザードマップは恐らくどんな行政でも持っているのだが住民はその内容はおろか存在をも知らない場合が多い。
水路班からは八潮特有の網の目のような水路を使用しているものしていないものに分ける。使用しているものは釣りスポットとして、不使用のものは緑化したり遊び場にする。ポンプ小屋は歴史的遺産として修復する。などの案が提示された。
ポンプ小屋を昼食時に見学。川から用水路へ水を汲みあげるためのポンプが置いてある小屋である。今回の台風で床が水没していたのでポンプがよく見えないが、こんなポンプが残っているのは全国でも大変珍しいそうだ。

運動会

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by 卓 坂牛

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午前高3になる娘の運動会を見に行く。卒業までに一度くらいは見たいと思い出かけた。新校舎が一部完成し、きれいなキャンパスになりつつある。昔の煉瓦校舎に因み新しい建物もレンガタイル張り。プロポーザルだったそうだが、三菱地所設計がとったという。
この学校の運動会はおもしろい。中高一貫なので運動会もいっしょにやる。そして一般に紅白対抗、クラス対抗で行う運動会を学年対抗でやる。中学生と高校生では体格も違うから運動能力も違うわけでどうあがいたって先輩に勝てるわけがない。それでも学年対抗でやるのが伝統だそうだ。たまに高校2年生が3年生を制して優勝なんて言うこともあるそうだが今年は順当に3年生が優勝。
午後事務所でスタッフと試行錯誤。夜『思想としての「無印良品」』を読み終える。無印とは両義性の産物だった。それはノンブランドのブランドと言う意味ではなく、白紙に様々な絵が描けると言う意味での両義、多義性である。

ジャブ建築とボディブロー建築

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by 卓 坂牛

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朝寝坊。家の周囲を一っ走りしたら突然現れた槇さんを真似したような建物。釣り文化資料館という館銘板がついている。こんな施設が世の中にはあるんだ。調べたら設計は大成建設。
シャワー浴びて研究室へ。東北の保育所のコンペ打合せ。新宿アートフェスタと締め切りが重なるがやることにする。
夕方研究室を出て埼玉の阿部勤さん自邸にお邪魔する。その昔阿部さんの五本木にある事務所を訪ねたことがある。その時に自邸の写真も見せてもらいいつかは見たいと思っていた。念願叶う。200㎡ほどの角地の敷地に一辺約7.5mの正方形を45度振って置いてある。そうすると三角形の余白が4隅にでき、そこに巨木が建っている。
建物の置き方だけでも参ったという感じだが、中がまたすごい。7.5メートル角コンクリート殻の中に3.3メートル角コンクリート殻が貫入している。中心のある家と言う名を本人がつけているくらいである。なんと1975年の竣工時から2011年まで36年間に86回雑誌に掲載されたそうだ。こんな住宅は滅多にあるまい。ギネスものである。
実は私が上北沢に住んでいたころ、娘の通う幼稚園が阿部さんの設計だった。うち放しのブルータルな外観。幼稚園とは思えぬ強そうな建物だった。内外打ち放しだったように思う。スタッフの人が言っていたが阿部さんは未だに打ち放しに断熱材を入れないらしい(もちろん自邸に断熱材など入っていない)冬に「寒い」というクライアントからの電話が来ると「冬ですからねえ」と言うそうである。さ す が。朝見た軽いジャブ建築とは異なる重ーいボディーブロー建築である。
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無印とgeneric

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by 卓 坂牛

『思想としての「無印良品」-時代と消費と日本と-』千倉書房2011によれば無印を作る時に当時の生活者意識の分析が行われたそうだ。80年の話しである。そこで出た4つの分析結果は①余分なものは買わない、②経済合理性へ、③自分なりの生活追求、④ものへのこだわりだそうだ。これを見ると、①②は無印に直結しそうだが、③④は一見繋がらない。自分なり、個性化ならもっと個性的なデザインの方がと思いやすいが当時の個性的とは持ち物ではなく生き方としての個性だったようだ。加えて特徴的なデザインは逆に大勢が持てば人と同じということになりその人の個性を否定することにもなりかねない。つまり持ち物は主張していないことを主張する必要があったわけである。
無印の潮流はコールハースのgeneric賛美とも根底でつながる時代の空気である。個性的であるのはあくまで人であってその周りのものは無個性であることが望ましいわけである。

杉本博司の眼

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by 卓 坂牛

朝から不穏な空模様。夕方には東京でも時間20ミリ降ると言う予報である。大学も休校になった。午後構造事務所との打合せ。YAMAの構造設計をしてくれた長坂さん来所。彼は打ち合わせにパソコンを持ち込んでその場で様々条件下の材厚を検討してくれる。今回も楽しみである。
終わって大学の会議に行こうと思ったが幸い会議も台風で延期になった。夕方信大のobが来所。すっかり手帳から彼の来る予定が抜け落ちていたが会議の延期で事なきを得た。夕食をともにしてから帰宅。杉本博司の『空間感』の残りを読む。この本は彼が個展をやった美術館との攻防記であり、その建築家との美的な交流やその建築家の他の作品を撮影する顛末なども書かれている。
その一つとしてヘルツォーグとの関係が面白い。時間的な順序は定かではないが、杉本はデ・ヤング美術館で個展をやっている。そしてバーゼルのシグナルボックスを撮っている。彼らはそんな仲なのだが、ヘルツォーグの事務所で杉本はヘルツォーグにプラダを撮って欲しいと頼まれこう考えた「撮る撮らないは私の自由裁量で、私が建築家に頼まれると、私の判断に狂いが生じてしまうから・・・・頼まれなければ撮ったかもしれないのに・・・・」そして彼は撮っていない。因みに恐らくデ・ヤング美術館も撮っていない。彼の採点表ではデ・ヤングは三つ星である(五つ星中)因みに彼の評はこうである「・・・ギャラリーは巨大な二つの箱状で、何の創意工夫も無いが、機能はする」
公の本でヘルツォーグをここまで言える玄人はいないだろう。杉本の美観の好みはあれども、歯に衣着せぬこういう率直な発言は胸が空く。
僕のニューヨークの親友が杉本は在米日本人アーティストの中では千住などとは違い本格的だと評価する。それを聞くまでも無く彼の眼は正確だと感じた。