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by 卓 坂牛
オフクロの形見の中には子供たちが贈ったものが山とある。本も多く、僕があげたものは僕が読みたかったものなのでそっくりもらって帰ってきた。その中にドウス昌代『イサム・ノグチ―宿命の越境者』上下講談社2000がある。ドウス昌代は叔母の大学の同級生で彼女の勧めでこの本をオフクロに贈った気がする。イサム・ノグチの研究家ではないから詳しいことは知らないが、やはりドウスさんのような在米日本人という立場はハーフの芸術家の調べ物をするには好都合なのかもしれない。それにしてもハーフであることこそがイサム・ノグチをしてアーティストの道へ進ませたという事実はなかなか興味深い。帰属問題から逃れるために自由の世界に没入したというのがノグチの言葉である。当時だからこそという気もする。
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by 卓 坂牛
朝、学科のホームページを新しくするための打ち合わせ。セットエンブの入江君と井上君が来研。コンテンツは助教の呉君がまとめてくれた。そんな説明をしながら他大学のHPを見る。なんだかどこも似たり寄ったりである。見やすさの差は多少あるもののデザインがパッとしない。すると彼らがプリンストン大学建築学科のHPはなかなかいいのではというhttp://soa.princeton.edu/。見るとなるほど素敵だ。写真をトップに持ってこないで字だけというのは意表を突いている。しかしこれはOFDAと同じである。僕やセットエンブの単なる好みなのかもしれない。でもある程度他大との差異化が必要なのでこれも1案である。「プリンストンを超えるデザインをお願いします」と頼む。
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by 卓 坂牛
理科大は都心にあるから何処にいようと30分あれば大学に着く。家と大学を数往復なんてざらだよと山名さんに昔言われた。そんな非効率なことはするまいと思っていたのだがスケジュールは自分の思い通りには造れない。当日急にたずねたいという飛び込みの電話が入る。それも場所を指定してくるのだが何時に何処に居られるかはそう簡単に読めない。なんだか中途半端な余り時間ができたりもする。
今日は突然の電話で6時にOさんと会う。だいぶ前にもらった電話の続き。信大の北側、川を渡った住宅地。その辺りにオーナーが好意的な空いた土地が10個くらいあるので何か提案できないかと言う。「提案って何を???」「いやーそれが分からない。一戸建て賃貸とかないかなあ?」と言う。そんなのありっこないだろう、そんなお金があるのなら空いた民家を改造した方がよほど豊かな空間が出来ると言うと、「そうだよねえ」と同意する。長野は戸建ても土地と併せ考えれば安い。信大時代の先生たちは若くても戸建に住んでいる人は結構いた。一番大きい土地に6軒くらいまとめてミニ開発するならあるだろうなあと言うと、では少し検討しようと言うことでまた次回。
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by 卓 坂牛
信大の後輩の先生から同窓会誌に寄稿して欲しいとのメールをいただく。高々6年程度いた教員に対して光栄な寄稿依頼である。ありがたく引き受け30分くらいで思いを綴り返信した。「恩師からの便り」というタイトルでお願いしたいと言われたが、そんな大それたことを書ける身分でも無いので僕が東京に移り感じた国立と私立の差、そして信州で得た恩恵について書いてみた。以下その全文である。
長野に行かなくなって半年。まだ長野が恋しいという気持ちになるほどではありませんが、卒業まで面倒見切れなかった研究室の教え子たちが今頃何をしているのだろうか?とふと気になることがあります。
私は今年の4月から東京理科大学工学部に籍を移しました。初年度から卒論生を16人受け持っています。本来なら卒論生はプラス2人、加えて院生を12人担当しなければいけないのですが初年度と言うことで配慮いただきこの数字となっています。とは言え信大での担当数の3倍近い学生数です。先ずはこの量が国立と私立の差を象徴していると感じました。加えて研究室の面積がこの人数に対応していません。基本的に4年生は研究室に場所はないというのが私立の宿命のようです。
つまり学生1人当たりの先生の数と施設の面積が圧倒的に小さいのが私立です。もちろん都心にあるのだからという理由もあろうかと思いますが、東京にあっても国立は十分な面積と先生の数を備えています。そんなことは承知の上で移動したので、もちろんこれは愚痴でもなんでもなく事実を述べているに過ぎません。
一体こういう状況は何に起因しているかと言えば、理由はいろいろあれども最大の要因は私学に対する補助金の額によるものと思われます。日本の教育予算は世界的に見ても低レベルであり、特に私学への補助は低いのが実状です。私学が日本の優秀な人材を輩出しているという現状を鑑みれば国はしかるべき補助を出すべきだろうと言う人もいます。国立の倍以上のお金を出してこれだけ不利な条件の場所に入学するというのは普通に考えるととても変です。それを変なことと思わない状態にしているのは私学の伝統と教員の質の高さと運営の知恵でしょう。それにしても大きなギャップです。
さてここまでは半年の間に国立と私立の違いで感じたことです。ここからは私が信州で受けた最大の恩恵について記しておきたいと思います。
私は2005年から6年間信大で教育、研究にいそしんで参りました。その間私なりに信大建築学科の意匠についてボトムアップを図り、日本国内で建築意匠の世界に信大ありというプレゼンスを確立できたと思っています。また研究分野では自らの博士論文を提出させていただきました。こうした意味で教育研究の双方で大変有意義な時を過ごすことができました。しかし私にとって何よりも重要だと今感じているのは私自身が信州で貴重なものを得ることが出来たと言う事実です。それは一言で言えば自然をリスペクトする気持ちです。建築のデザインにとって自然と言うのは有史以来とても重要なテーマでした。ところが近代世界になって自然は不要なものとして横に置かれました。建築以外においても世の中の思潮がそうだったのだと思います。そして21世紀に入りそうした流れは変わりつつあります。そうした時期に僕は東京を抜け出て長野の文化や生活に浸りました。その中で「自然」と言うものが染みわたってきていたようです。こういうことに僕は気がついていなかったのですが、東京に戻り私の継続的なクライアントにこう言われました。「長野に6年間いて変ったね」と。「何が?」と問うと、モノの見方が変ってきたと言うのです。どういうことかと問うと僕の発想が建築だけではなくその周囲に、つまり環境に、つまり自然に基づいたものに変ってきたというのです。
信大時代に学生と設計活動や卒業設計を行う時、市役所の方たちと建築や町づくりについて語る時、自然は大事なテーマとなることが多々あったわけですが、それが血肉化しているというような意識はありませんでした。しかし人に言われて「ああそうかあ」と自覚しました。
理性的にエコロジーなどと叫ぶのは僕の好みではありません。特に建築家が声高にそういうことを言うのをあまり好きにはなれません。そもそも建築を造ると言うこと自体がエコロジカルでは無いのですから。なので、自然と「自然」を語れるようになれるまではそうしたことに強く関与したくないと思っていました。ところが、信州の6年間はどうもそれを可能にしてくれたようです。
建築よりも常にその周囲に目が向く。そうした自分の感覚を2010年に一冊の本にまとめました。それはArchitecture as Frameと言うタイトルの作品集です。建築は周囲の環境を切り取るフレームに過ぎないというのがその趣旨です。この考え方は信大に来る前から僕の中に胚胎していましたが信州の6年間が無ければ結実しなかったと思います。そしてその6年間の内実は僕の教え子たちへの指導、同僚の先生たちとの会話、役所の方々や市民とのふれあいだったと思います。
「自然」を自然に考える力を与えてくれた信州に感謝しています。
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by 卓 坂牛
西村清和の『イメージの修辞学』理想社2009を大学近くの蕎麦やでカレーうどんを食べながら読む。その中にピカソの≪牝山羊≫(1950)という彫刻作品が出てくる。この作品の肋骨部分はゴミ捨て場に落ちていた網籠を用いて造ったそうだ。ここである人はこう言う。ピカソは網籠を肋骨のように造ったと。これは肋骨を網籠のように造るのとは少々違う。言い換えれば前者は肋骨のような網籠であり、後者は網籠のような肋骨である。まあどっちに見えやすいかという程度の問題ではあるが一応こういうのを造形的隠喩というそうだ。
なんていうことをコンペの作業を終えて夜地下鉄の中で思いだした。帽子hatのような形をしている小屋hutなのか?小屋hutのような形をした帽子hatなのか?ついでにもう一つくらい違うものに感じられてもよいのだが。
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by 卓 坂牛
体調今一つの月曜の朝。昨晩送られてきたコンペ案の平断面を構造へ。電話で打ち合わせるが送った3案の内2案はけんもほろろに否定される。まあコストも厳しいのだからおっしゃることも分からないではない。残った1案を描き直して再度送る。少しは相手にされた。まあこれでやるしかないか。そのスケッチを研究室に送り模型を作っておくように指示して夕方行く。なんだかメキシカンハットのようである。オーストラリアハウスなのに。そう言えば昔かみさんに買ってあげたヘレン・カミンスキーの帽子はオーストラリア製だった。あんな形も面白いのだが、、、、、、
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by 卓 坂牛
そう言えば今週は横浜トリエンナーレhttp://ofda.jp/column/に行こうとかみさんと約束していたのを思い出した。起きてきたかみさんに「行く?」と聞くと特に変更なしとのこと。飯も食わずさっさと家を出る。丸の内、副都心、棟横と乗り継いだのだが、考えて見れば南北線で一本であることに後で気付く。車中山本学治『素材と造形の歴史』SD選書1966を読みながら土の重要さを思う。現在勧めているコンペで建物の大半を土間にしようとしているのだが、その心は土の『自然性』にある。土は最も自然に近い空気を作れる材料だ。次にガラスの章を読みながらガラスとはすなわち光であることを再認識。土も光も自然からの贈り物。この本は建築にとっての『自然』を再考させる。馬車道で降りてバンクアートへ。アートは常に建築のテーマを先取りする。土やガラスが建築とは違う現れ方をする。
●デワール&ジッケル 無題
●マイク・ケリー シティ3
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大きな台風が来たのだが朝からあまり雨は降らない。内藤廣の『構造デザイン講義』王国社2008を読む。うすうすそうだとは思っていたが、グッゲンハイムもミレニアムブリッジもザハも建築として評価していないのは内藤さんらしい。午後ギャラ間に行ってみた。チリの建築家アラヴェナの展覧会。経済的な展覧会ということで展示物は極めてシンプル。ふわふわと風船が浮いていた。あまり建築展という感じではない。すごーくいいと誰かに言われて来たのだが建築展と言うよりかはインスタレーションである。。夕方大学でコンペの打ち合わせ。延々と夜中まで議論。なんとか方向性は出たのだが。先は長い。
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夕方大学で後期3年生製図非常勤講師の方と打ち合わせ。3年後期は4人の建築家にそれぞれスタジオを持っていただく。課題も其々の先生に考えていただく。今日はそんなみなさんの案を聞く日でありどんな案が出てくるのか楽しみであった。結果下記のような4つのスタジオが完成。
青島裕之さんのアーバンデザインスタジオ、
多田脩二さんの構造デザインスタジオ、
川辺直哉さんの都市の公共空間スタジオ、
亀井忠夫さんのターミナルコンプレックススタジオ
それぞれとても特徴的な視点があり3年生の課題としてはなかなかユニークだと思う。
ところで長野市庁舎コンペのヒアリング者が決まったと聞いた。槇文彦、岡田新一、仙田満、日本設計、佐藤光彦。是非案を見たい。しかしネット上には見つけられない。提出した方から聞いた情報なので確かだとは思うが。
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by 卓 坂牛
理科大で夏休みゼミ。卒計の意向を聞く。その後コンペ打ち合わせして坂牛研始まってほとんど初めての宴会。後期製図の非常勤の集まりに来ていた柳澤潤氏も参加。彼は来年から東工大の連携准教授だそうだ。
宴会のお店は飯田橋と九段下の間の裏の方。外からはRC2階建てくらい見える。店に入るとカウンターしかない。そのカウンターの後ろに急こう配の階段がある。いや殆ど梯子である。その梯子を登るとなんとRC打ち放しの天井高1.3メートルくらいの10畳間くらいの空間がある。つまり屋根裏部屋である。屋根裏部屋だから窓は無い。家庭用の小さなクーラーが一台ついている。そこに10人以上の人間が入るととんでもなく暑くなり空気が薄くなる。もちろん煙草なんか吸うと酸素が減るのでタバコ吸う人間は下に降りて道路で吸うということにする。梯子の周りには「落下注意」壁には「頭上注意」の張り紙。数名立ち上がる時に脳天をコンクリートの天井(というよりかは屋上スラブ)にぶつけていた。
こんなお店があるんだ!!!