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Oct 2011

ミドリが好きな日本人

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by 卓 坂牛

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先日、とある計画敷地前の公園を歩きながらこの建物に入ると公園(ミドリ)を感じるようにしたいと思った。そうしたら本屋に『「緑の本」女子美術大学公開講座』近江源太郎他1992という緑色の装丁の本があり思わず手に取ってみた。
そこに印象派の画家が使ったミドリの絵の具の種類があげられていた。
モネ:エメラルドグリーン、ヴィリディアン、クロームグリーン
ピサロ:エメラルドグリーン、ヴィリディアン
ルノアール:ヴィリディアン
シスレー:ヴィリディアン
セザンヌ:エメラルドグリーン、ヴィリディアン
なんだ普通なんだ。印象派はミドリなんか使わずミドリを描いていたのかと思ったのだが。
ところでこのヴィリディアンという小学校の絵の具セットにもはいっているような普通のミドリをネットでひくとこの花が登場する。ラケナリア・ヴィリディフロラという名前である。昔はこの花からミドリを絞り出していたのかもしれない。絵の具のヴィリディアンは冴えないけれどこうやって花になると素敵な色に見えてくるから不思議である。
色と言えば小澤征爾とならび世界文化賞を受賞したリカルド・リゴレッタはバラガン仕込みの色の魔術師である。UCLA時代の先生であり、彼と一緒にメキシコを1週間旅行した。彼の自邸にも行った。しかしミドリは無かった。あるのはイエロー、ピンク、パープルである。色は地縁。場所の好みと言うものがある。
先の本によると日本人はミドリが大好きだそうだ(正確に言うとミドリという概念は一番好きだが色見本帳を見せると三番くらいに落ちるらしい)。そう言えば信州大学も理科大もスクールから―はミドリである。

驚異的な才能の理由

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by 卓 坂牛

ユダヤ人の類まれなる能力は何に起因するのか?例えばノーベル賞受賞者を見れば医学生理学賞受賞者184人のうち48人がユダヤ人。物理学賞では178人のうち44人。化学賞では147人のうち26人で比率でみれば26%、25%、18%である。世界人口の0.2%しか占めないユダヤ人がこれだけの受賞をするのは驚異的である。
建築家、音楽家、その他アート関係、政治、ビジネス、およそすべての分野で彼らが最前線にいない分野は思い浮かばない。一体この驚異的な才能は何処から来るのか?彼らが一つの国家に属する成員ではない以上それは教育の問題ではないし、生物学的な遺伝子とも言えない。であればそれは彼らの自らを鍛える精神のレベルの高さにしか求められない。とても分かりやすく言えばユダヤ人以外が驚異的努力だと思っていることがユダヤ人にとっては普通のことだというわけである。
まあそういうことは学校と言う集団を想定してみれば理解される。ある学校の常識は別の学校ではとても理解しがたい高度なことだったりするものだが。しかしユダヤ人はそういう自らの想定レベルを個々に掲げて生きているという驚異的なことをやっているわけである。それは差別を前提に生まれた彼らの生きるすべなのかもしれない。
少し前の(今でもかなりそうかもしれないが)日本の男女の働き方も似たようなことが見受けられた。女性は男性の3倍働いてやっと同じに見られたというような時代があった。生まれながらの差別を引き受けた彼女たちは暗黙のうちにとんでもない努力をすることを強いられた。
ユダヤ人はおそらくそれをはるかに超越した命がけの努力を2000年以上続けているのだろう。しかも、そして最も重要なことは、彼らがそれを努力だと思っていないことである。
野木の現場の行き帰りで内田氏の本を読みながら感ずるところである。
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●現場周辺の蕎麦畑と雑木林

反ユダヤ主義がユダヤ人を生み出した?

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by 卓 坂牛

「私たちは、ジェンダーがセックスと言う自然的なカテゴリーにもとづいて構築されているのではなく、むしろ、ジェンダーが存在するがために、セックスが関連事象になり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える。ジェンダーが解剖学的なセックスを作り出したのである」とフランス人フェミニスト、クリスティーヌ・デルフィは言った。
つまりジェンダーが先ずあってそれがセックスを生み出したというわけだ
さてユダヤ人と言う定義困難な呼称も実は上記の通り社会構築的なので上記文章のジェンダー・セックスをユダヤ人・反ユダヤ主義と入れ替えるとユダヤ人と言う言葉の意味が鮮明になる。
「私たちは、反ユダヤ主義がユダヤ人と言う自然的なカテゴリーにもとづいて構築されているのではなく、むしろ反ユダヤ主義が存在するがために、ユダヤ人が関連事象になり、したがって、知覚対象のカテゴリーになったのだと考える」。
つまり反ユダヤ主義がまずあってそれがユダヤ人を生み出したというわけである。
昨晩受験勉強中の娘が「ユダヤ」という言葉の意味を探求することの無意味さを主張した。文系だと高三でそんなませたことを考えるのかとびっくりしたが、たまさかこの本(内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書2006第六回小林秀雄賞受賞)のこの部分を読んだばかりだったので教えてあげた。若いうちは言葉には常に不動の実態が伴うと考えるものである。しかしそうではない言葉も存在するということはそのうち分かる。高三にはまだ早いか?

ミドリ

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by 卓 坂牛

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朝一で東京駅の丸善へ。シャープペンの消しゴムを買おうと思ったのだが行ってみたら売りきれだった。もちろん本も買いたかったから別にいいのだが。
慣れた本屋はいい。どこに何があるか分かっているし、前に無かった本が何かもすぐわかる。加えてここは9時からやっていてその時間は他の客がいないのでカートを飛ばしてもぶつからない。今日は手に取る本全てが興味深く思える珍しい日だ。
東京駅から快速で西荻へ。敷地の周りを少し歩く。確かに敷地のある善福寺川のあたりは駅からかなり下がっている。そして敷地正面にある公園を散策。5メートル近い段差に作られた公園の緑は今時貴重である。
午後はひたすらスケッチ。さっきの緑はやはりいい。この緑がよくてこの土地にしたという施主の話を思い出す。テーマはミドリか??昔早坂さんの緑陰の家と言う軽井沢の別荘を見せてもらったのを思い出す。緑陰かあ、、、、あれほどの木ではないけれど、、、、日建時代結崎さんがグリーンタワーという20階建ての高層タワーを設計したのも頭を過る。敷地にミドリが多く残っていたからそうしたらしい。100メートルのビルが全部ミドリ色なんてそうは無いだろう、、、、、
先日来メールのやり取りをしているチリ大学の卒業生にメールの返信をする。名門チリ大学をかなりよい成績で卒業して春から働き始めた建築家の卵。外国で働いてみたいというメッセージを1週間前にいただいた。こんなメールは月に一度は来るのだが何時も忙しさにかまけてよく見ない。今回はしかし建築の良い学校であることと、たまさか開いたポートフォリオが面白かったのと、来春レクチャーに行く予定のチリであることと、何と言っても昨今ラテンアメリカに興味があるのですぐに返信してみた。「あなたのポートフォリオに興味あり」そうしたら丁寧な自己紹介が来て、何度かやり取りをしている。優秀であることはメールを読めばすぐに分かる。先ずは会って話をしてみたいのだが来春向こうで会って話をしてからでも遅くはないのではとメールしてみよう。

裏表ないプレゼン

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by 卓 坂牛

昼から親父の家打合せ。事務所に兄貴達来所。2案の模型を前に唸る。両案とも甲乙つけがたく面白くなりそうである。
一般に打合せで複数案をプレゼンするのは相手の意向を探る場合、片方を引き立て役としてもう片方を推す場合などである。つまり進むべき方向が見えておりそれに向かうためにそうすることが多い。しかしこのプロジェクトはどうもそういう戦略性を持ってやる気になれない。というか、戦略性なしにやれる相手である。そういうかけひき無しに、作ったそばから包み隠さずなんでも見せたいのである。相手を多少混乱させるかもしれないが、そんなざっくばらんなプロセスを踏んだ方がいいものができそうな気がしている。こういうことはあまりないのだが相手もそれを楽しんでくれているのでそうできる。なので考えが変われば前回と違うことも言うし打ち合わせ中でさえ前言撤回である。相手を説得するというより、自分を説得する打合せである。そのせいで今日も13時に始まり19時半までやっていた。それも僕の用事があったから。無ければもっとやっていたかもしれない?

君はショック・ドクトリンを読んだか?

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by 卓 坂牛

『ブランドなんか、いらない』で10年前にデビューしたナオミ・クライン(幾島幸子、村上由美子訳)の話題作『ショック・ドクトリン』岩波書店2011を読んでみた。タイトルshock doctrineは直訳すれば衝撃原理である。一体何事かと思うのだがその内容は新自由主義批判である。しかしそれはその内実の批判にとどまらず、いやむしろその内実批判よりもその導入、伝搬の方法を批判するところが特徴的。
気になるタイトルのショックとは世の中の天災人災を指すのだが、話は拷問から始まる。CIAの拷問術は外界からの情報を一切遮断し(ヘッドホンを付け目隠しし)数カ月放置し、その後強烈な刺激(光、音)に晒す。これによって被拷問者は自らの意志を失い拷問者の言いなりになってしまうのだそうだ。
この原理を政治経済に応用したのがアメリカ新自由主義の首謀者たちだと著者は言う。具体的にはハイエクを師としてシカゴ学派を築いたノーベル賞受賞者ミルトン・フリードマンである。彼に先導された新自由主義者たちは巨大災害で判断力を失った人々の隙をついて自分たちの思い通りの主義主張を引きずり込んできたという。フォークランド紛争1983後のサッチャ―、イラク戦争2003後のブッシュ、スマトラ沖地震2004後のスリランカ政府、ハリケーンカトリーナ2005後のリチャード・ベーカー。
彼らは全て天災、人災のショックで放心し、自らの意志を失った人々に時代が変ったと洗脳し過激な自由競争による資本主義を導入してきたのである。
訳者あとがきで幾島幸子は3.11後の日本を案じている。復興の名を借りて住民無視・財界優先の政策が打ち出されないかというわけである。
先日ある県トップのゼネコンの社長が嘆いていた、震災復興には全く参入する余地は無いと。政治と限られた巨大ゼネコンの緊密な関係の中で全てが進もうとしている。スーパーゼネコンはこれによってこれまでの負債を全て解消できるだろうと。本当かどうかは知らないが十分あり得そうな話である。
3.11は一つの標語でさえある。ライオンの食い残しにたかるハイエナの如く、ジャーナリズムも評論家も建築家も土建屋も政治家もとにかくたかる。心ある人もあればない人もある、そして全てはこのショックから立ち直るためだと言わんばかりである。しかしこの状況はどうかと思う。熱い心と覚めた目が必要である。

新宿の欲望

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by 卓 坂牛

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朝一で水戸のクライアントと打合せ。忙しい人なので捕まえるのが大変。幸い多くのことを決められてよかった。昼をとりながらアフターミーティング。その後僕は新宿のアートフェスタの現場へ。昨晩きれいにハンペンのように仕上げてねと頼んで帰宅した。その通りきれいに仕上がっていた。ご苦労さん。全員完徹のようだ。
ぼくらの提案は
① 落書きがしたくなる白く美しい落書き禁止柱
② 電気のコンセントが一杯ついていて、つい充電(盗電)したくなる充電禁止柱
③ 鏡が10枚くらい貼りつけられ、ついその前で化粧をしたくなる化粧禁止柱
④ 小便器がくっついていて、ついもよおしてしまう小便禁止柱
⑤ おしりの形が3つくっついていて、つい触りたくなってしまうお触り禁止柱
という社会的にあまりよろしくない行為を誘発する5本の柱で構成されている。行為を誘発しながらでもダメよと明示されている。ダメと言われるとついやりたくなるのが人の性。社会とはそうしたねじれを活力としている。歌舞伎町のような場所では特にそうだしそうしたねじれは解消しようとしても無駄である。都市の闇は残念ながら無くならないしその必要もない。そんな主張をこめたオブジェ。名付けて「ダメバシラ」である。
午後事務所に戻り金箱さんと親父の家の構造打合せ。7つくらいの模型を前に問題点を整理。明後日の打合せに備えさらなる模型の作成を指示して大学へ。先程新宿で完徹していた学生が研究室に戻って爆睡中。それを起こして1時間設計の課題を出し、輪読本の説明をしてから製図の授業へ。受講生がやや少ないのが気になる。今年から選択必修になったので皆履修をあきらめたのだろうか?

2G篠原一男特集の意味

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by 卓 坂牛

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●花山第三の家(上田宏撮影)
奥山先生から2Gの篠原一男特集が贈られてきた。既に南洋堂でもアマゾンでも売り切れ状態のようである。不動の人気と言いたいところだが、初版刷りが少なかったのかもしれないので何とも言えない。
今回の特集はかなり前に一度企画されぽしゃり延々と伸びながらやっと実現に至ったようである。それというのも、editors` noteを見ても、冒頭のEnrikの論文を読んでも、今回の編集の特徴は篠原が絶対に崩さなかった出版のスタイルを破壊することが暗に目論まれたから。彼は自分の好む写真と自らの言説を巧妙にパッケージ化したもの以外の出版は認めなかった。人が住んだ形跡が見えるような状態を公にするなどと言うことは200%あり得なかった。
今回それを許したのが誰かは知らないが、上田宏さんによる現状の写真が昔のそれと併置されながらその時間の経過を報告するかのように並べられている。加えていくつかの住宅では内部写真が、今まさに使われている状態で載っている。しかもクライアントが入ったものさえある。これはもはや建築写真の枠をドラスティックに逸脱し、建築系一般誌がよく使う写真の部類になっている。それは篠原が絶対に認めなかっただろうことである。
地の家には本が山と積まれ、壁にはメモがピンナップされキャビネット上には置き物が並んでいる。未完の家では石膏ボード塗装だったあの亀裂の壁に縁甲板が張られ、床の絨毯はフローリングとなり、そして観葉植物がセンターホールに置かれている。白く輝いていたその空間は妙に落ち着きしっとりとした場所に変っていた。篠さんの家の金色の壁はアイボリーに貼りかえられ。海の階段のアトリエには足の踏み場が無いほどの画材が並ぶ。同じクライアントの別荘である糸島の住宅も同様である。花山第三の家ではクライアントが写真の中央でまさに主人公足らんとしている。一瞬読んでいる雑誌が2Gであることを忘れてしまう。カーサブルータスだったか??
篠原一男が許さなかっただろうこの特集が篠原一男が最も嫌っただろう自らの家の「生きられた家」化を刻銘に、そして正確に伝えている。
篠原一男の家でさえ生きられた家となるのである。そんなことは当たり前と言えばそうなのかもしれないが、最後の最後まで生活臭が感じられなかった「白の家」を目の当りにした僕にとってにわかにこの状態は信じられなかった。しかし、どうも殆どの住宅がクライアントによって生きられたものへと変貌しているのようなのである。そしてそれを嫌った篠原空間はそうなると命を失うのかとも思ったのだが、写真を見る限りその状態での味が染み出ている。篠原の空間さえもが生きられた泥臭さを十分許容するということがここから伝わってくる。
これからおそらくこうした巨匠たちの建築の現在が再撮影されて我々の手元に届くことが増えるのではなかろうか?特にexclusiveにモダニズムを生きてきた巨匠のそれが。というのも彼らの建築が実はexclusieでもなんでも無かたっか、そうした意気込みが時間によって軽々と超克され、そうした時間の力に深い意味がありそうだからである。

人の心を傷つける

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by 卓 坂牛

茂木健一郎の『脳と仮想』新潮文庫2007(2004)は第四回の小林秀雄賞を受賞した作品で小林秀雄に大きく影響をうけて書かれている。その影響とはよく言われる「花の美しさはなく美しい花がある」という小林の考え方のエキスからの影響のようにも感じられる、、、、なんて小林秀雄を知ったかぶるのはやめよう。高校生程度の知識しかないのだから。ところで茂木は「芸術はひとの心を傷つけることで感動させる」と書いている。そしてその「傷つける」を次のように説明する。「心無い言葉のように不快な形で傷つけるのではない。その瞬間に、何かが自分の奥深くまで入り込んで来たような気がする。ああやられたと思う。」この何かが自分の奥深くまで入り込んで来たような・・・・という感覚。これはとてもよく分かる。す――っと入られてしまうような感じである。相手が何の挨拶も無く勝手に上がりこんでくるような感じである。
こういうことはしかしそんなに起こることじゃあない。特に建築では。何故だろうかと思う。写真や音楽や絵だと比較的頻繁に起こるのだが建築ではそうしょっちゅうは起こらない。それは建築を見る時にこちらにも隙が無いからかもしれない。ちょっとやそっとでは入り込めないからである。しかしどうもそれだけが理由ではないような気もしている。見過ぎて鈍感になっているのか本物を見ていないかである。

教育現場はブランドの格好の餌食

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by 卓 坂牛

事務所に朝早く出かけたら偶然クライアントが車でやって来ていた。思わぬ来客。午前中にやろうと思っていたことができなくてがたがたとスケジュールがずれ込む。火曜日は夕方からゼミ。少し遅刻して大学へ。理科大1年生の僕には彼らの進捗が早いのか遅いのか直観的にはよく分からない。しかし一般にこういうものがスケジュールより早く進んでいるということはない。
そう言えば最近学生のcad図にこの図面はオートデスクの学生版で作図されたというようなことが印刷されている。Auto Cadが学生はとても安く購入できるのだがその代償として彼らはAuto Cadの宣伝マンにさせられている。
アメリカでは企業の学生支援=宣伝は日本の比ではない。ケンタッキー大学はナイキから年間2500万㌦の支援を何らかの形で受けていたそうだ。そしてその契約条項に「大学がナイキを非難・・・あるいはナイキ商品の促進にそぐわない行為が行われた場合にはこの支援を一方的に破棄する権利を持つ」という一文がある。
学生がナイキよりリーボックの方が優れたシューズであると言うような論文を科学的に立証したらそれを大学は受理するだろうか?それがナイキに知れたら年間20億近い支援が水の泡、、、になるかもしれないとするなら、、、、教授はそんな論文を書こうとする学生に「ちょっとテーマ変えたら」と言いかねない。
もしオートデスクが学生に是非このソフトを使わせてくださいと言ってAuto Cadを無償貸与してくれて他のソフトは使わないようにと言ってきたら大学はどう返答するのだろうか??専属契約を結ぶだろうか???。
ゼミ終わったら11時過ぎ。帰宅後昔なら何か食べてビールでも飲んでいたが夜は食べないことにした。ちょっとお腹が淋しいがシャワー浴びて即歯を磨いてしまうと何も食べられない。夕刊読んでお茶飲んですぐベッドへ行って面倒な本を読んでいると空腹でも寝られる。