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Oct 2011

ナオミ・クラインのデビュー作

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by 卓 坂牛

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オフクロが死んでから3カ月。やっと墓の準備ができて納骨である。親族十数名が集まる。無宗教だけれど焼香はした。納骨後吉祥寺に出て参列者で会食。墓地では親父の口数が減ったと心配してたが、食事をしたら元気にしゃべり始めたのでほっとした。
帰宅後ナオミ・クライン松島聖子訳『ブランドなんか、いらない』大月書店2009(1999)を読み始める。今から20年以上前、様々なグローバルブランド(ナイキ、スォッチ、ボディショップ、IBM)が登場し世界中に生産拠点を作っていった。彼らは「もの」を売るのではなく、ライフスタイルを、社長の思想を、生き方を、つまりブランドを売っているという風に言われた。言い換えるとそれはモノではなくマーケティング(顧客ニーズを知り、作り、届ける)なのである。そしてそれが招来する(それだけではないが)グローバリズムへのアンチの教科書がこの本である。
20年後の現在相変わらずグローバリズムとローカリズムの2極化の構図は社会問題の枠組みの一つである。自分も両足はその両極に深くはまっている。墓なんていうものを前にするとローカリズムを意識せざるを得ないのだろうが、英語で描かれた無宗教の墓石を前に自分が結びつけられている場所とは何なのか考えてしまう。

田原総一朗若き日の渾身のドキュメント

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by 卓 坂牛

昨日は地鎮祭で早起き。今日は片山先生の事務所に伺うので早起き。諸先輩後輩と同窓会館の件で打合せ。同窓生のプロポーザルによって案を決めようと言う話になってきた。大学の教員はレフリー側になりなさいと言われたがプロポには是非出したいとお願いしてレフリーは辞退。
昼前四谷に戻り久しぶりにジムでヨガ。ランチとって神保町で古本渉猟。帰宅後読みかけの田原総一郎『ドキュメント東京電力』2011(1980)田原総一朗若き日の渾身の一冊を読む。電力会社とそれを管轄する通産省(現経産省)の闘いの歴史である。主役は東電の創業者的社長だった木川田一隆である。福島原発誕生を決意したのも木川田である。加えてその決断は通産に先を越されないためもの。つまり民間で原発が安全に作れることを国に先んじて実証するためだったのである。その決断は62年ころ。そしてそれから10年後のオイルショック1973は原発の後押しをして翌年田中角栄肝いりの電源3法ができる。これによって原発を誘致した市町村には多量の金がばらまかれることになる。しかしこの法律も国VS電力会社の抗争の顕れ。国が民間に介入するための法律であった。笑ってしまうのはこの資金は電源開発促進税という形で電力会社から徴収したもの。それは元をただせば電気代である。つまり我々の電気代が国に回り国がその金を地方にばらまき電力会社が労せず原発を作りそして電力会社の多大な献金が政治家に戻るというわけである。これってつまり我々の金が電力会社を肥やし、政治家の私腹を肥やしその結果とても危険なものが甘いチェックの下に作られ続けてきたということなのである。

防衛省のタワーは時たま光る

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by 卓 坂牛

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僕のマンションの裏口に入る通りの突き当たりには防衛省の電波塔が聳え立っている。何メートルあるか知らないが10階建てくらいのビルの屋上に建っていてビルの2倍以上の高さがある。ということはビルが50メートルとして電波塔はその2倍の100メートルはあるだろうか?
そのタワーは時たま上から下まで発光する。何時どういう理由で発光するのか知らないのだが昨晩、発光していた。思わず写真を撮った。今晩は普通の日で発光していなかった。これも写真。何かの合図なのだろうか?誰か理由を知っている人がいたら教えて欲しい

赤対黒の闘い

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by 卓 坂牛

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昨日今日と、とあるクライアントと長電話した。電話嫌いの私だが相手のゆっくりとした語り口と哲学的な思考の流れに思わず引き込まれ話しこんでしまった。電話代が心配だったがお互いi phoneなので無料と後で気付いてほっとした。それにしても世の中いろいろな人がいるものだ。勉強になった。
夕方大学で製図のエスキス。川辺先生のエスキスは面白い。ロールトレペを学生との間に置いて黒マジックを持たせ学生の考えをそこに再現させる。その上から先生は赤マジックで書きこみをしていく。そしてロールが巻かれ抽象的な図式を黒で描かせ赤が入り、ロールが巻かれ具体的な絵を黒で描かせ赤が入る。毎週ロールトレペ一本が消費される。赤対黒の闘い。

信大その後

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by 卓 坂牛

一夜明けて今日はいい天気で昨日より7度くらい暖かい。小春日和。午前中雑用を終えて事務所経由大学。大学院専攻会議。二部教室会議。理科大の会議は手短だが、数が多く内容がだぶる。だぶりは減らして実質的な議論を増やした方がいいのだが、、、、でも長い会議はゴメン。痛し痒し。
夜信大時代の後輩のT先生と会う。建築学科のその後の様子を聞く。I先生は学会賞をとって秋から教授。おめでたい。僕の後任の先生は未だ決まらず公募も出ていない。意匠系は活気がなくなり寂しいとのこと。何らかのかたちで面倒を見て欲しいと言われたが、、、近い場所ならいつでも行くのだが、、、、集中講義という手もあるが、、、、今のところ名案なし。
終電で帰る予定だったが朝一の新幹線に乗れば1コマ目の講義に間に合うことを教えたらじゃあ泊まろうということになる。四谷には三井ガーデン、東急ステイ、JALシティと3つのビジネスホテルがあるがそのうち二つは満室だった。結構客がいることにびっくり。

外交なんて!!

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by 卓 坂牛

今日はひどい雨。野木の児童養護施設、第一回現場定例。現場の伐採抜根が終わって敷地の全貌が現れた。敷地の向こう側は畑でそして20メートル級の樹木が密植する林が連なる。実はとても素敵な敷地だったということがやっと分かった。未だ現場事務所が無いので施主の事務所で打合せ。行き帰りに佐藤優『交渉術』文春文庫2011を読む。別に僕が交渉術を身につけたくてこんな本を読んでいるわけではない。佐藤優というひとの著書の一冊くらい手にとってみようという程度のことである。元外務官僚が描くノンフィクションとしての外交の裏世界は落合信彦の小説さながらである。外交とは結局は人間関係の積み上げである。となると外交官というものは人間関係の(裏)操作が仕事なのであろう。そんな騙しあいに国の存亡がかかっているのかと思うと(まあ歴史とはそういうものかもしれないが)うんざりだ(もちろんそんな世界に僕はお呼びでは無いのだろうが)。
新宿から大学へ。雑用を片づけてコンペの様子を見る。もう少し考えたいと言う意見が多く学生に任せる。

とある一日

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by 卓 坂牛

・7時半~起床、メールチェック(信大に残した4年生からアルゼンチン留学が決まったという連絡。先日の芸大K研合格とともに嬉しい知らせ)
・9時半~事務所で打合せ(二つのプロジェクトがクライアント検討中なのでその間に古賀の図面直し)
・14時~移動(コンビニでサラダを買ってタクシーに乗りメールチェック)
・14時半~1部学生の卒論ゼミ(データーはほぼ揃ったのでその加工の仕方を模索)、
・15時半~学科ホームページの打合せでセットエンブ来研(文字だけのページとヴィジュアルのページのコントラストを大きくつけるようにお願いする)、
・16時~1部2部合同で第一部門の来年度カリキュラム検討(理科大は卒業に必要な単位数が伝統的に他校より多い。カリキュラムが高校の時間割のようである)、
・18時~2部学生の卒業設計ゼミ(欠席が多い)、
・20時~Y先生と再度来季カリキュラムの打合せ(信大以来の意匠系の負荷の大きさをどう克服したらいいものやら)、
・21時~新宿アートフェスタの作成進捗チェック(実際のモノづくりになると学生は生き生きする。笑いが絶えない。)
・22時半~Y、G先生と食事しながらカリキュラム検討(エンジニア系の実験に比べると意匠系の製図は時間がかかるし非常勤任せにはしづらいそうなると途端に負荷があがる、ジレンマである)
・24時半~帰宅後メールチェック(2通ほどメールの返信)
・25時半~就寝

荒木町の金の舞台

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by 卓 坂牛

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夕方中国同済大学、東南大学の先生たち6名が研究室を訪れる。中国で建築を学べる大学の最高峰の二つ。東南大学の李先生はAAを出られてロンドンに7年いた経験があり、現在『言葉と建築』を中国語に翻訳中だそうだ。ロンドンでエイドリアンに会い僕があげた日本語翻訳を見たという。世界は狭い。同済大学の支先生は出版会の社長、時代建築の編集長と1人3役をこなすスーパーマンである。
大学を案内した後事務所を見せる。そして荒木町を散策。古い街が残されていることに深く感動していた。こんな荒木町でもどんどん古いものが壊されていると言うと。中国での壊され方はこんなもんじゃないと言う。決定的な差は土地の私有にあると言う。昔の料亭を改造した小料理屋で食事。ここは人づてに最近知った場所で人数が多くなると2階を貸し切りで使わせてくれる。昔の名残で金の舞台がある。こんなお店は見たことない。
食事中僕の中国体験の話となる。共産党幹部による歓迎会があり市の書記は市長よりも上席だったことに驚いたと話す。Communist partyと言う言葉に皆大笑い???何がおかしいのかよく分からないのだが、もはや世の中はだいぶ変わっているとのこと。例えば大学や出版社の自治権は確立していると力説された。そう言う脇で私は共産党と言う人もいてなんとなく皆好き勝手という雰囲気。

日本のモンマルトル

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by 卓 坂牛

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朝家の周りを一っ走り。セツモードセミナー前の階段を上がるのが最近のコース。セツさんはこの場所を日本のモンマルトルのようだと感じてモード学校を作ったと聞く。なかなか素敵な場所である。
午後一で事務所にクライアント来所。今日は細かな要望を聞きながらその場で図面を書きながら模型を作る打合せ。ワークショップである。こんな打合せ方式をとったのは長い建築人生でも初めてである。クライアントには自分なりのイメージがあるのだがそれは何かを形にしてみようというもの。しかしやってみるとそういうイメージがあまりうまく敷地にはまらないことが分かってくる。1時から始まった打合せは延々7時間、最終的には僕らが提案したものがどうも具合がいい。クライアントは模型を持って帰り敷地で一晩考えるとのこと。
お腹が空いたが大学に向かいコンペの打合。学生の提案がヒット。デヴェロップの方向を指示して帰宅。今日はかなり憔悴した。

半世紀前ならもう僕は生きていない

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by 卓 坂牛

午前中『ケアの社会学』を読み続ける。ケアが問題化したのは日本では60年代後半であり70年に日本は人口の7%以上が高齢者(65歳以上)である高齢化社会に突入した。今でこそ日本は世界の最長寿国となり平均寿命80歳代という数字となったが戦前は50にも満たなかった。ということは長子に嫁が来ても舅、姑との同居期間も少なくその間に介護が必要になる確率は現在より圧倒的に少なかった。つまり僕の年齢では既にあの世だったのだから。この本のデーターによれば当時嫁入婚後舅姑との同居期間はたった11年だったそうだ。しかし50で死ぬと言うのは何歳くらいから弱り始めていたのだろうか?50になってぱたりと死んだわけでもあるまい。
午後事務所で住宅打合せ。1時から6時まで。普通のクライアントとならお互い気を使ってなかなかこんな長―いまったりとした打合せにはならない。兄貴相手だとこんなことになる。親父のケアをするための家を設計しているのだが、平均寿命を超え90台に突入の勢いである。