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Jan 2012

魚の群れになるまい

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by 卓 坂牛

夕方事務所で久しぶりにヤマギワの堀さんとお会いした。ヤマギワが秋葉原から撤退した話を聞いた。リビナが無くなったのは知っていたがヤマギワ全体が姿を消していたとは知らなかった。
夜大塚英志、宮台真司『愚民社会』太田出版2012を読む。先日宮台さんの上から目線に辟易したのでこんなタイトルの本を読むとますます気分が悪くなると思ったのだが、今回はすっきりした。宮台、大塚はかみ合っているのかいないのかよくわからないが、2人はメタレベルでは同じことを言っていると意気投合している。
大塚のあとがきを読むと彼の超がつくほどの上から目線が腹立たしさを超えて快感となる。3.11以降の日本人の(特に知識人の)付和雷同性に苛立ちを隠しきれない大塚曰く「既にもう人々の関心は震災から原発にそして意味も分からないままTPPにシフトして結局サッカーにいく、、、」「今あるのはメディアも知識人もその空気をひたすら読み、ツィートしつつ空気をチェックし発言するさもしさだけだ。僕は誰かと同席するたびに隣でツィッターのフォロワーをチェックしつつ発言する「思想家」たちを見てみんな死ねばいい、とアスカのように思う」僕は3.11後のすべての状況を十把一絡げに大塚的状況だとは思わないし、大塚のように何もしないことが空気に流される「魚の群れ」への批判となるかどうかよく分からないけれど、3.11に何でもかんでもかこつけて話したがる風潮にはついていけない。
現代思想の6月号に有名な建築家が多木浩二の追悼文を書いていた。生きられた家を失った被災者の呆然とした姿に『生きられた家』の意味をこれほどまでに思い起こされる時は無いと結ばれていた。僕にはちょっと信じられないような文章である。『生きられた家』の衝撃的なインパクトが高々(大変失礼な言い方だが)震災で失われた家を思い起こす程度のものだったのか?と。そんなことはあり得ない。80年代にこの本の持っていたインパクトが日本の建築を変えたと言ってもいいはずである。
もちろんこの有名な建築家が震災を前にして大きな衝撃を受けたことを否定はしない。しかしそのことと多木浩二の死は何の関係も無い。
魚の群れには成るまい。大塚に挑発されるまでも無く重要なことである。

アイデンティティはその都度選ぶで大いに結構

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by 卓 坂牛

アマルティア・セン、大門毅監訳、東郷えりか訳『アイデンティティと暴力』勁草書房(2006)2011でセンは人間のアイデンティティの複数性を主張する。そして複数の自分の中から状況によって論理的にアイデンティティを選択することを奨励する。確かに日本に生まれたから日本人と言うアイデンティティがつきまとうだろうか?親父が仏教だから一生仏教徒となるだろうか?キリスト教と仏教のいいとこどりしたらばそれはおかしいことだろうか?
しかしかといって状況で自分のアイデンティティが変化すると一般にそれは「ぶれた」人と呼ばれ軽蔑の対象となったりもする。しかしそれを差し引いても僕はセンの意見に賛成である。もし例えば宗教的な問題であるならば(こんなことは敬虔な信者ではあり得ないだろうが)二つの宗教が共有する論理を自分の信念とすることもできる。日本人であると同時アジア人であるということでも同様である。メタレベルでの自分のアイデンティティを常に考えておけばいい。
センはインドで生まれアメリカで学びハーバードの教授でノーベル経済学賞の受賞者である。小さくしてヒンドゥ―とイスラムの対立も見て育った。インド人でありアメリカ人でありイスラム教だがそれに固執しない。そんな環境がこうした思想を生みだしたのであろう。
振り返って僕のような平凡な日本人がなぜセンの思想に賛同するかと考えれば、それは極めて単純である。日本的なナショナリズムを全く受け入れられないからである。僕は日本人のナショナリティをもっているがアメリカにいるととてもほっとする。ヨーロッパ人は嫌いに思う時も多々あるがそのきらいさ加減は日本人を嫌いに思うのと同程度である。東工大出身だが愛校心は0。今のところ信大の方が好きである。でももう少し理科大にいるとどうなるか分からない。だからと言って東工大を憎んでいるわけではない。言えばどれも似たようなものである。
愛国心に話を戻せばどうして国家と言う単位に固執するのか、それによって得られるメリットの方がそれによって失うデメリットを超えるとは思えないでいる(少し大げさだが)。そんなことを言うと単なる能天気な理想主義者と言われそうではあるが、そう言う言葉は甘んじて受ける。しかし国家のアイデンティティだけではない。家族、コミュニティ、学校そのすべてにおいて適度な帰属意識はある一方でそれによって他を排することに全く意味を感じない。たまにそんなことを感じて騒ぐのはワールドカップぐらいのものだ。しかしこれだってどこかのチームを応援しないと面白くないからジャパン組に入っているだけ。運動会の紅組白組と大差ない。だから僕はアイデンティティはその都度選ぶで構わない。むしろそうあるべきだ。そうなればこの世から紛争は少しは減る。

建築家が操作できるのはシニフィアンでしかないのだろうか?

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by 卓 坂牛

1989年に雑誌『へるめす』で連載された磯崎新と多木浩二の対談が『世紀末の思想と建築』岩波書店2011というタイトルで本になった。まとめて読み返しその昔の磯崎さんの論理を反芻し懐かしくなった。
建築はつまるところ作る論理とできたものが意味を発する論理によって成り立つ。そんな認識の中で万博の絶望を味わいながら意味に寄りかかって建築を創ることの困難を感じはじめた磯崎は作る論理に立ち戻らざるを得なかった。それが「手法」でありそこに多木さんは磯崎の面白さを見出している。
つまり建築家とはシニフィエを気にしようとも結局手を下せるのはシニフィアン。シニフィエを操作したくともそんなものはその時代のコンテクストと見る側の勝手な論理でどうにでもなってしまうと言うことである。バルトではないが作者は文体は作れても意味は作れない。その意味で作者は死んでいる。建築家も形は作れても意味は作れないその意味では建築家は死んでいた。
とは言えシニフィアンに拘泥する時代はとっくの昔に終わったような言われ方をしたりもする。だから建築家という職能は解体されむしろ意味を生みだすコンテクストとよろしくまさに街のコンテクスト作りに奔走する人もいれば、シニフィエの解説に血道を上げる人もいる。それはそれで結構である。建築家などという職能が唯一無二のアイデンティティを保持しうるなどとは思えない。しかしでは再度建築家はシニフィエを操作する力を持てるのだろうか?考えてしまう。僕は建築のシニフィエにこだわり講義をする。でもこれが建築の創作論になるのかどうかは今のところ未だ不明。

経済は分からん

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by 卓 坂牛

話題のTPP反対論者中野剛志の『TPP亡国論』集英社新書2011を読んでみた。正直言って自分の経済基礎知識が余りにお粗末なのでこれが妥当なのかどうなのか判断不能。この本を普通に読んでいておかしいと思うことはあまりない。正しく聞こえる。しかしネットで中野反対論者の反対意見を読むとそれも正しく聞こえる。それって論点が分かってないということでしかない。ということはもはやこのイシューで発言は控えろということである。語れば自分のあほさをまき散らすことにしかならない。経済は分からん。

活私開公

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by 卓 坂牛

山脇直司『公共哲学からの応答』筑摩選書2011は3.11以降の公共性を語る。読んでいると余りに引用が多く眠くなるが一つだけ分かりやすくいいことが書いてある。それは4字熟語の造語「活私開公」と言う言葉。
公共性を謳う四字熟語の「滅私奉公」はよく聞く。私を殺し公に尽くせと言うもの。しかしこれではいけないと著者は言う。目指すは「活私開公」。これは私を活性化させそして公を花開かせるというもの。つまりワタシの個性を重視しながらアナタの価値観も尊重しようというものだ。自らの主張をがんがんせよ。しかし自分の価値に拘泥して人の言うことをぞんざいにしてはいけないということである。
なんか言われてみれば小学生の標語のようなものである。どうしてこんなことを大学の先生が必死になって考えないといけないのだろうかと思う一方でどうしてこんなこともできないのだろうかとも思えてくる。

アラブ独裁国

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by 卓 坂牛

朝一で大学、センター試験の試験監督。信大時代は毎年やっていたが理科大来てから初めて。会場に行くと事務の方がたくさんいるのでびっくり。私立は事務のサポートが厚い。ついでに言えばお昼のお弁当とお茶は無料で配布され、試験監督の労賃は別に支払われる。国立はヴォランティアだった。この試験は主として国立が使う試験なのだからそれでいいと言えばいい気もするが。
一日何もせずに何ごとも起こらないことを願ってじっとしているというのはつらいことである。しかし肩と背中の酷い痛みが徐々にとれて帰るころにはすっかりとれた。よかった。帰宅後ヨリス・ライエンダイク田口俊樹訳『こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと』英治出版(2006)2011を読む。オランダ人ジャーナリストのアラブ地域特派員の話し。現地にいながら通信社のデーターを使って本国が欲しがるニュースを書く。そうでもしないとニュースが書けない。というのもアラブ独裁国では誰も口を割らないのだそうだ。特派員には常に秘密警察が随行する。これじゃあだれもしゃべれない。北朝鮮みたいな国が世界にはまだまだ沢山あったということだ。しかしそれがこの「アラブの春」によって減ってきた。もしかすると北朝鮮も何かの拍子にこうなるのかもしれない。

肩と背中が痛い

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by 卓 坂牛

午後本を読んでいたらとても首が疲れてきた。姿勢が悪いと思って直していたのだが30分たったらもっと痛くなってきた。1時間たったらとても耐えられなくなってなんだか寝違えたような痛み。もちろん寝ていないから寝違えると言うことは起こりえない。
仕方ないのでお風呂に湯を張ってゆっくりつかり体を伸ばし血行を良くしようとしたが良くなるどころかもっと痛くなってきた。こういうのを五十肩というのだろうか?明日は日曜日だしセンター試験だし、一日耐えられるだろうか??それにしてもこんな運動障害がおこると言うのは実に心外。でもこれが現実。
かみさんがそう言うことは自分も起こり1週間は直らなかったと言う。それでどうしたのと聞くと。アルミホイルをビー玉くらいに丸めて痛い所に絆創膏で張り付けたと言う。なんだそれ?磁力でも出るのだろうか?と聞くのも面倒くさく、僕にもそれやってとお願いして張り付けてもらう。なんだかおまじないのようだ。効くだろうか?

マンガ三昧

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by 卓 坂牛


薬を飲み続けて5日目。毎朝の体温が少しずつ下がってきたけれどまだ微熱がとれない。なんだか喉の奥に小骨が刺さってとれないみたいで気持ち悪い。事務所の打合せも必要最小限にして帰宅。明日は娘のセンター試験なのでうつさないように寝室にこもる。小さい字は頭痛のもとなので娘の漫画を借りて読んでは寝る、読んでは寝る。病気するとこうなるわけだ。寝たきり生活というのも予めしっておくのもいいかも。

破天荒な知性

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by 卓 坂牛

鶴見俊輔が現代思想の上野千鶴子特集に文章を寄せている。大学の先生になると自らの信念を曲げて体制的になる輩が多い。特に東大はそうなので東大は嫌いだと言っている。しかし上野の東大退官記念講演を読むと上野はそうでは無かったと評した。
なるほど経済学、政治学、法学、社会学まで、人文系の殆ど、加えて原子力やら都市計画など国策にかかわる理系のジャンルにおける大学教員=国の理論部隊でもある。これを拒否すれば冷や飯を食うことになる。それなのに上野は無視して尚冷や飯を食わずに済んだ類まれなる才能だと言うことである。
先日対談やシンポジウムはくだらないと書いたがこの人のは別である。予定調和はあり得ない。徹底して論点を明確にし、新たな地平を見せてくれる。どんな人間にもかみつき負けない。破天荒な知性である。
ところで鶴見俊介も大学を転々とした人だが真を曲げなかった1人だろう。小学校が高等師範で中学に行けずアメリカに行ったというのが当時としては破天荒である。そう言う知性はもはや無い。

日本の対談とかシンポジウムってだいたいくだらない

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by 卓 坂牛


現場の行き帰りに某雑誌の対談を読んでいてあほらしく思えてきた。読まなければよかったのだがつい時間つぶしに読んでみてやはり後悔した。僕はシンポジウムとか対談とかいう類のものが嫌いである。かなり豪華なメンバーで行われていてもそれだけの人を集めて行う意義を感じない。自分でもやることがあるのだから無責任な発言だが、できることなら避けたい。
何故かと言うと日本のそれらは出席者が基本的に同じ意見の持ち主でありお互いは同意事項を羅列してYES,YESと言うだけだからである。それなら1人で話す方がよほど理路整然とする。
と思っていたら東工大世界文化センター長のロジャー・パルバースが同じようなことを言っていた。日本の対談で重要なことはただ一つそれは「意見の一致」です。たとえ○○先生の意見に対して××先生がやや異なる意見を持っていたとしても「しかし、、、、」と言ってから控えめに自分の意見を言う。そうすると○○先生は「なるほどそういわれてみるとそうかもしれません」と言うだけ。そしてこのフレーズについてパルバースはこう言う。「あらゆる言語で発明された、いかなるフレーズの中でも、最も無意味なものの一つでしょう」と。
何故かこの方とは意見が合う。