On
by 卓 坂牛
朝ジョギングを始めたら足に激痛。仕方なくウォーキングを1時間。シャワーを浴びて近くのカフェでメールチェック。今日はメールがそれほど多くないと喜んでいたら塚本さんからのメール発見。「貝島が空港で迎えの人間を見つけられないでいるSOS」。あれあれ困った。一体彼はどこからメール発信しているのだろう?何処?と聞くと隣のカフェ。同じコンドミニアムに住んでいるというのに、このコミュニケーション環境の悪さ。
午後何とか自力でたどり着いた彼女も含めて建築家ロベルト・ブスネリの家を訪ねる。彼の家は半世紀以上前の食料品店を改造したもの。既存の躯体を随所に露出させながら見事なリノヴェ。家具も彼自身のデザイン。
パレルモ大学建築学科長で建築家のダニエル・シルベルファーレンを始め、多くの建築家が集った。彼らにとって休日のBBQパーティーは日常的な行事。そして何処の家にも必ず必要なものがBBQ用グリルである。それは屋外にあったり屋内にあったりするがちゃんと煙突がついた暖炉のような構造となっている。そして肉を焼くのは男の仕事。
シルベルファーレンと大学、建築の話で盛り上がる。特にそれぞれのコストは興味深い。パレルモ大学は学費がアルゼンチンでは少々高く年間約50万、国立のブエノスアイレス大学は無料。学生の生活費は日本よりはかなり安い。土地の値段はブエノスアイレスの住宅街ベルグラーノあたりで(中心街から地下鉄で10個くらいの場所)10万/㎡。加えて建築コストも10万/㎡。土地200㎡、建物200㎡の家が4000万と言うことになる。これは日本(東京の)の半分から3分の1。他の物価は日本の3分の2くらいなので建築費は相対的には少し安いようである。
一昨日に訪れた建築博物館館長の5人家族のヘルナン・ビスマンは中庭付き300㎡の家に住み、2人暮らしの建築家ロベルト・ブスネリは50㎡の中庭周りにL字型200㎡の家で生活する。彼らはどちらも45歳。パーティーに来ていたアルゼンチン建築家は異口同音に日本はリッチカントリーだと言うのだが、なんと返答したらいいのやら???もはやリッチとは言えない日本でも相対的に見ればまだ国としてはリッチ。しかしそんな国の生活はというととてもではないが豊かとは言えない。
●昔は食料品店だった
●改装されたインテリアの天井は昔の構造が露出
●ゆったりとした中庭はそれだけで50㎡
On
by 卓 坂牛
アルゼンチンの建築界の巨匠クロリンド・テスタ88歳のスタジオを訪れた。ロベルトに言わせればアルゼンチンの安藤忠雄。弱冠36歳で国会図書館のコンペに勝って以来50年以上建築とアート作品を作り続けている。
彼のオフィスはブエノスアイレスの中心街サンタフェ通りとカジャオ通りの交差点近くの古典建築の6階。いつもは休みの土曜日だが我々を歓待してくれた。彼のオフィスは普通の建築事務所には見えない。エントランスホールから彼の部屋からいたるところにアート作品が並んでいる。パートナーである。JUAN FONTANAは彼とテスタ共同によるアート作品集を私にくれた。数十ページの作品集には建築作品は一切ない。全てが、ドローイングかオブジェである。それらは抽象表現主義のようであり、墨絵か書道のようでもある。アトリエの中には彼専用の工房があり描きかけの巨大ドローイングが置いてあった。彼の創作スタイルはコルビュジエさながらである。彼の国会図書館はその時代の潮流も手伝ってブルータルなものとなったがその後スタイルは大きく変わりスケールダウンしたフラグメンタルなものとなった。
テスタに僕の作品集を渡すとずーっとページを括りながら中を見てブエノ(good)とつぶやいた。来週アルゼンチン建築家協会で行うレクチャーにも来てくれるとのこと。楽しみである。
On
by 卓 坂牛
ブエノスアイレスはアルゼンチンンの首都だが、ブエノスアイレス州の州都はブエノスアイレス市には無い。車で1時間くらい行ったラ・プラタ市にある。これって、日本にあてはめれば日本の首都は東京だが、東京都の行政機能は23区に無く、東京都の端っこのどこかの市か村にあるようなものである。権力の集中を防いでいるのだろうが面白い。
そこにコルビュジエの設計したクルチェット医師の家がある。3年前にも訪れたが、今回はしつこいくらいの説明付きでツアーした。それによると本当かどうか定かではないが、コルビュジエは一度もクライアントには会わなかったらしい。1949年にできたというからコルビュジエの住宅建築のピークは過ぎており強い一つの主張は見えない、逆に彼が開発した様々な建築ヴォキャブラリーの展示場にになっている。屋上庭園、ピロティ、自由な平面、自由なファサード、横連窓、ブリーズソレイユ、不思議な色、スロープなどである。
特にスロープはこの家の二つの機能である、住宅とクリニックをつなぐことと、訪問者を上階へ誘うという二つの機能を満足させている。さらにギーディオンが『空間・時間・建築』で指摘したように、スロープは建築の「時間性」を感じさせる重要なツールである。時間性というのは主体がその建築の中で移動するシークエンスの視覚情報を通して獲得すると同時に、他者の移動を観察しながらその劇場的な動きの中に見い出す場合もある。この写真はまさにそんな劇場性が現れていて興味深い。
On
by 卓 坂牛
26日朝9時ちょっと過ぎBA到着。ロベルトと一年半ぶりの再会。1時間前に着いていた塚本氏はカフェでコーヒー飲んでいた。うまく会えてよかった。彼の模型は既にトラックに積み込まれている。我々のスーツケースもトラックに載せて、ロベルトの車で市内へ向かう。距離はそれほどないのだが、交通渋滞でパレルモのコンドミニアムに着いたのは1時ころ。用意してくれた50㎡くらいのコンドミニアムはキッチン+2バスルーム+寝室、リビング。もしこれを東京で借りたら20万くらいだろうか?日本の大学にも外国人研究者の滞在施設があるけれどちょっと比較にならない。
シャワーを浴びて早速昼飯の場所を探す。2ブロック程行った角に素敵なカフェを発見。その名も「ノスタルジックカフェ」。そこで僕も、塚本も肉を注文。僕はミニビーフ、彼はフィレ。どちらも想像していたものの倍サイズ。前回も思ったけれどアルゼンチンのステーキは厚いからきちんと焼いても中は赤くジューシー。ステーキはアルゼンチンに限る。
夕方模型とともに遅れて到着した学生組7人と建築博物館で合流。博物館長のヘルナン・ビスマンと3年ぶりの再会。グラフィックデザイナーのケセルマンも入って、塚本氏の階(3階)僕の階(2階)書の階(1階と地下)の展示打合せ。
On
by 卓 坂牛
成田から10時間、ロサンゼルスに到着。ほんの一時だが飛行場の外に出てLAの空気を吸う。ああLAの匂いがする。乾いた柔らかな空気。アメリカを感じる。トランジット3時間。ちょっと腹ごしらえして次の飛行機に乗り3時間でヒューストン。1時間のトランジット。ヒューストンは始めてくる空港。後最後は10時間かけて南下ブエノスアイレスを目指す。
機内で押井守『コミュニケーションは要らない』冬幻舎2012を読む。3.11を例に日本人はいかに論理的ではないか、本質的ではないか、表層的で目先のことしか考えないかと力説している。確かにそうだと思う一方でもではどうしたらいいのかと言うことがあまり書かれていない。散々ネット上の会話を否定しながら最後はコミュニケーションとは自分の得意なものを用いればよいとヴァーチャルコミュニケーションも否定はしない。最終的に言わんとすることがもうひとつ伝わらない。
On
by 卓 坂牛
助手のT君。やっと今朝VISAが下りると言う驚異的なギリ。でもまあ良かった。模型をいれた人間が入れそうな巨大段ボール箱四つ。やっとチェエクイン。超過料金一つ100ドルで400ドル。成田に3時間前に来たなんて初めて。でもしっかり時間かかりました。
朝から何も食べていないことに気付きラーメン食べおさめ。総勢11人さあ行くぞ。先ずはロサンゼルス。
On
by 卓 坂牛
日付が変わって4月25日。誕生日となってしまいました。研究室の皆さまから素敵なプレゼントをもらいました。チーズとワイン。去年は日本酒もらいました。俺ってそんなに酒飲みでしょうか?うん間違いない。
信大時代から毎年学生から何かしてもらって教師ってありがたい職業ですよね。別に何かをもらったからそう思うわけではなくて、誰かに思われていると言うことがありがたいことです。言葉だけでもかまいません。FBでも多くの人から期せずしてそんなメッセージを頂き嬉しいような、また歳をとったことが悲しいような、、、、
女性は歳をとりたくないといいますが、別に男性も歳なんてもうとりたくないわけでございます。後は死に向かって一日ずつ余命を減らしていく人生でございます。あああああ、この大事な人生を建築だけやって終わるのかと思うとなんだか残念です。
あああああ、歌手にでもなっていたらもっと楽しい人生ではなかったかなああとか、、、、
首相にでもなっていたら(ありえんが)建築何かでしょぼしょぼ社会変革しようなんて思ってできなくてフラストレーションためずに済んだのになあとか、、、、、
幼稚園の先生になったら毎日純真な子どもの顔を眺めて平穏な心持でいられるのになあとか、、、、、
花屋さんになったら素敵な色と香りに包まれて生きていけるのになあとか、、、、、
思います。
でも叶わぬ夢。福原愛さんが「私には卓球しなかないんですって」あんなに若くして言っていますが、僕も似たようなものでしょうか?????
60になって気が変わったら荒木町で友人と古本屋と立ち飲みバーが合体した店でもやりたいなあと思ったりもします。
今日の夕方の飛行機でアルゼンチンに行きます。荒木町を敷地に向こうの学生と日本の学生と交えて住宅+αという課題をやります。だれか僕の将来の棲みかを作ってくれると嬉しいなああ。古本屋+立ち飲みバー。
On
by 卓 坂牛
信大の院生から電話があった。「就職決まりました」と喜びの声。受話器を取った瞬間に声質で分かる。「良かったなあ」と思う。心から嬉しい。娘くらいの年頃の子なのでまるでわが子のようである。娘の大学合格は最初の一発目は嬉しかったけれど後はそうでもない。沢山聞くとだんだん慣れてしまう。でも就職は第一志望とそれ以外では格段の差なのでそこに入るのはかなり大変である。
先日もいくつかそんなメールを受け取った。どれもこれもそう簡単に入れないような組織事務所だったりアトリエ事務所だったりで感無量である。
信大に入ったころは設計事務所に行く人間が0で困ったものだと思った。そういうところに先輩がいないのだから導きの糸がまるでない。そもそもそういう就職先の存在さえ知らない。そこからの教育である。彼らの希望を否定するところから始めなければならなかった。君ならこう言うところがあるぞと紹介したり。こういう人に会いなさいと連絡をとったり。なんとか秀でたアトリエ事務所へ、質の高い組織事務所へと策を練った。そして6年。就職先も大分変わったものだ。やはり時間のなせる技かもしれない。就職は単に個人の力でもない。やはり積み上がる大学の(というか学科の)プレゼンスや信頼にも左右される。信大に意匠在りを社会に印象付けるのに5年はかかったということかもしれない。後は君達の活躍にかかっている。頑張ってね。
On
by 卓 坂牛
埼玉建築設計監理協会主催の第12回卒業設計コンクールというのが開かれており、その審査に呼ばれて埼玉会館に行った。前川國男設計の重厚な建物で紀伊国屋のようなファサードと都美館のような階段が印象的。
このコンクールの始まりは埼玉にキャンパスを持っている大学の設計コンクール、と勝手に思っているのだが、例外もあるようで参加校は工学院大学・芝浦工業大学・東京電機大学・東京理科大学・東洋大学・日本工業大学・日本大学・武蔵野美術大学・ものつくり大学。経緯は知らないが理科大も仲間に入れていただいている。出品作は34。
審査員は正確に分からないが、各大学の指導教員に加え設計監理協会、学会、建築士会、JIAなどの方で全部で数十人いた模様。それぞれ数票持って投票。蓋を開けると1位、2位が期せずして理科大の学生だった。2人は学内の審査では同率2位だったからここで決着をつけていただいた。彼らにとってはもちろん喜ばしいことだったなあと思いつつ、内心この賞の意味は何だろうかと少々自分の中では消化不良。
というのもこの賞とは別に審査員特別賞なるものがあり、総合力に欠けても一芸に秀でた案はこちらに投票してくださいといわれていたのである。重賞は妨げないとなっていたがそちらの賞は違う学生が受賞した。
多くの審査員がなんの議論もせずに図面とプレゼンを見ただけで投票しその数字だけで機械的に順位を決めるならどうしても「そこそこの着眼点と分かりやすい形態、そして造りこまれた模型」があればよい点になる。つまり既成の価値観のスケールの中での最大公約数となり得るのだろう。
しかし卒計ってそれでいいのだろうかと思う。やはり多少無理があっても、多少独り合点でもこちらの想像力をフル回転すればなにかそこに新たな可能性が見えてくることが必要なのではと思う。
その意味では郊外住宅の風景の分析とそこからの形態化を探求した案に僕は最も魅力を感じた。しかしこの案は数多あったどの賞にもひっかかってはいなかったようである。議論の場があれば少し応援したかったのだが残念である。
On
by 卓 坂牛
海外研修で初めて渡欧した時、アメリカ留学した時の2回の例外を除いて飛行機に乗る時荷物をチェックインしたことがない。その理由の一つは日建時代の上司が荷物のチェックインを嫌ったから。つまり到着した飛行場でさっさとホテルに行きたかったから。なので荷物は常に機内持ち込み。だから機内持ち込みできるサイズの鞄しか持ってない。つまりスーツケース持ってない。
今回は10日ほどの出張で小さくまとめることもできそうだが諦めた。アルゼンチンでやることも多いし、持っていくものも多い。ついでに配偶者も書道の道具を山のように持っていく。僕がいくら頑張って機内持ち込みにしてもきっと配偶者はチェックインする。そしたら僕がしないことの意味は殆どない。
しかし我が家にスーツケースは一つもないのである。そこでレンタルすることにした。一番大きいのをネットで頼むとすぐに次の日届いた。これだけ大きいと厳選しなくていいから気が楽だ。とにかく放り込めばいい。昔のスキー合宿を思い出す。