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Oct 2012

上越トークインで池田武邦さんの文明論を聞く

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by 卓 坂牛


昼の電車で越後湯沢へ。山城悟さんと合流し日本女子大OGの井上さんの車で浦川原へ。今年のゲストは池田武邦さん。文明と文化についてお話しされた。文明とは普遍的で創造的で優劣がつき、人間主体で欲望によって突き動かされるもの。一方で文化とは個別的で、伝承で作られ、対等で、自然主体で、知足なもの。そして建築とは文明と文化のバランスの上にあるものだと話された。今このバランスは文明に傾いているが、それを文化が引っ張り返さなければいけないと言うわけである。その後学生とのディスカッション。今年は理科大も理工の安原研から4名工学部も僕の研究室以外からも小島君が参加。もっと多くの参加者がいると楽しい。

西荻の本屋「のまど」

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by 卓 坂牛


西荻窪の現場に行った帰りにふと可愛らしい本屋が目に入った。ゼミがあるので通り過ぎようかと思ったのだが、思わず入ってしまった。ゼミに遅れたのはこのせいです。すいません。それでこの本屋だが、世界の旅行記、紀行文、ガイドブック、地図などを集めた本屋だった。本棚は地域によって分類されている。西欧、東欧、北欧、北米、中南米など、、、、思わず中南米の棚に吸い寄せられる。そもそも中南米関係の本は東京駅の丸善行ってもそんなにあるわけでは無いのだが、それより置いてありそうでびっくり。加えて丸善には売って無さそうな(いや売っているのかもしれないが)裏社会のルポが多く置いてある。その中でファベーラ(スラム街)潜入記を買ってみる嵐よういち『海外ブラックロード―南米地獄の指令編』彩図社2012。アルゼンチンでもグアテマラでも外からは見たことはあっても(もちろん)中の実体は想像の域を出ない。ファベーラの改造はおそらく役所も考えているのだが彼らにも正確な情報はないようである。

織田作之助「競馬」面白いよ

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by 卓 坂牛


先日友人と飲んだ時、織田作之助という人の「競馬」という短編が面白いと言われ読んでみた。ものの20分もあれば読める話である。小説なんてよほどのことが無い限り読まなくなったが、たまに人に勧められると読んでみる。だいたい面白くないのだが、これは面白かった。京都大学出身の糞真面目な男が酒場の女に恋して結婚するのだが、女が癌になって死んでしまう。死ぬ間際に届いた昔の男からの手紙に「競馬場で待っている」と書かれていたのが死後も気になり競馬にはまる。そしてそこでその昔の男に邂逅し、憎悪の念が湧くのだが、有り金で最後に買った馬券がその男と同じで勝利し、その憎しみが共感に変わると言う話である。こうやって書いてしまうと何ともつまらない。いや読んでいても対してわくわくするわけでもない。そもそも僕が好きな小説はこんな普通の話が多い。映画もそうなのだが血わき肉躍るような話はカタストロフィを味わうものの面白くはない。というわけでこの小説はお勧めである。織田作之助「競馬」。

交渉とは相手を知ること

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by 卓 坂牛


ドイツは戦後アルザスロレーヌ地方をフランスに譲渡した。長い紛争の歴史に幕を下ろす形となった。そんなドイツの政府関係者は日本が中国とつばぜり合いしているのが不思議でしょうがないらしい。力の強い方が譲歩するというのがドイツの一貫した考え方だそうだ。つまりドイツ人たちは日本が譲歩するべきだと考えているようである。元外務省の国際情報局長だった孫崎享『日本の国境問題―尖閣、竹島、北方領土』2011ちくま新書にはそんなことが書かれている。
領土を巡る議論はその証拠と言うようなものを本当に見たことが無いし、その証拠はきっと双方それなりに持っているだろうし、両方を並べて、冷静に見なければまったくその真偽は分からない。いや並べた挙句に結局判断不能かもしれない。
この本一冊読んでそこに出ている証拠を読んでもやはり分からない。そんな分からないことを分からないまま双方が双方の主張を繰り返すことは実にナンセンスである。そしてまた冷静な場が作れない状態で相手の主張の鼻っ柱を折るような行動や発言はただただ相手の感情を逆なでするだけである。
この本にも問題解決の最優先事項は相手の主張を知ることとある。先日読んだ交渉術の最優先事項と同じである。そんな基本を怠る政治って僕には理解不能である。

建築を作る相手とは?

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by 卓 坂牛

午前中大学の健康診断。九段でやると思っていたら神楽坂。初めて大学の電動自転車を借りて神楽に向かう。おっとこの電動自転車無茶苦茶楽だわ。知らなかった。すこしこぐとモーターが作動してまるで誰かが後ろから押してくれているかのようである。身長、体重、視力その他去年と変わらず。遠くを見る力は変わっていないけれど、近くを見る力は日々衰えているのだが。午後初めての主任会議を終えてその膨大な資料を整理。4年生の梗概を4つ受け取る。チェックし始めたら時間切れ。夜事務所でスライド会。またアルゼンチン、中国、グアテマラ、セットで見せる。建築のスライド会なのに建築は殆どでてこなくて、ワークショップ、展覧会、講演会で何がテーマで誰が何言っていたかみたいな説明である。毎度思うが、日本を離れて、自分の建築を理解してもらうような話をしていると、建築は誰を相手に作っているのだろうか?とつくづく思う

ピュリツカー賞を受賞したワン・シューの位置

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by 卓 坂牛


やっと手に入れたJianfei Zhunの書いたArchitecture of Modern China-A historical critique 2009。著者は先日の東南大のシンポジウムでご一緒したメルボルン大の准教授である。中国で中国の近代建築の英語の本が欲しいと言ったら同済大の先生にこの本を推薦された。
彼の中国近代の系統図を見ると21世紀のデザイン傾向として6つあり、その4つが○○モダニズムなのだが2つは○○Regionalism でその1つがRational/Abstract Regionalism もう1つがCritical Experimental Regionalismでありその代表的建築家として挙げられているのがピュリツカー賞をとったWang ShuでありもとMITのディーンYung Ho Chang そしてアーティストのAi Weiweiの名前も挙げられている。コールハース、ヘルツォーグを含めて外人建築家はState-Owned Mega-structural Modernismというくくりに入れられている。

日本アートのレベル

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by 卓 坂牛


夕刻ニューヨークの友人と夕食。彼女はジャパンソサエティの芸術監督。日本韓国にアジアの舞台芸術の視察に来ている。アジア、あるいは日本のアートのレベルの話になった。僕が昨今の経験から中国建築の今後のパワーのような話をすると、まったくそれはナンセンスだと反論された。そもそも日本人は自分たちの力を過小評価することを美徳とするようなところがある。だいたい建築は日本のアートのレベルの中でもトップレベルであり、彼女の専門とする舞台芸術でも日本は低くはないけれど、建築はその比では無いという。そういう分野にいながら自己主張する前に他国の脅威を語ること自体が分からないと言われた。まあどっぷりニューヨークに腰を据えて、その中でしかも日本芸術の外交大使のようなことをやっている彼女にとっては毎日が日本芸術の素晴らしさを主張する立場にいるのだろう。そこで生きて行くためには女々しくネガティブに生きるなんてあり得ないこと。
アドビ―が主催するアンケートで世界で最もクリエイティブな国はと言う問いの一番は日本なのだそうだ。日本はもっと自国のアートやクリエイティビティに自信を持つべきだと彼女にさとされた。
彼女と話していて少し元気が出てきた。

最良の選択肢を探すことが設計であり医療である

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by 卓 坂牛


午前中八潮の家づくりスクール。昨日これじゃ駄目と言ったことがきちんと全部直してあったので感心した。昼大学に戻り夕方まで翻訳勉強会。夕方信大の院生が修論文持ってやってきた。心理学の柳瀬先生に託した学生2人。印象実験やって徐々に面白い答えに近づきそうである。どんな修士設計になるだろうか?楽しみである。夜は九段近くで東京で働く元坂牛研も集まって食事。
瀧本哲史『武器としての交渉思考』星海社新書2012を午前中の移動中に読みながら設計というのはある種の交渉だと感じる。交渉と言うと勝ち負けのイメージがあるが決してそうではない、自分と相手が合意できる最高の地点を目指すことが交渉である。設計もクライアントの要望と設計者の使命(壊れない、合法的、美しい、などなど)をすり合わせその最高の地点に持っていかなければならない。普通に考えると設計はクライアントの要望通り何かを作ることにあるのだから、それは指令のようにも思える[上図参照)。けれどもちろん指令にはならない。指令で済むなら設計という特殊技能は要らない。もし設計が指令なら医療も指令になるがもちろん医療も指令にはならない。
交渉術にBATNA(Best alternatives to negotiated agreement)という概念ある。交渉する当事者はお互いにいくつかの選択肢をもちながら合意するための最良の選択肢を探すのである。ネット情報化社会のクライアントや患者は恐ろしい量の知識を持ち合わせて設計者や医者に対峙している。この場合、恐らく建築も医療もクライアント(患者)と設計者(医者)はBest alternative を求めて交渉しているのではなかろうか。まあ医療の場合先生に「他のやり方は無いんですか?」なんて聞くと怒られる場合もありそうだが、、、、

オックスフォードのチュートリアル教育の素晴らしさ

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by 卓 坂牛

苅谷剛彦さんという東京大学の先生の著書を何冊か読んだ記憶があった。その苅谷さんの書かれた『イギリスの大学・ニッポンの大学』中公新書クラレ2012という本があり読んでみた。苅谷先生は2008年にオックスフォード大学の教授公募に応募し、いくつかの審査やインタビューの後、晴れてオックスフォードの教授になられた。50を過ぎて海外の教員に応募すると言うのもなかなかの勇気がいるものだと思ったが、応募を決断したのは「あなたもワールドクラスの学生を教えてみないか」という誘いの言葉だったそうだ。
ワールドクラスの学生に惹かれたと言うことは自分の教えている学生はそうではないと思っていらっしゃったと言うことの裏返しでもあろう。この本はそうして行かれたオックスフォードで経験した日本の大学(と言っても東大だが)との差が書かれている。それを読みながら羨ましくなった。
オックスフォード教育の最大の特徴は、チュートリアルと言う学生の個別指導。毎週課題図書リストをわたしそれを読んでA4、10枚程度のレポートを書かせ、それについて先生と学生がディスカッションを行うものである。学生は一日約8時間の勉強を義務付けられる(というかそのくらいやらないと課題図書を読み、レポートを書くことができない)。もちろんバイトなどしている暇はない。これがfulltime studentなのであり東大生はさしずめpart time studentだと著者は感じたそうだ。
オックスフォードの教育で最も重要なことは批判的な思考でありそのための個別のディスカッションなのだと言う。その代りオックスフォードでは講義は単位授与の役割を担わず、学生の参考書のようなもの。単位というようなものはなく、卒業は授業やディスカッションとは直結しない卒業試験で決定される。
批判的思考をするとは先人の知恵をすべて消化したうえでそれを客観的に乗り越えて行くこと。そのためには徹底したリーディング+そこに立脚した自らのオピニオンを相対化する能力を養うことなのだろう。
僕は日本の大学では財政的にも制度的にも困難なこういう教育をしたくブログを使ったヴァーチャルディスカッションを信大時代からやっているが、こんな異国の話を聞くとつくづく羨ましくなる。これが教育であると思う。
羨ましいと手をこまねいているのも悔しい。そこで今日からやれるところまでやってみようと思い、演習授業の学生発表の後の40分くらいを徹底してディスカッションをすることにした。オックスフォードと異なり学生数は多い。果たしてこんなことは白けて終わるかもしれないと疑心暗鬼でもあった。しかしやってみて多少の手ごたえを感じた。くらいついてくる学生はいるものだし、批判的な思考をきちんと持ち合わせている学生もいた。今日はそんな学生に会えたのがとても嬉しい。

ネトの新作楽しめる

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by 卓 坂牛


青山で打合せする前にちょっとエルンスト・ネトを覗く。ヴィトンのギャラリーはエルメス同様、最上階にあるがエルメスとは異なりガラス張り、美術展示にしては明かる過ぎるし壁が少ないから絵画には向かない。こんな場所にはネトのオブジェはぴったりである。彼の作風は少し変わってきた。昔の巨大風船のようなものから今はスパイダーマンの巣あるいは故郷ブラジルを想起させるようなコーヒー豆の袋の連続のようでもある。ネットにプラスティックのボールが沢山はいっていてこの網の中に入っていける。中で昼寝もできそうだ。
ヴィトンギャラリーではいつもしっかりしたカタログを作るのだがこれが無料。よくできている。