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Mar 2013

紅白の梅が今日開いた

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by 卓 坂牛


一日中、明後日締め切りの原稿書いたり、デンマークで使うパワポを作ったりしていた。夕方配偶者と近くに寿司を食べに出ると、向かいのマンションに紅白の梅が咲いていた。全然気が付かなかった。いつも通るところなのだから今日咲いたに違いない。それにしても、最近とても暖かい。

高校のクラス会

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by 卓 坂牛


筑波で物理をやっている高校の同級生が京都に移ると言うのでクラス会をやった。京都は最も自由に研究できる環境があるとのこと。ノーベル賞を多く輩出しているのには理由があるようだ。物理学の芥川賞である仁科賞というのを昨年受賞したので「次はノーベル賞!」と皆に言われ、まんざらでもないという顔であった。
男子
建築2、小説、鉄、リース、金融、コンピューター、物理
女子
主婦、医者、高校教師、芸術、出版
皆違う分野で仕事中。建築だけ二人。

最高の料理を作ってください

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by 卓 坂牛


本日は理科大の卒業式。1983年、30年前に自分の卒業式に出た記憶が無いしその後卒業式なるものには、教員時代を含めて出たことが無かった。しかし本日初めて出席した。そして「ああ卒業式っていいものだなあ」と思った。理科大管弦楽団がワーグナーを演奏した時は理由もなく涙がこぼれ「建築は音楽に及ばないなあと」感じた。いい音楽を聴くといつも建築をやっている自分に嫌気がさす。しかしなんとか建築にしがみついている。その後秋山仁さんの記念講演があり、「人生山あり谷ありだがゴールを見失うな、自分もそうだ」という言葉を聞きほっとした。「才能は努力の後についてくる」という秋山さんの言葉は僕もいつも言い続けている。「天才は努力する才」だと。
さて本日の卒業証書、修了証書という一枚の紙っぺらの重みは大きい。これで君たちは私大の高い学費をこれ以上払わなくていいということが証明されたわけである。そのことに対しておめでとうと申し上げたい。そしてこれからこの紙っぺらを使って思う存分今まで注ぎ込んだ資金を回収していただきたい。
この紙っぺらは君たちが星のついたレストランで働く資格を保証する。しかしまだ料理を客に食べさせたことのない君たちにとって何が一番重要なことなのか?食材か?料理法か?no! まだ君たちが全く経験したことのない、習ったことのない最も重要なことは、客が食べたいと思う時に一番いい温度で料理を出すタイミングの取り方である。
欲しいと思っている相手の気持ちを読むすべである。タイミングを逃すとだれも何も食べてくれない。これを肝に命じて最高の料理を作っていただきたい。おめでとう。

ちゃりんこで建築家会館へ、こぶし満開

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by 卓 坂牛


JIAで修士設計展のシンポジウムに出かける。ちゃりんこでのんびり15分くらい。今日は天気も良く気持ちいい。建築家会館のホールに30近い作品が展示されている。昨日槇文彦さんが審査をされて最優秀賞、優秀賞、佳作が選ばれていた。しかしさすがに甲乙つけがたい力作で槇先生も順位をつけるのは難しいという発言をされたそうである。
パネラーは小林克弘(首都大学東京 教授)、杉浦久子(昭和女子大学 教授)、               古市徹雄(千葉工業大学 教授)、安森亮雄(宇都宮大学 准教授)そして私。各大学の修士設計の取り組み方、これまでの作品紹介などしたうえで、JIAの修士設計展と東京コレクションとの違いなど、かなりつっこんだディスカッションが展開された。なかなか貴重な情報交換の場であった。終わってまた外苑東通りを四ツ谷にぶらぶら帰る。こぶしが満開。

今村君から現代都市理論講義をいただく

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by 卓 坂牛


今日は朝9時から翻訳勉強会。土曜日は大学のメールも少ないし、午前中は頭が冴えていて集中できる。今日はコンクリート製造におけるco2 放出の話。すごいなセメントの生産量。マヤ文明の遺跡を見た時にセメント作る石灰焼く窯見たけれど、いまだにこいつの効率が問題だというのが面白い。
午後帰宅すると今村君から著書が届いていた。この間ヴィドラーの訳書を頂き今度は都市論講義。まあ精力的でこのヴァイタリティ―はたいしたものだ。おめでとうございます。目次を見ながら、はて?この既視感。そうだこれって『建築の解体』にちょっと似た人選。解体で取り上げられている建築家8人の内半分近くがかぶっている。
あとがきで今村君自身書かれているが、20世紀の都市論で刺激的で今でも有効なものは60年代、70年代の20年に集中しているという。75年に出版された『建築の解体』とかぶるのも無理はない。
それにしても未だに50年前を超えられないというのはどういうことか?つまりそれはもはや都市の時代ではないということなのではなかろうか?都市は僕も大好きだけれどこれがこれ以上の何かになると言う可能性はまだあるのだろうか?そこが問題なのだろうが。今度理科大で今村君に教えてもらおう。

寺の庫裡

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by 卓 坂牛


朝、家の傍をジョギングしていたらこんな急こう配でしかもむくりのついた屋根が遠くに見えた。何を葺いているのかと近づいてみると瓦である。一体この建物は何かとあたりを見渡すと、ここは寺の境内である。庫裏だろうか?この境内をよく見ると奥の方にこれと全く同じ形をした建物がもう一つ建っていた。境内に向かって急こう配で境内の空間をなるべく広く取ろうということのようだが、、、、、普通の建物は隣地側に勾配ついていることが多いからこういう建ち方って目立つね。

親父到着、子供の一人旅のようである

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by 卓 坂牛


今日は兄家族と同居している親父が西荻からタクシーで家に来る日。兄家族引っ越しのため4日ほどこちらで暮らす。昨晩届くはずのレンタル布団が僕の注文ミスで届いていなかった。あわてて今朝近くのレンタル布団屋を探していたら神田に即届けてくれるお店があり事なきを得た。
2時にタクシーに乗せたと言う電話があってから1時間、待てど暮らせど来ない。すると義姉から電話、迷子になって戻ってきてしまったとのこと。なんとまあ。アクシデント続きである。こちらは、孫でも(いないけれど)待つような気分である。それから1時間くらいして到着。受付の管理人さんが玄関まで連れてきてくれた。イヤー良かった良かった。まるで10年以上前にシンガポールの兄の家に娘を一人で送り出して到着できた時のような喜びである。
到着した親父はお茶を飲みながら持ってきた小説を読んでいたが、僕の部屋から哲学書を持ち出し読み始めた。

歯を抜く

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by 卓 坂牛

歯医者行ってぐらぐらしている歯を見てもらった。歯周ポケットからゴミが入り歯を支えている骨がだいぶ痛んでいるようである。去年末に見てもらって掃除して消毒したけれどまたゴミが入って化膿している。
先生「また掃除して消毒しましょうか?」
僕「それって抜本的じゃないですよね?」
先生「そうですね」
僕「抜本的なのは何ですか」
先生「ブリッジですね、隣の親知らずは元気だし」
僕「でも親知らずもいつまでも持たないでしょう。持って5年ですかね?」
先生「まあそのくらいかしら」
僕「もっと抜本的なのは?」
先生「インプラント」
僕「それぞれいくらですか?」
先生「ブリッジ5万、インプラント40万」
僕「では問題先送りでブリッジにします。なので抜いてください」
先生「えっ抜きます?」
僕「ええ」
先生「では抜きましょう」
5分で抜いてさっぱりした。帰りがけに、こういう風にその場で抜くっていう人はあまりいませんよと言う。まあそうかもしれない。きっと歯に限らず、何か悪くなった即、取ってくださいと言うだろう。レストラン行ってメニュー見て30秒以上考えることないし、人生いつもこんな調子である。

沢尻エリカのドレスの色に魅入る

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by 卓 坂牛

大した話ではないのだが、今朝、朝食をとりながら新聞を読んでいたら、テレビに日本アカデミー賞受賞式が映されていた(ようだ)。映画通でもない僕にはどうでもいいことで、眼は字を追い、耳は音を聞いていた。「樹木希林全身がん衝撃告白、沢尻エリカを食った」と大騒ぎ。テレビって本当にくだらないよなあと聞き流していたのだが、ふと顔を挙げると、その沢尻エリカが映っていた。あれあれ、いいねえ、沢尻エリカがというより、その着ているドレスの色がいい。「ああいい色だなあ」と思った。色なんて好みの問題なので別にただ、「ああいい色だなあ」以上でも以下でもないので独り言のようなものである。どんな色かと言うとこんにゃくみたいな色だった。こんにゃくにもいろいろあるけれどうすーいグレーに茶色を三滴くらい混ぜた色だった。色を言葉で説明するのは限界があるのでもし興味があればネット見てください。この色でコンクリート表面をスポンジで叩くと結構いい感じになりそうな気がする。もう一つよかったのはこのドレスが少しシースルーなのである。建築の素材はシースルーというとガラスかポリカかとても硬質になる。もちろんカーテンたらせばリテラルに布の感触なのだが、それってバカみたいな話。固い素材が布のシースルー感を持たせられないだろうかと沢尻エリカのドレスを見ながら思った。そんなことをひたすら考えていると配偶者が横で映画の話をしているのが聞こえず、無視して怒られた。
その昔サーリネンがバター坪の中でバターこねくり回して建築作って離婚されたと言う話を聞いた(本当か嘘か知らないが、まあどっちでもいい)。僕もこの年になって離婚されないようにしないと。

気が散るフレームとは

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by 卓 坂牛


ああもう少しゆっくり勉強できる環境が欲しい、雑用多過ぎだ。
ノーマン・ブライソンの「拡張された場における<眼差し」>を何度も読んでいる。これはハル・フオスター『視覚論』平凡社2007所収の論考である。この論考の趣旨を簡単に言うと、近代の視覚はある限定されたフレーミングの対象に焦点があっているのだが、実は僕らの自然な視覚とはその限定されたフレーミングの「見えない」ことになっている「周辺」を感じ取っているということなのである。それでそういう<眼差し>を表象するにはどうしたらいいかと言うとそのフレーム自体を崩すような技法しかないとブライソンは言う。
つまり壊れたタブロー、額縁がちょん切れて壁に垂れ流されたような絵画なわけである。なんていうと実にべたであってそういうことでもない。でも絵を見ながら絵が置かれている世界を感じるようなことだと思う。ブライソンは雪舟の禅画を挙げていたけれどわからなくもない。
何でこんなことを書くかと言うとこのブライソンの視覚は僕が建築に思うことと重なるからである。僕が建築はフレームだと言う時に思うことがこれにかなり近い。建築が切り取る対象に人の意識を集中させたいと思いつつ、僕はその意識が散って、つまり「気が散る」ようなフレームを作りたいと常々思っているのである。