コーホート図の面白さ
先月卒業式を武道館で行い、今日は入学式を武道館で行う。娘の入学式には大隈講堂まで行って建物を見て帰ってきたのだが今日はきちんと最初から最後まで式に出てそのあとご父母の方とも懇談会を行った。
式と懇談会の間にだいぶ時間があり根本祐二『「豊かな地域」はどこが違うのか―地域間競争の時代』ちくま新書2013を読んだ。この中に僕の知らなかった人口分析グラフが登場する。コーホート図というもので、ある期間(たとえば5年間)の年代ごと(たとえば5歳ごと)の人口の増減を示した折れ線グラフである。単純なグラフだけれど面白い。例えば過疎な地域では20代の年代がぐっと減少し(皆都市に行ってしまう)、新宿などはそのあたりがぐっと増加する。大学が多いからである。この図とその地域のありようはイメージとしてかなり相関する。
夕方金町に移動して新年度初めての一部、二部合同の会議を行った。新しい校舎は天井を張っておらず、ダクトやスラブが見えている。いやだという先生もいるが、僕はあまり気にならない。むしろ天井が高いし爽快だ。ただ一つ欠点がある。吸音材がないので会議の声が反響してよく聞こえない。壁を少し斜めにでもしてくれるとだいぶ違うのだろうが、、、、、
カリフオルニアには自由の風が吹いていた
時差ボケもやっと少し直ってきたか?午前中共同研究プロジェクトの原案を練り、午後久しぶりにジム行って、その足で(ちゃりんこ)国立新美術館に行く。
カリフォルニアデザイン展を見る。30分で駆け足見学。「知らないデザイナーがいっぱいいるものだ」と改めてミッドセンチュリーデザインの形成過程の理解が深まった。カリフォルニアデザインはいろいろな説明のされ方がなされる。曰く、戦前の移民たちのデザインの集合。曰く、戦中の多くの軍事産業の生活産業への転換。曰く、戦後の飛行機産業、船舶産業に集まった人々と経済の活況がデザインを消費できた、などなど。どれもきっとそれぞれ正しい。ただ今回僕が最も再認識したのはカリフォルニアが「新世界であった」という点である。ここに集結したデザイナーにはこの場所を創造する自覚と自由があったということである。上に示した写真は1922年に撮影されたもの。現在のロサンゼルスの中心であるウィルシャーとフェアファックスの交差点あたりである。なんと道路以外ほとんど何もない。ここから10分くらい南に住んでいた僕としては驚愕である。半世紀前には何もなかった場所であることを改めて知った。これからほぼ30年の間にミッドセンチュリーデザインは生まれたわけである。0からの出発である。
ある一人のデザイナーのインタビューが流れていたが、彼ら(当時のデザイナーたち)には不思議と競争意識などなかったそうである。すべてのデザイナーがそれぞれカリフォルニアをしょってたつ強い信念を持っていたとのこと。いい場所と時代だったのである。
世界が働く場所
爆弾低気圧接近で空模様も不安定な中、新一年生のガイダンス。会場にはいくつかの試験面接でお会いした顔も散見される。
主任挨拶を最初にする。二つのことを話す。一つは常に自分は将来何をして生きていくのかイメージを持ってほしいと言うこと。二つ目は働く場所は日本とは限らないこと。
デンマークに比べれば人口比で三倍以上も建築を教える大学がある。建築に偏りがあるわけでもないのだろうから、その理由は進学率の高さによる。
このことは社会に出てからの競争率の高さにつながる。であるならば、必ずしも自分を生かす場所はこの日本の島の中とは限らない。世界を相手に生きて欲しいと僕は思う。
英語で授業をしよう
コペンからチューリッヒ着いたら、東京行きは4時間遅れ。仕方なく市内を散歩。久しぶりのスイスの町はクールでクリーン。高台に見えるETHの建築家たちが作るものはやはりこの町あってだなあと感じた。飛行機ではぐっすり寝て帰宅して風呂に入ってたまっていた新聞を見る。東大における留学生積極受け入れを狙った改革が5つ書いてあった。秋始業、英語授業、一年生の海外派遣、インターネット授業、推薦入試。
朝日新聞のデーターによると93年から18歳人口は半分になったが、進学率が倍近くまで増えた。なので受験をとりまく状況は変わらなさそうだが、大学の数が300近く増えたことで定員割れ大学が登場する。こうなりゃいい人材は世界に求めようというのがトップ大学の発想である。そこで冒頭の策などが各大学で練られ始めている。
しかし海外から呼ぶからにはこちらからも行かなければバランスがとれない。2000年当初は8万人いた留学生が現在は3分の2程度に落ち込んでおり、文科省も、私大の理事たちも頭を痛めている。理科大も英語教育に力をいれよと号令がかかっている。しかし英語力をあげるには英語の授業をたくさん開講するよりも、優秀な留学生をたくさん受け入れ、日本の学生が彼らと対等に英語で議論できるようにすることではないか?そしてその優秀な留学生から劣等感を味わい、カルチャラルギャップに驚き、心から海外留学の動機づけを得ることではないかと考える。
東大の真似というわけではなく、そのためには英語で授業をすることは必須である。日本の留学生が相手先の授業を英語でやってくれるか確認するのと同様に、海外の学生も日本の大学に来るとき、英語で授業をしてくれるかどうかを最初に確認するのである。
さあ錆びついた英語力をブラッシュアップしょう。
ヤコブセン
オーフスと言えばヤコブセンの市庁舎が有名。行く前にある方から言われた。確かに行って見ればこの田舎町に少しは建築らしきものがある。行く前に写真で見ていた時は打ち放しコンクリートかと思っていたが、大理石だった。そして仕上げはジェットバーナーのごとき荒れた肌である。えええええ、大理石のこういう仕上げは初めて見た。とても数十年で劣化してこうなったとは思えないのでこれは最初から意図的な仕上げだと思われる。
しかしだからと言ってその仕上げが外観に決定的な何かを生み出しているとは思えない。一種のトリックのようなものである。しかし中に入るとさすが家具デザイナーヤコブセンの本領発揮で様々なディテールに泣ける。
オーフス建築大学でのレクチャー、クリティーク
去年理科大からオーフス建築大学マスターコースに留学した太田寛君のコーディネートで、ここでのレクチャー、クリティークをすることなった。
デンマークにはオーフスとコペンハーゲン(ロイアルアカデミー)にしか建築を学べる大学はない。たった二つである。日本はと言うと150以上はある。人口比約24倍を考えても日本は多すぎかもしれない?ここでもアルゼンチン同様、マスターの学位がそのまま建築家の資格となる。それが理由かどうかはわからないが、とてもプラクティカルで実際にものを作る教育がなされている。工房の充実ぶりは日本のどんな美大もかなわないだろう(もちろん工学部の建築学科は論外である)。木工、金工、3Dプリンター、レーザーカッター、ウォーターカッター、などなど、聞いたことしかないような器具がすべてそろっているし、場所も十分広い。学生は電子キーでそれらを自由に使える(課金されるそうだが)。こんな大学がEU圏内なら学費無料というのが信じられない。でもこれが世界標準である。世界の大学行くたびに日本政府って何もしないのだなと思って結構へこむ。
●本を読みたくなる図書室
●左がアナス教授。バイキングである
お昼にアナス、カール両教授とランチをとってから、アナス教授が持っているスタジオ学生に対して、テクトニクスについてのレクチャー、ディスカッションを行う。彼らは既にインターンシップなどで働いた経験もあり、構造、ディテールに突っ込んだ質問をしてくる。そのあとアナス教授とハーバーを散歩。彼は家具デザイナーであり、彫刻家でもあり、もはやマルチな芸術家である。海岸沿いの乱開発を非難していた。日本に是非来たいと言っており、来た際には理科大でワークショプ、レクチャーなどをしてもらうことを約束した。
●二階席も満席。理解されているかどうは分からないけれど話しがいがある。
夕方全学年に公開のレクチャーを行う。500人ほど入る オーディトリアムがほぼ満席になった。連休明けのこんな時期に満席は珍しいし、この手のレクチャーは来ない時は閑古鳥が鳴くし、来てもつまらなければ皆帰ってしまうそうだ。日本人建築家は人気があるようだ。
●M1のプロジェクトコルビュジエ空間を応用するのがテーマ
夜は2年生、3年生、M1、M2のプロジェクトを一つずつ選んでクリティークとディスカッションを30分ずつ行う。日本の学生と比べるとプレゼンはデンマークの方が上手、考えていることは日本の方が少し上?まあ4つ見て何が言えるという感じではあるが。
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オーフス建築大学のゲストハウスへ
フィンランドの首都ヘルシンキから、飛行機を乗り継ぎ、デンマーク第二の都市オーフスへ。空港からバスで市内へ。食糧需給率200(?300)%を誇る広大な畑と牧場の中を突き抜ける。ブエノスアイレスでもそう思ったけれど食べ物が沢山あるところは生活が豊かである。コペンもヘルシンキも50万人くらいの都市で、オーフスは30万。長野市よりちょっと小さいくらいの町だがヴァイキングがこのあたりを制覇していたころの拠点都市で中世の面影が随所に残る。
オーフス建築大学のゲストハウスへ向かう。この建物もかなり古そうである。町の一角の4階建てのアパートの2階を大学が借り上げているのだろう。中は20畳くらいのリビングダイニングに10畳くらいの個室が3つ、キッチン、バスルームがついている。インテリアはご覧のとおり真白。暖房はこちらに来てどこもそうだが、電気で沸かす温水パネルヒーター。実に快適。
北欧の明るさ
北欧の町はどんよりした色に包まれているし、天気はいつも曇りのち雨みたいな状態だし(ここ数日例外的に晴れているが)彼らはほとんど真っ黒なコートにおおわれているのだが、マリメッコやイッタラやアラビヤなどが明るく透明で鮮やかなのはどうしてだろう。町を歩けばショウウィンドウ―はどこもそうであるし、黒いコートを一度脱げばその下は陽気な色に包まれている。
こちらの人に言わせれば、北欧の長く暗い冬を家で過ごさざるを得ない彼らにとって、せめてその生活が明るく楽しい色や輝きに包まれていたいと言う希望なのだそうだ。なるほどね、やはり北欧を知るには一年間いてみないと無理なのかも。