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May 2014

拡張するファッション

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by 卓 坂牛

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林央子『拡張するファッション』ブルースインターアクションズ2011を読んでいたら、たまさか著者がキュレートしている同名の展覧会が水戸芸術館で行われている(ということを佐河君から聞いた)これは見たいと思っているのだが5月18日まで。こういう時に限って土日にしっかり予定が入っているんだよな。やれやれ、、、、
この本は川久保玲、マルタン・マルジェラ以降のファッション界(95年以降と著者は言う)を描く本。同感だが95年パソコンが爆発的に普及して個人のクリエーションの幅が広がったのである。そしてファッションを拡張したのが写真家であった。ウォルフガング・ティルマンス、アンダース・エドストローム、マーク・ボスウィックたち。彼らは伝説の雑誌『purple』で今までにないファッション写真を掲載した。それらはモデルを使わない、ヘアメイクしない、スタジオを使わない、スタイリストを使わないというもの。ここにブレス ,コスミック・ワンダー、スーザン・チンチャオロらの新しい世代のアーティストともファッションデザイナーともつかぬ人間たちが絡んできたと言うことのようである。21世紀に入りファッションは巨大資本に吸収されたビッグメゾンに押されて停滞していると言われる。その中でファッションの殻を破った新たな世代のコンセプトは清々しい。建築も既存の殻を破るべく彼らから学ぶことは多い。
うーん何とか時間を作って水戸芸に行きたい、、、

伊東さんの案を支持したい

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by 卓 坂牛

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中沢新一が伊東豊雄に国立競技場の改修案を作成するよう促し、それが近々発表されるとのこと。中沢さんいわく「今の日本は、国土強靱(きょうじん)化の名の下、大規模な建築物をどんどん造ろうとしている。おかげで人手不足、資材不足が生じ、これを東京に回すことで、東北の復興は決定的に遅れる。安倍晋三首相の言う東京五輪との両立は矛盾している」と指摘。その上で、「われわれは五輪に異を唱えているわけではない。改修して良いものを造ることができるならば、『もったいない』の文化を日本の建築思想として世界に発信できる。将来発生する莫大(ばくだい)な維持費用を考えれば、国民にはそれに反対する権利がある」と言っている。全く同感である。近隣住民としては国立競技場の建て替えはまったく承服できない。ラスキンが言うように我々は過去から受け継いだものを壊す権利を持ち合わせてはいないのである。それは公共の景色であり記憶なのである。

イージーな時代にはいい加減うんざりしている

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by 卓 坂牛

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田口淑子編『All About Yohji Yamamoto from 1968山本耀司モードの記録』文化出版局2014の中で山本耀司が若者批判をしている。僕は若者批判が嫌いで「今の若者は、、、」という大人は先ず自分を見ろと苛立つことが多い。でも山本耀司が言うのならいいかなと思うわけである。彼は川久保玲の言葉をひいて「イージーな時代にはいい加減うんざりしている」と言う。僕もそう思う。何でもかんでも分かりやすいことに流れるこの時代って何なんだよと言いたくなる。僕の場合は若者批判ではない。大人批判である。政治も経済も社会もとにかく分かりやすく儲かりやすくステレオタイプな是に向かってどんどん動いていくこの無批判なイージーな時代にはもううんざりである。もっと物事を根源的に考えるような教育、創造、生産と言うようなものが必要なんだと思う。

ヒロイックな形

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by 卓 坂牛

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1時からプロジェクトゼミ。先週は面積音痴な案が多かったが今週は少し建築らしくなってきた。地上10メートルに35坪の居間を作りながら延べ面積を70坪に抑えるとなると中間階を飛ばさないと収まらない。その飛ばしをどうやるのかがこのプロジェクトの形態的なテーマ。勢いヒロイックな形が乱れ飛ぶ。ヒロイックな形はどうしてもそれだけがドミナントになってしまう。ヒロイックでも主張があればそれでもいいのだが。

ツツジ

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by 卓 坂牛

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最近白いつつじをよく見かける。ピンク系のものより僕の好み。小学生の頃はよくツツジを取っては蜜を吸っていたのを思い出す。お菓子があまりなかったからなあ。

視覚論が導くもの

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by 卓 坂牛

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今日は視覚性について整理。視覚論の古典であるジョージ・バークリーの『新視覚論』を再読。視覚は情報を受け入れる視感覚とそれを理解する空間感覚とに分かれ。後者は経験、教育によって育まれると言うバークリーの指摘は現在まで生きている。
よく視覚は飼い馴らされるとか、視覚は制度だというがつまりこの後者の部分が時代や場所によって変化することを言っているわけである。
消費と言うテーマでは消費社会以降という次の時代感がありそれに適合する建築を考えることが一つの問いになるのだが、では視覚の場合はどうなるのだろうか?
僕はこんな風に考えている。先ず視覚学者マーティン・ジェイの言う近世の三つの視覚に注目してみる。それらは透視図、バロック、17世紀オランダ的視覚の三つである。最初二つは有名だが3つ目はどのようなものかと言うと、断片的で、近視眼的に物質性を熟視し、輪郭があいまいに次の視点へ地すべりするというものである。
実はこの視点は現代写真家ティルマンスの指摘と完全に一致しているのである。ティルマンスは最近の写真集のインタビュで断片化、高解像度、多重性を現代的な視覚の動態として捉えている。その意味でこの3点は今まさにもっとも現代的な視覚のようだ。ではそれはいかに建築化されるのか?あるいはそういう目で建築の魅力を引きずりだすとどうなるのか?というあたりがこのテーマでの問いとなる。

ワタリウムの脇に素敵な写真専門店発見

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by 卓 坂牛

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読書に飽きてワタリウムにルドルフ・シュタイナーの展覧会を見に行った。見終わって出てぶらぶらしていると素敵な本屋さんを見つけた。入ってみると写真専門店。もう20年もやっているとのこと。ティルマンスのNeue Weltのオリジナルがあったので即買う。ティルマンスの新しい視覚、断片化、高解像度、多重性が見事に伝わる。いいなあ。

消費は一つにはまとまらないということが分かった

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by 卓 坂牛

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昨日に引き続き消費の本を2冊読む日本デザイン機構『消費社会のリ・デザイン』大学教育出版2009と安田常雄編『社会を消費する人々―大衆消費社会の編成と変容』岩波書店2013前者は新しい消費社会を模索するものであり、一様に感性重視、場と時と人というような新たなアイテムが取り上げられている。一方後者は戦後日本がどのように消費社会を作り上げられてきたかを様々な局面から描いている。
自分の読んだ消費の本をまとめてみると産業化論的なものはなく、あるのは消費記号論か脱物質主義化論、あるいは脱工業社会論である。消費の問題は21世紀に入り一段落してその向かうべき方向性が見えてきた感がある。僕の中の結論は現在の消費動向も進むべき方向も一つにはまとまらない。まとまる必要もないというところ。やっと読んできたものの位置づけも分かっててきた。

中庸消費論

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by 卓 坂牛

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連休中の消費論スタディ第三弾は間々田孝夫『第三の消費文化論―モダンでもポストモダンでもなく』ミネルヴァ書房2007である。この本の第三のと言っているのは上記マトリックスのローマ数字のⅠのスタンスのことである。モダンの消費論はⅢでボードリヤールに代表されるポストモダンの消費論はⅣである。
つまり著者は脱物質主義(物への欲望を基盤とした社会からの脱出)を標榜しつつ物の使用・機能価値よりも記号・文化、価値を認めるスタンスである。ボードリヤールは仕方なく物質主義を肯定していたようであり、無印はやや記号価値を否定にかかったが完全否定はできずそして物質主義を否定しようとしたが所詮大量生産に立脚しているのであり完全否定はできない。よって無印はこのマトリックスの丁度交点あたりにあるのかもしれない。
建築家が目指すはおそらくⅢとⅣの間であり縦軸の上のほうではなかろうか?物質主義を否定しつつ建築の価値を使用価値と記号価値の中央に位置づけるものである。
物質主義か脱物質主義化と問われれば脱物質主義を目指したいところだが、価値を使用におくか記号に置くかはどちらと決めつけられるものではない。やはり中庸である。中庸消費論が必要だと思うがどうだろうか?

MUJIは日本を救えるか?

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by 卓 坂牛

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連休の初日。先日買いだめた消費本を読み始める。今日は堤清二と三浦展『無印ニッポン―20世紀消費社会の終焉』中公新書2009と深沢徳『思想としての「無印良品」』千倉書房2011。三浦も深沢もパルコの人で堤は言うに及ばず。話は西武がいかに消費社会をリードしてさらにそれをポスト消費社会にどうつなげるかと言う筋になる。三浦は無印という言葉に消費社会以降への期待を込めている。気持ちは分かるが僕らは相変わらず記号が好きである。記号を全く無視できるような社会が来るかもしれないがそれはだいぶ先のように思う。