美学会が年に一度行う公開シンポジウムの今年のテーマが「都市と建築の美学―新国立競技場問題を契機に」というタイトルで本日東大文学部で行われた。司会は京大の岡田先生。基調講演を槇さんがされ、登壇者として東大の初田さん、早稲田の中谷さん、そしてスカイプでコロンビアからオリンピア・ニリオさんがそれぞれスピーチされた。この問題に関する槇さんの発言は既知の内容だったが、中谷さんのそれは初めて。彼の主張はいくつかあったが重要なことの一つは建築家の権利を擁護するというものだった。すなわち既に決定されている複数の建築家(デザイン監修者であるザハと日本側の基本実施設計者)の権利を守った上で彼らに意見すべきことであると言う枠組み設定だった。建築家の権利擁護には賛成であるが、そもそも不完全な要項によって選ばれてしまった建築家の案を妥当な案として擁護するのはおかしいと僕には思われた。
しかしこうした議論が建築界の外で行われたことの意義は大きいし、それを成立させるために中谷氏が尽力したとすればそのことには敬意を表したい。
このところ毎週末土日ともになにか用事があり7月に入って一度もジムにいけてなかった。そこで今日はがんばって10時にジム行き、ヨガやって筋トレして走った。ちょっとやりすぎたせいか午後の翻訳読み合わせでは眠くて参った。終わったら雨が降り出し、仕方なく自転車を大学に置いて事務所へ。一仕事してから帰宅。残りのエビをガーリックでいためて食べよう。
昨日多田さんと話をしていたらブラジル建築の巨大なキャンチレバーはかなり硬いコンクリート、スランプ0くらいのコンクリートをそれこそ打つように型枠内に放り込むのではないかと言っていた。そうしないと長期的にはクラックがとんでもなく入ると言うのである。なるほど日本でもそういう打ち方ができないのだろうか?フォーティー曰く日本のコンクリートは木造だ(型枠の美しさが現れる)だそうだがそうでは無いコンクリート建築を日本でつくってみたい。
毎年行われている学会主催の学生サマーセミナーというイベントがある。実質的には斎藤公男先生が率いてやっている構造デザインコンペである。私も審査員の一人として午後各界へ。数十の応募があり書類選考して10余りのデザインを事前に決めて、今日朝から学会の中庭で作成。3時から一チーム3分のプレゼンをして審査員が投票する。審査員は構造デザイナー、構造の教員、建築家と豊である。構造では多田脩二さん、小西泰孝さん、佐藤淳さん、陶器浩一さん、和田章先生、斎藤公男先生などなど、建築家は中山英之さん、鍋島千恵さん、前田圭一さん、などなど。豪華な顔触れ、会場には日建時代の後輩の構造家たちも多く来ていて日建OB会みたいでもあった。
投票の末一等に輝いたのは「ゆらら」と題する直径1.5ミリの鋼線数十本で持ちあげられた揺れる構造体。クラゲのようでもあり、火星人のようでもあり、チャーミングな案だった。驚いたのはこのチームを指導していたのは首都大学東京の高木さん。誰かと思えば日建時代の後輩ではないか。聞くと日建をやめてアルプに行って6年前から現職だとのこと。いい指導してますね!
昨日初めてゆっくりお話しした編集者のIさんが現代人は熟慮を避けて結果にいかに早く辿り着くかと言うある種プラグマティックな思想に傾いていることを危惧していた。それを彼は「ショートカット」と呼んでいたが同感である。世の中にはショートカットが蔓延している。その理由の一つはネット上の膨大な情報をかき分ける術の習得が必然となってきたからでもある。そして単に結果に早く行きつくプロセス(方法)を編み出すのではなく、建築の限界ラインの彼岸を垣間見ることが今必要なのではないかと言っていた。その意味で「建築の条件」はそうした限界ラインをおぼろげにでも見せてくれる重要な枠組みの提示だと評価してくれた。そうだと自分でも思っている。未だ書いていないところ。書いてはみたものの修正したいところ。頭の中をもう少し整理しよう。
研究室に届いたDiner & Dinerの作品集を見た。彼らの建築が硬質な表面をもっているのは街が硬質だからなんだろうと納得する。数十年前に住んでいたバーゼルの街は乾いた硬い街だったような気がする。この写真の街ルッツェルンには友達を訪ねて1泊2日で訪れた。ここも古い歴史の路地のような切れ目の無い石の壁が連なっていた。乾燥した硬さを感じた。この硬さが鉄の壁となって現れるのはとても自然なことだと思う。建物だけを取り出すとエキセントリックだが街には整合する。
旧知の某編集者が私の早稲田で行っていた講義「建築の条件」をHPで知って興味を示してくれて時来所された。僕の「建築の条件」とはジェンダー、消費、視覚、主体、他者、倫理、階級、グローバリゼーションなどの社会の枠組みがいかに建築を条件づけているかを論じている。言えばカントの批判による人間悟性の条件付けのようであるしアーレントの『人間の条件』ようでもある。僕は小田部胤久の『芸術の条件』に大きく啓発されたのではあるが。
こうした条件付けは建築の限界境界線を提示しそしてどうやってその境界の向こう側へ渡れるかを探ることでもある。例えば事務所近くで真新しいビルが解体されているが、消費性に条件でづけられた建築の限界の向こう側を考えることの重要性を思うのである。
2年生の製図講評会。今日は原田さんをゲストでお呼びした。非常勤は長谷川さん、上条さん、蜂谷さん、今村さん、水戸さん。課題は住宅。なかなか面白い案がありました。このまま後期もいい案を作って息切れせずい3年生になって欲しい。
昨晩ノートパソコンのファンがかなりの速度で回っていたらしい。朝起きるとパソコンがかなり熱くなっていた。そしたら案の定OSが起動しない。トホホ。事務所に持って行って竹内君に見てもらったのだがやはり起動しない。しかたなく解体してハードディスクを取り出すことにした。しかしどうもこのバイオの造りは特殊なようでねじで開かない。万事休す。それにしてもパソコン運がないなあ。信大時代もよくこわれた。バイオの前に使っていたマックエアーを出して来て取りあえずリリーフ。生きたノートを一つ持っていることにしておいてよかった。でももう回復できないデ―タ―あるのだろうと思うと凹む!!
オーフス建築大学の院に留学していた太田君が一時帰国したので「海外で学ぶこと」というレクチャーをしてもらった。海外留学を考えている学生も多くいるので彼の話はためになったはず。毎セミスタースタジオがありコンセプチャルなモノからテクトニックなものまでいろいろあるようだ。教員の人気が無いとそのスタジオの希望者が減り希望者が減ったスタジオの教員はクビだそうである。その方法は良くも悪しくもあるだろうけれど。
○庇のせいか30年以上たったコンクリートが痛んでいない
○天井高は頂点で6メートル
朝の新幹線で沼津へ。篠原先生1978年の作品愛鷹裾野の家を見せていただいた。竣工当時は周囲は何もなく荒々しいランドスケープだったそうで、その中にやはり荒々しい打ち放しの家が建っていた。当時としては珍しかった打ち放しコンクリートに周囲の人はいつ瓦を載せるのかと聞いたと言う。2年前に屋根に防水をかけ内装のペンキを塗り直したが外壁は当時のままとのこと。しかし30年以上たった外壁が全くいたんでいなかった。76年にできた上原通りの住宅のコンクリートと比べると雲泥の差である。庇の力が大きいということだろう。