磯崎新インタビューズ
日埜直彦 さんが磯崎新に10年間(2003~2013)かけて行ったインタビューが本になった(日埜直彦、磯崎新『』磯崎新interviewsLIXIL出版2014)。磯崎新が建築を始めたろから2000年までの貴重な記録である。その上インタビューなのに注が丁寧に入っているのには恐れ入る。これだけのものはそう簡単にできないよなあ。
そのインタビューの最後が21世紀のアーキテクトというタイトルで2014年に行われている。そして次のようなグローバルな世界の現状が語られる。
・40年後には社会をリードするものがテクノクラシーからメディアクラシーに変わり、政治も経済もメディアのフィルターによって決まる。
・また現代美術はアーティストが作っているのではなく、MOMAや世界中の財団、コレクションなどのインスティテューションが何かを組立そこでアーティストを売ろうとしている。
・モダニズムは表象が根拠によって説明できなければ承認されなかったけれど、現在はブランドが注目され、それを推進するスター・システムが逆に注目される。アイドルがこれに替わる。
磯崎の予想は放っておけばそうなりそうなのだが、文化はそこまでリキッドに(昨日のバウマンの用語を使うなら)なって大丈夫だろうか?
リキッド化した世界の文化
ジグムント・バウマンの新刊伊藤茂訳『リキッド化する世界の文化論』青土社(2011)2014はグローバル時代の文化解釈としてはとても分かりやすい。初期資本主義はソリッドモダンの時代でネーションステートが確立しており、そのネーションステートの秩序を維持するツールとして文化があったのだという。それはブルデューが言うように社会階層に対応した文化というものがあり、富裕層はハイカルチャーを楽しみ、低所得者にはそれに対応するカルチャーがあるというあの話である。社会階層=社会秩序が階層化した文化と合体することで磐石な社会を形成していたということだ。ところが後期資本主義=リキッドモダーンと著者が呼ぶ時代に突入した。世界はグローバル化し、一見終焉と見えた消費世界はますます消費社会化し、グローバル化するファスト、フード、ファストファッションが人々のマネーを奪取するために、瞬間的に商品を変化させている。加えて人々の移動は第三の民族移動の時代を迎え急激に世界を駆け巡っている。ここではネーションステートの境界線は溶解し文化がネーションステートの秩序維持のツールである必然性を失うのである。つまりもはや文化はブルデューが分析したような「場」を形成することもなく、人々は自分の社会的階層と何の関係もなく雑食的に全てを貪り食う状況となるのだという。加えて文化は上記ファストフードやファションと並行関係を持ちながらファストカルチャー化しているというわけだ。バウマンのいう状況に日本が陥っているかというと、にわかに賛成する気はなれないが、おそらく彼の住むイギリスのような日本よりはるかに階級的な社会では実際そうしたリキッドな状況が起こっているのかもしれない。ふむふむ。
月曜日は長いへとへと
長い月曜日を乗り越えるとホット一息。とは言え帰宅すると散乱した本の中にぐるり囲まれた部屋で、次なる思考に頭を切り替えるのだが、お腹が減って続かない。ご飯食べよう。
権力がピラミッドを作ったのではなかった
昼から翻訳勉強会。今日は12時から5時まで。夜NHKのティオティワカンのピラミッドのドキュメントを見る。ピラミッド頂点の真下に十字形のトンネルがありそこに様々な埋蔵物があるのだそうだ。
以前オアハカのピラミッドを見たときも、一昨年マヤのピラミッドを見たときもトンネルのようなものはなかったが。
マヤのピラミッドも実に大きかったがあれは一度にできたのではなく、増築に増築を重ねてお大きくなったとのこと。ティオティワカンのそれも数百年をかけてあの大きさになったと推測されている。そして最初のピラミッドは雨季と乾季の太陽の出る方向を示すもので神殿ではなかった。大きな権力が巨大な構造物を作ったのではないというのが画期的な説である。
もう少し力をいれないと
夕方3年生の製図中間発表。アーキテクトファイブの川村先生、竹中の萩原先生、帽田先生、柳沢先生、構造の横山先生。僕の製図の授業では中間発表いれたのは初めてなのだが、中間だという思いからなのか?皆今ひとつ力が入っていない。
篠原作品の生活実態調査図
わけあって西山夘三さんの『日本のすまい』全三巻を古本屋で買って調べ物をしていたのだが、実に内容が充実しているので驚いた。教科書にしたいくらいである(内容が多すぎてとても教えきれないだろうけれど)。第二巻には建築家の住宅についての考察が多くある。目次に名前があがりかなり詳細に分析されている建築家は佐野利器、清家清、池部陽、篠原一男である。その中でも篠原一男は階級意識が乏しい建築家として批判的に(というかかなり滅茶苦茶に)記述されている。そして篠原先生のいくつかの作品では住み方調査がされておりその分析図および説明文もいくつか掲載されていた。こんなもの初めて見た。びっくり。おそらくこの時代にはいろいろあったのだろう、、、、、知らなかった。
あった
研究室の書架に探していた本が見つかった。アンソニービドラー編『建築のスペクタクルと使用』(Anthony vidler ed. Architecture between spectacle and use 2005)これは同名のシンポジウムのプロシーディングを集めたものなのだが、三部に分かれていてその第三部は「スペクタクルの再定義」称し、アンソニー・ヴィドラー「建築領域の拡張」、マーク・ウィグリー「量の歴史に向かって」、ハル・フォスター「イメージ・ビルディング」という論考が並んでいる。よく見るとすべて読んだような赤線がたくさん引いてあるのだが、、、、だいぶ忘れた。ヴィドラーはコンピューターによって建築の形態操作はますます未知の領域に入りそれは一般にフォルマリズムとして批判されるけれど、エコロジーと関連して可能性があると述べる。ウィグリーは、うろ覚えだが、とにかく建築は大きくなるし、表現は過剰になる。この過剰の歴史を書いていたような??、フォスターは先日読んでいた『デザインの犯罪』の6年前の話なのでタイトルからすると、まあポップの流れが現代のスペクタクル建築の源流とした上でそれらをイメージしやすいイメージ建築と位置づけた。
3人ともスペクタクル建築を強く否定はしていない。2005年の時点ではまだそんな状態である。そしてそれから10年たった今、フォスターは既に5年前くらいに少々批判的なことを述べ、恐らく他の二人も肯定的ではないだろう。そしてそんなスペクタクル建築の一大産地の中国では習近平がもうそう言う建築は中国にはいらないと言った。
そろそろ終わるかスペクタクル建築??