urban enhancement
昨日のお祭りで100本の軽い紐でurban enhancementを行った。祝祭空間の演出である。紐100本全長2キロで約6キロという梱包用の軽い紐である。徹夜して100本の紐を切り出して早朝5時から6時間かけて取り付けた。お見事。この飾りつけで訪れる周辺の方たちもいたようである。
昨日のお祭りで100本の軽い紐でurban enhancementを行った。祝祭空間の演出である。紐100本全長2キロで約6キロという梱包用の軽い紐である。徹夜して100本の紐を切り出して早朝5時から6時間かけて取り付けた。お見事。この飾りつけで訪れる周辺の方たちもいたようである。
朝から天気はぐずつき気味。今日はエンリクワークショップの祭りプロジェクトを実行する日。今年の2月にエンンリクにメールをして日本でワークショップをやる気があるかと聞いた。そしてOKの返事をもらう。僕は彼のことを知っていたわけではない。ただ一緒に篠原先生の本に寄稿した同じ穴のムジナというだけ。そして大学の助成金をもらうことが決まり9月にバルセロナに行って、何をするかを話しあった。僕が与えたテーマは公共性。彼が考えたタスクは祭りだった。意味はわかるが果たして何ができるのかわからなかった。11月メールが来た。彼は言う。単純にデザインするだけではなく祭りを決行するのだと。そんなことそう簡単にできないよと彼に行ったのだが彼は折れない。そのやりとりは何度かあったが彼は絶対やるという。ぼくは助教の呉さんに警察、管財課に行ってもらい許可をとった。そして商店会長と会い。そして学科の他の先生のコンセンサスを得た。こんなに面倒くさいことをするだけのことがあるのだろうかと少々難しい気持ちにもなった。そして今日。2時間半神楽坂を練り歩き、大騒ぎしてそして終わり。多くの人が(ほとんど外国の人だったが)コミットして1時半ころこの騒ぎは終わった。その後3件飲み歩き、学生と話、多くのゲストのスペイン人と話をした。
すばらしい日だった。
先生として:
こういうワークショップはずっと続けたい。学生が世界を見られるようにするために。
建築家として:
建築家がやるべきことの広がりをエンリクに教わった。
人間として:
今日の祭りをひたすら楽しんだ。
ありがとうエンリク
ありがとう学生諸君
ありがとう呉、佐河、常山、かやの木。
SANNAデザインのオフィスビル芝浦ハウスで19日よりJAPANEAE JUNCTION展が行われている(建築留学生のプロジェクト展覧会)。夏にOFDAでアルバイトしていたグラスゴー芸術大学(あのマッキントッシュの)に留学中のOOSHIMA君も出品しているというので覗いてきた。ETHに留学中の元日建にいたNAGAOさんにも声をかけられおふたりからはそれぞれの作品を丁寧に説明していただいた。全部で20近い作品が展示されていた。以前見たときはアートか建築かわからないものが多かったが、今年はソーシャル派、エンジニアリング派、ちょっとグニャグニャ派、ミニマリズム派、程度の差はあるものの。みなきちんと建築だった。さすがにプレゼンボードはみな鍛えられていて見やすいものだった。
毎年思うけれど、ワークショップやるって楽しいけれど仕事は増える。そろそろバテ気味である。ほかのことがいろいろと御座なりに当たり前。今日はファイナルレビューでマニュエルに来てもらった。マニュエルのレビューは初めて聞いたけれど、普段と変わらず的確だし、楽しい。土曜日には実際にネオ祭りを行うが彼はそこにも来てくれるとのこと。ありがたい。
先週の金曜日、エンリクと理科大平川副学長を表敬訪問した。学長特別招聘研究者として大学からの助成で来日しているためである。15分くらい彼のバルセロナでの建築、都市づくりの考え方を披露。その後101教室で公開レクチャー。たくさんの学生が聞きに来てくれてうれしい限りである。
原広司さんのレクチャーが理科大で開かれた。原さんの最も魅力的な本は『建築に何が可能か』である。この本で原さんはモダニズムをこう説明する。20世紀に芸術も建築も科学に憧憬を抱きそしてすべては抽象化を目指した。その理論的なバックボーンはヴォリンガーである。そして絵画は抽象化によって対象を捨象した。そして建築は機能を捨てた。
そして原さんの建築はこの抽象化を攻撃したと僕には映った。し か し 原さんはこの抽象化の攻撃を抽象的に行おうとした。今日の講義でも重要なのは建築家は建築を説明する言葉を持っていないという点である。つまり新しい建築を創るためには新しい言葉がいるのだという。言葉とはそもそも抽象化によって生まれるものである。原さんの最大の力は抽象によって生まれる何かで抽象化を攻撃するという原理的な矛盾を内在させたその創作のメカニズムにあると僕には思える。もちろんはたから見ている勝手な推測だが。
磯崎がこれからの建築界の原理にスターアーキテクトを外せないとしているが、スターアーキテクトというからには単なる有名建築家というだけではあるまい。これは映画スタートのアナロジーで出てきた言葉であるから、映画スターの持っているような力や役割を兼ね備えているはずで誰かがそういうことを言っていないかと思っていたらこの本に書かれていた。Donald Mcneil The Global Architect Firms, Fame and Urban Form Routledge 2009 ここで著者はこう言う
「スターシステム、あるいはスターを使うということは20世紀の映画産業の多くにおいて映画製作、映画ジャンルの基礎を築く上でのリスクを減らすために行われてきたことである。・・・中略・・・スターの力が映画需要を喚起するのと同様に建築デヴェロッパーは時として懐疑的になる公衆や市場に対して建物の需要を喚起するスター建築家の重要性をよくわかっているのである。
さらに著者はこういう
「画期的な仕事をなした映画スターは危険を冒したがらない心配性のプロデューサーを満足させる最初の役割を繰り返しステレオタイプ化して、批判される。同様にスター建築家もリスクを恐れるクライアントからは同じスタイルを繰り返すことが期待される」
というわけで世界に同じアイコンがスタンプされ続けるのである。僕が一番問題だと思っているのはこの同じアイコンスタンプによってスターアーキテクトが怠慢化することと、ローカリティーの無視なのである。