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May 2015

見られる権利

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by 卓 坂牛

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先日のゼミで人間は日常性の中に埋没して堕落(頽落)するというハイデッガーの指摘が話題になった。そして僕は自分の建築思考に最も影響を与えた哲学者はハイデッガーであり、自分の建築は人間が頽落から覚醒する装置にしたいと説明した。そのためには建築自体の力よりそれ以外のものに依存している。そこで一番大きい要素は人であり、隣人の視線だったりする。つまり覗かれるというような視線に緊張感を覚え頽落から覚醒するという話をした。ちょっとエキセントリックなたとえだと思ったのだが、今日山本理顕『権力の空間 空間の権力――個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ』講談社選書メチエ2015を読みながら、ああ山本さんも類似した考えがお有りではないかと感じた。氏はハンナ・アーレントを引きこう言う
完全に私的〈private〉な生活を送るということはなによりもまず、真に人間的な性格に不可欠な物が『奪われている』deprivedということを意味する」とアレントは言う(『人間の条件』87頁)なにが奪われているかというと「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われている」(同頁)のである。「他人を見聞きすることを奪われ、他人から見聞きされることを奪われる」(同頁)ということは、自分自信その周りの人々(他者)と共にいるという実感(リアリティ)が奪われているということである。
理顕さんの主張はもちろん公共性の意義をアレントを引いて主張しているのであり、かたや私の主張は個の頽落からの脱出である。一見異なる主張のように見えるが、ハイデッガーも人間が他者と共にあるという共存在という概念を主張しており、頽落からの脱出はすなわち共に生きるということに繋がるモノなのだと思う。アレントはハイデッガーと師弟(不倫)関係にあったわけで思考の根っこはかなり近いはずである。

消滅可能性都市

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by 卓 坂牛

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元総務大臣の増田寛也『地方消滅』中公新書2014が2015新書大賞となったのんで読んでみた。896の市町村を消滅可能性都市と断定したあの本である。消滅可能性都市とは若年女性人口変化率が―50%を上回る都市を指している。若年女性とは出産可能性の高い20歳から39歳までの女性を指している。さて本書には全国の市町村のこの若年人口変化率の表が掲載されておりこれを見るとええあの都市がこの都市と同じ????とびっくりする。
たとえば
① 母の生まれた青森県十和田市も父の生まれた青森市もどちらも消滅可能性都市。青森で最も若年女性人口変化率(以下Jと表記)が低いのは観光地奥入瀬渓流のあるおいらせ町(―36.6%)。その次は原子燃料サイクル施設のある六ケ所村(-43.7%)である。
② 茨城県で僕らが小学校再利用計画を行っている茨城町では-41.2%この数字はやはり街づくりのお手伝いをしている八潮市(-42.5%)とあまり変わらない。ちなみに茨城県でJが最も小さいのが東海村(-14.1%)というのも皮肉なものである。
③ 東京は減らないだろうなんて安心しているとさにあらず。豊島区は-50.8%で消滅可能性都市である。
④ 工場再生を行っている富士吉田市は-58.1%とかな大きい。知覚の河口湖町は山梨県では-26.8%と山梨県では2番目にいい成績なのはやはり観光産業が根付いているからか。この数字は軽井沢(-33.0%)よりもいい。
⑤ 昔幼稚園を設計した富士市は-35.7%で静岡県ではいい方である。工場が多く子供も多い町だった。軽井沢はこの数字よりよく、さらに河口湖はさらにいい。富士山の力は大である。
などなど、人口動態は地方の将来をかなりの確率で言い当てそうである。もちろんそれをもとに対策を練ることでこの数字は変えられるもの。政治がそれを意識するかどうかである。

久しぶりに大島と会う

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by 卓 坂牛

午前中施工者と打ち合わせ。この施工者は原寸を描いてきてくれるので1ミリ単位の細かなディテールとなる。午後一で東工大でエスキス。緑が丘で塚本に会う。チリは楽しかったようである。去年よりエスキス者が多く、熱心ではあるが、デヴェロップが遅々としている。夜理科大でプレディプロマエスキス。こちらも悪戦苦闘。武蔵美の院に行った大島が遊びに来てゲストクリティック(偉そう)。

助成金

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by 卓 坂牛

今日大学の国際交流課の方と話してとある国際的な助成金の申し込みをするかしないか議論してしないことにした。その理由は出しても通るような書類を作る時間がないのとそれだけの体制を大学内に構築するのが難しいと判断したからである。全国で8つの大学に出される予定のこの助成金の額はとんでもなく大きい。そしてこれまでこの手の助成金はだいたい同じ大学に出ていることを考えると、おそらく助成の情報はかなり初期の段階で漏れていてその情報を掴んでいる大学は十分な準備期間があるのだろうと予測される。それは大学の情報網がしっかりしているというよりかは、助成を出す側が情報をあえて漏らししている可能性もあるのかもしれない。

ノイズは手段

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by 卓 坂牛

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美しいと言われるような音が世の中にはいろいろある。たとえそれが所謂音楽と言われるものではなくても。アナウンサーの声、教会の鐘の音、虫の声、弦楽器の開放弦の音、オーケストラのチューニング、などなど、世の中にある音からそうした音や綺麗だと言われる音楽を引いて残った音がある。それがノイズである。著者は一言で「どのようにしても最終的に残留し、異物として作用するものです」と言っている(ポール・ヘガティ 若尾裕、嶋田久美訳『ノイズ/ミュージックー歴史・方法・思想 ルッソロからゼロ年代まで』。そしてそういう異物は音楽に限らず、創作という行為にどこかで常に入ってくるものなのだと著者は言う。だからノイズミュージックがありノイズアートがある。そう考えればノイズアーキテクチャーだってあるはずである。この本の面白いところは、所謂ノイズだけではなく、テクノ、フリージャズ、プログレ、パンク、インダストリアル、などノイズを含むものはすべてとりあげながらそのノイズ性を議論しているところである。つまりノイズの分量を変えながらピュアな音を壊している。
建築で言えば、おそらく最初にノイズを作ったのはゲーリー自邸といえないだろうか?美しいと言われるものを全部取り除き残ったもので自分の家を増築したのがゲーリー自邸である。

屋根現れる

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by 卓 坂牛

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朝の新幹線で軽井沢へ。北陸新幹線ができたからなのか、善光寺の御開帳が原因なのかわからないが、アサマは満席。東京も涼しかったが軽井沢はかなり涼しい(というより寒い)。現場は脱型が終わり屋根の支保工も全部取れて空間が見えてきた。この建物の技術的には一番難しかっただろう屋根のコンクリート打ちが終わりほっと一息。現場では植栽のNさんと打ち合わせ。クライアントから。道路側を完全にオープンにしようという名案が出てかなり素敵な外構ができそうである。事務所に行って定例を終えてから、塗装屋さんが外壁の色見本を持ってきて色決め。まだ数箇所色が決まらないところもあるがそこは次回定例で。その後キッチン屋さんがやってきて細かな器具を決める。今日はいろいろな懸案事項が決まった。

僕に決定的な影響を与えた一冊

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by 卓 坂牛

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午後から大学院推薦希望者と面接をして大学院で何を学びたいかなどを聞いた。その後輪読。4年ぶりに読む和田伸一郎さんの『存在論的メディア論』。最初に読んだのは10年以上前でこれを読んでそれまで作ってきたもの、その時作っているものについての考えが言語化された。それほど私とってはその時の思考と波長が合うものだった。
ゼミで3度目くらいになるこの本の学生の説明と議論を聞きながらじっくりとまた10年前を思い返してみた。何を最も影響されたのか?一言で言えば自分の建築は日常に埋没して頽落の状態にあるおよそほとんど人々を覚醒させたいのだろうと過去を振り返った。そしてそれに最も効果的なものは建築という物ではなく建築の以外のもの、その中でも最も強いインパクトを持つのは人の存在、あるいは視線だろうと感じ取っていたのである。今読んでもその思いは同じである。
しかし一方で僕のもう一つの建築の考えの根底に有る質料性問題がある。これは昨今のニューマテリアリズムに接続する問題系であり、おそらくこのどちかということではなくその両方に両足を載せることが重要なのである。

アーバンルーフ

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by 卓 坂牛

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午後から東工大の中間講評会。金箱さんとアーバンルーフという課題。45人全員発表なので結構ハード。あとエスキス2回でフィニッシュさせるにはまだまだという人もいるし、だいぶスタディが蓄積されている人もいる。しかし総じて作っているもののスケールがわかっていない人が多い。後半戦に向けて是非周囲の建物もいれた1/50の断面図を描くように言う。

ストリートを見直そう

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by 卓 坂牛

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昨日もモリスの共同体社会主義を読みながら、どうも共同体という言葉の行く末にちらつくナショナリズムが気になる。ギードボーたちが60年前にやろうとしたことの一つはまさにこの一点に凝縮してくるファシズム的資本主義的な視覚(ワールドカップやオリンピックのような)の熱狂を錯乱して様々な状況を作ることだった。言えばスタジアムからストリートへというような流れである。だからストリートが大事なのであり、事後的にだが、やはり祭りはやった甲斐があったと思っている。日本は2020に向けてますます熱狂的なスペクタクルが資本の力で生み出されるだろう。それは現在の自民党政権にとって願ってもないことである。こうしてナショナリズムを醸造するのが安倍首相の狙いでもある。
文化を、視覚を拡散する上でストリートが見直されるべきである。ストリートファッション、ストリートアート、ストリートミュージック、などなどである。大山エンリコイサム『アゲインスト・リテラシ――グラフィティ文化論』LIXLIL出版2015もそんなストリートアートを再考するにはいい本である。これから読んでみよう。

共同体

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by 卓 坂牛

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ウィリアム・モリス,E・Bバックス 大内秀明、川端康雄訳『社会主義その成長と帰結』晶文社2014を読んでみた。読みたくなった理由は、資本主義の調子が悪くなると頭をもたげるソーシャルという概念と同様に、社会主義が生まれるのも資本主義が問題を生んでいる時である。ではモリスと今のソーシャルを叫ぶ建築家たちに共有する発想があるのかないのかあるならそれは何かを知りたかったからである。モリスたちは結局、マルクスたちの社会主義とは異なると言われる共同体社会主義と呼ばれるものを考えた(あまり詳しいことは分からないが)。そして共同体とは何かと言うと氏族、部族、民族共同体と分類される。ファランステールを考えたサン・シモンなども同様の発想であったのだろう。その後人間は一人では生きられないとして共存在という概念を生み出したのはハイデッガーでありその「共」が民族にからめとられ、それがためにナチスとの関係を強めてしまった。
これは結構重要なのだが、モリスも現在も「共同体」が一つのキーワードなのである。しかしこの「共同体」という言葉には注意をしたほうがい。その理由はまさにハイデッガーの失敗が物語る全体主義への危険性である。個が確立していない共同は危ないものがある。その意味ではその昔解題を書いたジャンリュックナンシーの概念である無為の共同体は信頼していい。人は死を共有するという考え方である。これはつまり死を分有する人間関係には共同が生まれるというのは部族だ、民族などよりはるかに人間の親密性が高い。ここには人間の本質を通じた共同性が宿ってもいいのであろうと思われる。ここまで純化した共同性に裏付けられた共同体はそう簡単には生まれないのだろうけれど、でも基本はそこだろうという気がするし、そう安易に共同体などという言葉を使わないほうがいい。