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Aug 2015

「私」の文章

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by 卓 坂牛

編集者Iさんと2時間話し執筆中の文章のターゲットを少し変えようということになった。これはなかなか難儀である。ずーっと理工系大学生のための教科書的なものという位置づけだったのが、少々広い分野の方々にも興味深いものと映るようにしようということになった。経済、文化、哲学、倫理、ファッションへと広がる話の、それぞれの分野の専門家にも読ませるものにしようという指示である。それを可能にするのは莫大な知識か、絶妙なレトリックではなかろうか?と思うのだが、Iさん曰く重要なのはなぜこの建築を語るのにこの社会学者のこの言葉があるのか、なぜこの哲学者が登場するのかその選球眼のオリジナリティなのだという。選球眼とはさまざまなボールを知っていてその中から選ぶから選球眼なので、僕は社会学者や哲学者のすべてのボールを知っているわけではなくて、言えばかなり偶然そのボールに出会っている場合もあり。アクシデントを記せても、チョイスを記せるのかはあまり自信がない。
Iさんの要求は難しいのだが、こうやって文章が良くなるのだろうなあと期待が大きい。その昔篠原先生にもっと「私」を主語として書きなさいと言われたのを思い出す。Iさんももっと坂牛の「私」を出してくださいとおっしゃっているのである。それならなんとかできそうな。やってみよう。

憂う

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by 卓 坂牛

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朝一で軽井沢の別荘の引き渡し。9時半から12時半まで。それでも全部の説明はできず、水抜きなどは冬になったらということで今日は終わり。東京に帰り小西と国会で落ち合う。かなりの人正門前は難しく、国会図書館の交差点であうが、時すでに4時帰りがけ四谷でコーヒーを飲んで別れる。それにしても安保問題だけではなく、経済的にはこの新自由主義に私は憤りを感ずる。書き始めればきりがないのだが、政治、経済ともにこの国に明日はあるのか?とやるせない気持ちになる。先日ドイツ留学をする学生がもうこの日本には戻らないと言っていた。その理由はその時初めて聞いたが、3.11に始まる日本の政治的対応を見ているともはやこの国に希望を持てないというようなことを言っていた。優秀な若者にこう思われる政治というのは一体何なのか?こういう学生を持った教師としては泣くに泣けない。

若者よ自立せよ

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by 卓 坂牛

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さて若い彼らが独立するのに4年は少々短いとも思うが決断は早い方がいい。彼らに言わせると僕が「さっさと辞めろ」と言っていたというのだが、それはおそらく僕が組織事務所に長居しすぎたことを悔いているという話のことだと思う。組織は長くて7〜8年くらいがいいところなのではと思う。それ以上いるなら一生いるべきだろうが、昨今の新自由主義経済の中で偏在した富を追いかけて巨大建物を作ることの意義は希薄だろう。よって勉強が終われば速やかに独立するべきである。若者よ自立せよ!!!

鈴木理策

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by 卓 坂牛

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ここ数日鈴木理策の言葉を引用している文章の校正を読み返している。そんなわけでタイミングよくオペラシティで行われている彼の展覧会に行ってきた。青木淳の青森の美術館を近視眼的に撮影した写真が建築界では有名だが、そいう写真を彼は撮りつずけている。その中でも僕はこの桜が好きだ。物に接近した視覚は物の全体構成を排除して物と物の関係を捨象する。関係性を失った物は宙に彷徨うように不安定に見える。
渋谷で信大坂牛研OBたちと食事をする約束をしたので、ライズでアルゼンチン映画「人生スイッチ」を見る。表現がストレートなのに驚き。ツタヤでイタリア映画「イル・ポスティーノ」を借りる。山道君にチリに行くまえに見ることを勧められた。

もっとルースに作ろうぜ

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by 卓 坂牛

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富士吉田の製氷工場再生計画のクライアントである財団の理事長(といっても31歳の若さだが)と院生、助手と今後の地方都市や建築や街づくりについて本当に楽しい話ができた。これからの街づくりが、今までのようなものではないことはもはや明らか。金のあるところに金をかけた金の建築を作る意味もないことを確認した。そしてだからこそ、地方に金のかけない豊かで楽しい生活があることを彼の生き方を見ながら納得した。
最後に行ったお店のオーナーは実は工場のオーナーだという。そのお店「トタン」という名でトタンでできていた。このラフな感じが今度の建物にも繋がるように思えたし、工場のオーナーや理事長の考え方がそのまま形になっているように感じた。
今朝彼が日本の建築はオーバースペック。もっとルースにできていていいじゃないかと力説しているのに共感。特に今回みたいな建物はそうあるべきなんだろう。

火祭り

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by 卓 坂牛

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打ち合わせの後、富士吉田火祭りに行く。日本三大奇祭と言われている。100本近い巨大たいまつが浅間神社に向かって並んでいる。

ごつくて粗

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by 卓 坂牛

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千葉の大屋根のクライアントは企業を早期にお辞めになって陶芸をしている。陶芸家になりたかった私としてはこういう人生を歩みたいなという欲にも少しかられてしまう。そのクライアントから先日頂いたこの器はなんであろうか?
蚊取り線香置きである。うちの事務所は風通しを考えて結構開けっ放しにしていることが多いので蚊も多い。なので蚊取り線香置きを作ってくれたのである。ところが頂いた頃には酷暑でドアなど開けられる状態ではなく、つまり蚊もおらず、しばらくお役御免となって今はデスクの上に置かれている。頂いてからしばらく見ている間にこの不思議な器がなんとなく好きになってきた、あまり手をかけず自然な感じで、ぼてっとしていて、ごつくて粗なところが、いいのである。

La Plataでのレクチャーポスターが届く

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by 卓 坂牛

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ル・コルビュジエが南米で唯一実現した住宅がブエノスアイレス近郊の町ラ・プラタにある。その町にあるラ・プラタ大学の建築学部でアルゼンチンに着いた次の日にレクチャーをすることになった。というのもワークショップを行うパレルモ大学のディーンであるダニエル・シルベルファーデンがこの大学でも教授をすることになりこちらでもレクチャーをして欲しいと頼まれたから。一昨年ビエンナーレに招待された時もアルゼンチンで3回ブラジルで1回レクチャーをした。国が変われば同じコンテンツでもいいと思うのだが、さすがに同じ国の中で(同じ市の中で)行うレクチャー内容は同じだと少々気がひける。なのでPalermo UniversityではConnections、La PlataUniversityではWindowsという話をする予定。今年はサンチアゴでもレクチャーするがここでは同じ話とさせていただく予定。

君はエリック・ホッフアーを知っているか

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by 卓 坂牛

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エリック・ホッファーが60年代に書いたエッセィを柄谷行人が翻訳した本がある。初版は70年台だが最近(2015)ちくま学芸文庫から出版された。
まだ私が小学生のころ父親が科学というものは理論を実験して検証するものだと言って理科の仮説と実験の話をした。そしてそれは自然科学だけではなく、社会科学もそうであり、経済や法律などにも理論と実験検証があるのであり、自分のしていることは社会科学における実験と検証なのだと言って労働運動の意味について説明してくれた。親父は実は理論をやりたかったのだろう、つまりは大学に残り学者に進みたかったのだろうが金がなくて働くことになったのだと思う。
さてホッファーという人は社会科学者として理論と実践を同時並行的に行ったまれな人である。それはとんでもないエネルギーを蓄えた人であったに違いない。サンフランシスコ港で沖仲仕として労働者のリーダーとして労務者仲間に様々な本を読ませる一方でカリフォルニア大学バークレー校の教授を務めていたのである。そしてインテリ批判をした。実践の伴わない理論の薄さを批判した。僕にはそのことの意味がなんとなくわかる。大学にはそういう輩が少なからずいるように感ずる。論文偏重主義である。ペーパーを生産すれば学者の義務は果たされているかの錯覚がまかり通っているようにも思う。もちろん実践だけ行うならアカデミックセクターにいる必要はないのだが両方やることが真のインテリであろうと思う。
その意味ではホッファーは我々のモデルのような人物なのである。

建築は体力だとつくづく思う

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by 卓 坂牛

thumb_P1030808_1024.jpg人間は体を基礎にしてその上に意思があり、感情があっててっぺんに知性がある。いくら知性があっても感情が乱れると知性は使い物にならない。そのための意思は健全な肉体に宿る。全くそう思う。体を常に良い調子に保つことがなんと言っても僕にとっては重要である。そのためには肉体を鍛えるルーチンな毎日を規則正しく送ることが大切だと思っている。軽井沢で施主検収の行き帰りで斎藤孝の本を読んでいたら同じようなこと言っていた。まあみな思うことは同じなのである。肉体が弱っている人は時たま冴えた発想はできても持続力が無い。また肉体が鍛えられていても意思が薄弱な人は感情をコントロールでき無い。そこまで準備されてやっと知性が活かされる。
この建物の最初の打ち合わせをしてから3年。建築は持続力だと思う。体力と意思がなければできるものでは無い。