Archive

Oct 2015

サムフランシスの日本

On
by 卓 坂牛

FullSizeRender-12%E3%82%B5%E3%83%A0f%E3%82%89%E3%82%93c%E4%BD%8Ds.jpg建築グラフィックの原稿も佳境、というか修正に手間取っている。使う図版を探しているうちに久しぶりにサム・フランシスの画集を広げてみた。うーんその昔大好きだったサムフランシス。抽象表現主義の画家としてポロックと同時代に西海岸で活躍した。少し忘れていたが(というのも彼の個展が日本ではおそらく一度も開かれていないからだろうが)やはりいいなあ。大好きである。色がいいのか形がいいのかもはやわからないのだが。これはJAPAN LINEというタイトルである。彼は日本の余白の美に大きな影響を受け、日本にもアトリエを持っていた。サムが感じる日本に僕の深層にある日本が反応するのだろうか?

JASSO

On
by 卓 坂牛

IMG_6819%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%99%E8%B2%A7%E5%9B%B0.jpg
日本の相対的貧困率(平均所得の半分に満たない人口の比率)は16.1%でOECD中悪い方から4番目だそうだ。絶対値にすると2000万人が貧困層である。ということをこの本(中川雅之『ニッポンの貧困—必要なのは慈善より投資』日経BP社2015)には書いてある。
その中に日本学生支援機構の遠藤理事長のインタビューがあるのだがこれがなかなか大学人としては身につまされる。
奨学金受給者は2.6人に1人年間の貸与額は1兆円を超えている。そして返済の延滞も問題になっている。理事長曰く、人数をしぼってでも返済を前提するのではなく給付にするべきであるという。教育費のGDP比率がOECD中下から2番目というこの国は大学での費用がかかり過ぎという理事長の認識は同感である。
返済の延滞を防止するために来年から大学名を公表するという。延滞イコール就職先が悪いという目で見られるので延滞者の多い大学は就職が悪いというレッテルを貼られるようなもの。延滞が最も少ないのはなんと高等専門学校なのだそうだ。着実なそして全体にいきとどいた教育をしているということなのだろう。分かる気がする。
ところで大学支援機構は英語でJapan Student Services Organizationというそうである。支援だからSupportでもよさそうなのだが創設当時の有識者の一人ドナルドキーンが我々はパブリックサーバント(公僕)であるという認識粉をこめて命名した結果だそうである。

様式を変えるものは

On
by 卓 坂牛

IMG_6815%E6%A7%98%E5%BC%8F%E6%A7%98%E5%BC%8F.JPG-1.jpg
なぜ建築には様式があるのだろうか(もちろん建築だけではないのだが)?そしてなぜ様式は次の様式に移行するのだろうか?例えばバロックはなぜ新古典主義に移行したのだろうか?なぜポストモダンの歴史主義は終わり、少々モダニスティックな箱様式が登場したのだろうか?そもそも様式はどうやってできたのかを考えるとそれはその前の様式を誰かが壊したからできたということになるのだが、壊したから次が一朝一夕にできるわけはない。それができるには時間がかかる。それをつくるには時間と人が習慣的にある形象を模倣するということが必然となろう。つまり様式とは一つの習慣だろうとう私には思える。となると次の様式をつくる人はその習慣に違和感を覚えその習慣を止めて自分のやり方を考えるわけである。ではなぜその人はその習慣に違和感を覚えるのだろうか?それは社会が変わったからであり、自分も変わったからなのである。何かが変わって習慣も変わらざるを得なくなる。との時様式という形象が変わらざるを得なくなるのだと思う。
さてその習慣とは何に支えられているのだろうか?別の言い方をすると習慣は何を生み出しているのか?それは倫理である。人々が安定した行動を行うところに倫理が生まれる。それは倫理が習慣を作っていると同時に習慣が倫理を作っているのである。つまり様式は倫理によって作られ倫理に違和感が生まれる時様式は変わらざるを得ないのである。
創造とは常に新たな様式を求める行動でもあり、ということは常に倫理のほころびをみつけて繕うことでもあるのだ。

著作の審査

On
by 卓 坂牛

昼大学で会議。夕刻学会で著作賞の審査委員会。3時間は覚悟していたが、比較的スムーズにことが運び2時間半で終わった。
自分の書いている本を仕上げるのに編集者からいろいろな指導を受けているし、そうして書き直した原稿を見ながら、思うことは何を最終的に言いたいのだろうか?それが固まったとしてそれを言うにはどういう構成が一番適しているのだろうか?その構成が固まったとして、それを言う一番いい言葉はこれなのだろうかと?そういう悩みが尽きない。そして一応仕上がっても、結局時間のある限り書き換えて結局時間切れで原稿を送る。設計をするのと同じである。
そんな身分で人の文章を評価するなんて本当に僭越である。誰かがやらなければいけないからやっているがやはり腑に落ちない。
村上春樹はこれまで一度も賞の審査をしたことがないそうだ。それは無責任と言われるかもしれないが、やはり文章というものの個別性を考えれば、人の文章を、しかも若い人の文章を、それによって人生が決まるような賞の評価をするわけにはいかないと言っている。村上春樹にしてそうなのに、私にそれができるわけがない。本当に困ったものである。

就職について

On
by 卓 坂牛

IMG_6795%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%96%E5%86%85%E7%94%B0.jpg
内田樹が言っています。
「今の若者たちは『新卒一括採用』というルールに縛られて、そこから脱落したら『人生おしまい』というような恐怖を植えつけられています。でも、ほんとうはそんなことないんです。・・・それを限定してみせているのは企業の人事と就職情報産業の『仕掛け』です。・・・『新卒一括採用』以外にキャリアパスは存在しないと信じ込ませようとしている。
そんなわけないじゃないですか。
若い働き手を求めている職場なんか日本に無数にある・・・でもそういうところについての適切な就職情報はだれからも提供されません・・・サラリーマン以外に無数のキャリアパスがあるという情報を若い人たちが知ることは、企業の人事にとってきわめて不利な事態だからです。だから情報が遮断されている。それは国策でもあるのです」
そうだよなと最近実感します。富士吉田の斎藤さんに会ったり、福島の小松さんに会って話をしているとつくづくそう思います。国内だけではなくアルゼンチンで、チリで、コペンハーゲンで、バルセロナで建築家たちと話をしていると世の中には色々な生き方があり、そして色々な生活があると。
大学人としては、新卒一括採用のヴィークルに乗っかって、そういう会社にいくことのためにこの大学に子息を入れた親というものの期待に応えるべきでしょう、という理屈もあります。私立大学の中には(もちろん国立系の大学も)そういうヴィークルに学生を載せることに莫大なエネルギーをかけ、大学のセールスポイントとして大学の存亡をかけているところもあります。それはそれで仕方のないことかもしれませんし、そういうところで働くことにもそれなりのメリットはありますから。しかしそのためにそれ以外のチョイスを隠蔽するのはフェアではありません。今の大学という場所はそれ以外のチョイスにはまったく蒙昧であり蒙昧であるからその価値を隠蔽するという状態にあります。職を得るということをすべて大企業への就職率で測るというこの状況はどこかおかしい。本当に学生のための生き方にはこのようなチョイスがあるということを掘り出しその情報を学生に与えるのが大学のあるべき姿なのだろうと思います。僕としてはなるべくそうした可能性に触れられるように、様々な機会を研究室の中で作れればと思っています。内田さんの言うことに多く賛成だからです。
しかし最後に一言付け加えるなら、大学も国もそっぽを向いて、乗り心地のいいヴィークルを用意していない場所に行くには、自分でヴィークルを作って乗っていかなければならない。その自律の精神がない場合は今の所そういう場所に行くのは難しいということです。
(内田樹『困難な成熟』夜間飛行2015)

恵比寿

On
by 卓 坂牛

FullSizeRender-7%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%89%80k%E6%99%82%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%84%E3%81%84.jpg
我が家で飲む酒類は自分で買ってくる。ついでに食べたい食材も買ってくる時がある。今朝は朝一でジム行ってティラピスをやり帰り道にある最近できたマルエツで刺身をたくさん買って来た。その後カクヤスに寄ってビールの宅配を依頼。最近ビールは(高いのだが)恵比寿の琥珀という赤い缶にしている。これを食事の2時間くらい前に冷凍庫に入れて凍らしてシャーベットにして飲む。ちょっと異常に聞こえるかもしれないが配偶者も美味しいという。その後イオンリカーでワインを4本買って宅配を頼む。最近の好みはチリのマルベック。が、先ほど刺身をたくさん買ったので一本だけ白を買う。カリフォルニアのシャルドネ。今日はじとっと家にいてゲーリーの原稿をだいたい仕上げた。その後主体性の原稿を仕上げこれは編集者にメール。その次に男女性の章をかなりリライト。でもまだ送れないかな?ゲーリ−は明日もう一回読んで送ろう。さてご飯。

プレゼン本を皆に売る

On
by 卓 坂牛

IMG_6782%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%93%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%95.jpg
IMG_6780-2%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%90%E6%9C%AC%E5%A5%B3.jpg
午前中『建築プレゼンテーションのグラフィックデザイン』出版打ち合わせ。来月12日入稿だいぶいい本になってきた。これはいいと思っているのだが、これを卒計、修士設計前に出版しないと意味がない。12月初旬には店頭に並ぶ、、、、、、はず、、、、、、。この本のユニークなところはグラフィックデザイナー中野さんとの共著で彼が建築家の作ったプレンボードを作り変え、なにをどう変えるとどう変わるかを実践してみせるところ。これは今までにない。午後日本女子大の卒計の中間発表のゲストクリティークに伺う。篠原先生、宮先生、ゲストの塚田先生にゲラをお見せしたら、「僕らが見たい」とのご意見をいただいた。確かにそうだ。グラフィックデザイナ中野さんがプロのうででつくっているのだからむしろ学生よりプロの建築家が学ぶ本なのかもしれない。中間発表は2時から始まって5時間。終わったら7時半。なかなか充実していました。学部生も修士生も理科大よりだだいぶ進んでますね。懇親会でまたもや新刊本の説明をすると、是非買いたいとのこと。嬉しいね。

オリジナルであること

On
by 卓 坂牛

IMG_6768%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%92%EF%BC%93%E6%9D%91%E4%B8%8A.jpg今はとあるメジャー新聞社の九州の編集局長をしている親友Mがその昔まだW大学の学生だった頃(だったと思うが)村上春樹の『風の歌を聴け』が群像新人賞を取った時にこの小説は抜群だと言って僕に読めと持ってきた。それ以来僕は村上春樹のファンとなった。当のMはその後村上春樹が有名になるともはやメジャーには興味が無いと言って気にも留めてい無いようであった。伸びそうな人間を見つけ出すのが彼の趣味であった(そういうのがジャーナリストなのかもしれ無いが)。
と言っても彼の作品をやみくもに全部読んできたわけでは無い。立ち読みして面白そうなものだけ読んできた。最近は実はあまり読んでい無い。でも好きである。世界観が僕とあっている。単純に文体も好きである。文壇というところと絶縁しているのもいい。
というわけで最近出たこの本を読んでいて面白い事だらけなのだが、一つ紹介したい話がある。
僕は自分が感じた面白い話を勝手に(相手が聞いていようがいまいが)一方的によく配偶者や助手の佐河君に話す。話すとすっきりする。誰かに話さないと忘れてしまいそうな気がして心配なので話す。話した事はだいたい自分の記憶に残る。これが結構重要である。そんな話の一つである。
これは村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング2015の第四回オリジナリティーについての章に書かれていたことである。村上によれば「特定の表現者を『オリジナルである』と呼ぶためには」3つの条件がいるという。
1) 独自のスタイルがあること
2) そのスタイルを自らの力でヴァージョンアップできる事。同じ場所にとどまらない自己革新力を内在していること。
3) そのスタイルは時間の経過とともに人々のサイキに吸収され価値判断基準の一部として取り込まれること。
この話はとてもとても納得させられたのである。実は村上がこんなことを考えているというのはとても意外でそんなことを考えながら表現していたとは思えなかった。自らを頭の回転が遅い人間で早い人間は評論家向きだといいつつ、ここに挙げた三つの視点はまさに評論さながらであるから。
この3つのうち1)は誰でも思うオリジナリティであろう。そして3)はとある著名な美学者が述べていたことに近い。曰く真の芸術家はハビトゥス(習慣)を変革しうると同時にその変革されたハビトゥスは規範性を帯びる。なので僕にとって重要だったのはこの2)なのである。なんとなく思っていた言葉「ヴァージョンアップ」を村上が言ってくれて頭がすきっとした。そうなのである。ゲーリーのヴィトンがなぜいいかということをこの言葉が解きほぐしてくれたのである。ヴァージョンアップする自己革新性というのは本当にすごいエネルギーと努力がいることなのである。いつもおぼろげに感じている創作のエッセンスなのだと思う。

On
by 卓 坂牛

P10400531510katuura.jpg
千葉の家の最終検査。やっと最後のテラス手すりのポリカが差し込まれた。犬がテラスから落ちないようにという配慮から手すりの下部にポリカを入れた。なるべくスッキリと思い手すりこの縦桟(FB 15✖️60)に 10ミリのスリットを入れてそのスリットの中をポリカを抜きのように通してFBとポリカの隙間をシールした。一切のビスの類を使っていないなので透明感が半端ない。写真を撮ってもポリカが透けて見えないのでこの写真は明るさコントラストを加工し
ている。犬用の衝突防止マークをつけるべきか?

沈まないこと

On
by 卓 坂牛

村上春樹が小説家になったのは神宮球場の外野の芝生でビール飲んでいたらepiahany(天啓)がひらひらと舞い降りてきたのだという。そして書いた小説が『風の歌を聴け』で群像新人賞になってしまったのだそうだ。僕は建築家になるのにまったくepiphanyは無かった。どうしてだろう、過度の自信家ではなくいろいろなことを諦める人生だった。野球の選手を諦め、指揮者を諦め、ヴァイリニストを諦め、陶芸家を諦め、残ったのが建築家だった。そしてそれをやることには何の迷いが無かったのは不思議としか言いようがない。
ところで村上曰く、小説を書くほど簡単なことはない。特殊な技術も特別な教育も不要。だから突如いい小説を書く頭のいい人がいたりする。しかしこの世界にずっと居続けるのはとても大変なことだという。居続けるには資格がいるのだという。その資格とはとても簡単で、小説世界の海に放り込んでみて沈まなければ資格があるということだという。なるほどとても簡単である。おそらく建築もそうだろうこの建築という海原に居続けるのには資格がいる。それは建築海に放り込んでみて沈まなければ資格があるということだ。