年をとるということ
コンクリートを自らの設計に多用し広く普及させた建築家として有名なオーギュスト・ペレは言った`architecture is what makes beautiful ruins`(建築とは美しき廃墟となるもの)。レザボローやムスタフィは建物は風化によって完成すると言う。ヘルツォークはコンクリート壁面に雨水を垂れ流して風化を誘発している。ヨーロッパの教会は100年立って真っ黒になっても誰も気にしないし、汚れが付着することを醜いこととは考えない。年をとっていると考える。しかるに日本はそういう風化を良しとして廃墟に哀愁を覚える感覚は少ない。
例えばモニュメントのような自然の巨石が雨ざらしで汚れるから屋根を掛けようと言う人はいない。公園のブロンズ彫刻が錆びるから屋根の下に置こうとは思わない。しかしこと話が建築になると汚れる、傷むと言い始める。メンテナンスにお金がかかるのを避けたいというのはわかるとして汚れるからという理屈は日本人にとって建築が彫刻とは決定的に違う何かであることを物語っている。それは公園の彫刻は所詮人のものであり、建築は自分のものという所有の意識である。そして所有している自分のものは常にクリーンに保ちたいのである。
このことから思うことは二つあるのだが、日本人はこの強い所有意識を希釈して共有意識を高めるべきであろうということ。そして二つ目は古びた建築の中に時間の蓄積を見出しそれを美的水準に高めるものの見方を鍛えること。
モダニズムが始まるころにしかも新しい材料を発見したペレが新しいから古いを見出したこの慧眼に我々は習わなければいけない。理科大のコンクリートもいつまでもこんな無垢な状態ではない。でも自然の垢がこびりついてもそれは年をとるということなのである。
宇宙的
国際化推進機構の会議が大学であった。私もこの機構の委員のひとり。この会議は理科大を横断してやっているので委員の皆さんは自分のいるところからネットを使ったテレビ電話で登場する。そもそも神楽坂、野田、金町という3つの場所はデフォルトである。加えて先日は歩きながら現れた先生がいた。今日はフロリダから参加した先生がいる。なんとも国際化推進にふさわしい国際的な会議である。会議の委員長の向井先生(元宇宙飛行士)がおっしゃるには、NASAではテレビ会議はしょっちゅう。といってもNASAの中で。時折、「話がややっこしいからこっち来てよ」というと相手が「今宇宙ステーションだから地球に戻ってからね」という返事が来たりするそうだ。宇宙ステーションからの声も地球上と全く変わらないらしい。なんとも宇宙的な話。
建築と白とファッションと
先日中国のシンポジウムでお会いしたヴァージニア大学の教授であるリーシーチャオが僕の内の家の黒いリビングルームが興味深いという。理由を聞くと、今時何でも白くするのにその逆だからという。ちなみに中国では葬式に着る色は白だそうだ。そして色に関して言えば建築家はファッションに影響を受けているということをマーク・ウィグリーが書いているという。聞いてみたら建築の白とファッションの関係を本にしたという。早速アマゾンに頼むと今日大学に届いた。近代の白は意味を剥ぎ取る白だけれど昨今の白は被覆としての白なのだという。そしてファッションの影響を深層で受けているはずだと。さてその深い意味はまだわからない。ぼちぼち眺めてみよう。そういえばその昔岡崎が白の研究をしたのを思い出した。あのときこの本を読ませれば良かった。
あれあれ
一部3年生の研究室配属の希望者の書類が届いた。先日のガイダンスでとても厳しいことを言ったせいか。3名の定員に対して希望者が2名となった。2名の二人は女性で残りの男性はみな違う研究室の希望となった。
第一希望で入れないと下手をすると第三希望の研究室にも入れないこともあり、競争率の高い研究室は事前にやめてしまうケースがあるらしい。僕のところも7名の希望者が最初はいたのと、他大への進学希望者は取りませんと宣言したのと、海外への意気込みを聞かせてくださいと言ったのので一気に辞退者が増えるということになったようだ。
ちょうど定員まで減ってくれるとうまくいったのだが、少し減りすぎた。ということは残りの1名は設備希望者や構造希望者の可能性もある。さてどうなるだろうか??
理科大二部卒計、卒研発表会
今日は理科大工学部二部建築学科の卒業設計、卒業研究の発表会である。二つの教室で研究と設計の発表が同時並行進行中である。僕の研究室では一人を除いて全員卒業設計を行なっている。いつも言っているが卒計の取り組みには3種類あって、①原理を追求するもの、②現状を否定してなんらかの制度批判をした上で提案するもの、③現状を許容してその中で何ができるかを問うものである。今回は①を行ったものが一人、②を行った人と③を行った人は同数である。例年そんなものだろう。そして①を行うのはとても力が必要で毎年すごく力がある人がこれにチャレンジしていい作品を作るのだが、今年はもう一息。また②を行うのにはテーマが重要でテーマを探すのがとても難しい。いいテーマを見つけられるかどうかは常日頃の問題意識による。今年はそういういいテーマを見つけられた人は少ない。とういわけで相対的に③現状を肯定しながらその中で可能なことを考えるという地道な作業が今年はいい案に結びついたようである。
アーキテクチャラル・インクルージョン
今朝の朝刊に障害児の息子を持つ菊池桃子さんが一億総活躍国民会議メンバーとして発言していた。その中に社会から排除するものを作らない概念としてソーシャル・インクルージョン(social inclusion)という言葉が提示されていた。昨日僕が紹介したサンパウロ建築の見所としての公共性はまさにその建築版だと感じた。それは言い換えればアーキテクチャラル・インクルージョンである。排除するものを作らない建築。サンパウロの建築は自由である。そこで起こるリスクとおおらかさは常に天秤にかけられ、おそらく日本では難しいだろうことがかの地では受け入れられている。例えば写真のサンパウロ大学建築学科にはドアがない。教室に入るドアが最初のドアである。今でも日本の大学は関係者以外入構禁止という看板を出しているところが多い(理科大はその点塀もないしカード管理もしていなく素晴らしい)。セキュリティは人の目が行き渡るような建物の作りや使う人の相互監視意識によってかなりの程度実現できるのではなかろうか。