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Jan 2016

人を生かす

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by 卓 坂牛

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センター試験の監督で大学に詰めているのだが、予備なので待機中。というわけで明日からの中国出張の準備をしたり、読書したり。小布施に古谷さんの設計でできた1000平米の図書館がある。その館長さんが書いた本『はなぼんわくわく演出マネジメント』分屋2013を読んだ。この館長さんはその昔はテレビ局で映像作っていた人。そう言えば夏にお会いしたいわきでまちづくりをしている小松さんもテレビ局に勤めていた。マスコミの人たち特有のコミュニケーション力がまちづくりに生かされているのを感じる。彼らは人に会い人と話し、そして人から何かを引き出す力がある。まちづくりって実は人を生かすということなのだということがかれら二人の言葉から感じられる。

男女差別を無くすためには

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by 卓 坂牛

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日本の基幹産業に勤めている知り合いの女性が現在介護休暇を取っている。彼女は5年前には育休をとっていたそうだ。育休が2年、介護休暇ももうすぐ2年。それぞれ100%ではないが給与も支払われていた。40代の彼女は今年復職するらしく、その給与もかなり高い。
日本では1985年に男女均等法が施行され1991年に育児休業制度が法制化され、97年に介護休業が追加された。この時期、私は設計事務所を辞める頃でその頃事務所で頑張っていた女性は皆未婚だし、私と同年代で大企業の総合職についた女性の友人で子供のいる人は稀である。その理由は育休が法制化されたとしても、男性の働き方に歯止めが効いておらず、女性の制限された働き方では勝負にならないからである。これが欧米と決定的に異なることである。EUでは男女ともに残業をいれて週48時間が労働時間の上限と法制化されているのである。そういう状況では育休も、子供のための早退や遅刻が無理なく受け止められるのである。
というわけで、日本では女性が社会に出るには女を捨てて、男に張り合い、がむしゃらに働くしかないのか?と諦観したいたところだったので、知り合いの女性の話に驚いたわけである。
しかしこんなことは日本の基幹産業であるこの会社だからできることである。これは会社の方針というようなものではなく国全体の価値観の持ち方に関わることである。まずはデフォルトとしての働き方を変えなければいけない。そのためには国が目指す目標から変えなければいけないのではないだろうか?GDP最優先の国づくりをしている間は働き方のデフォルトが変わるはずがない。

ビルの谷間

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by 卓 坂牛

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事務所のそばのビルの谷間が煌々と明るく光っているので何事かと思って覗いてみると。壁面緑化みたいなことをしようとしているようであり、その場所をテラス的に使おうとしていた。まだ緑は少ないけれど春にはいい場所になりそうである。

トリプルダンボール

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by 卓 坂牛

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このトリプルボードはたかが紙だけれどかなりの強度。以前外国に模型を運ぶ時に特注でこのトリプルボードの箱をオーダーメイドしたのがきっかけで使うようになった。ピンナップボードとしてもハニカムのダンボールより強度があって軽いと思う。表面もかなりの硬度である。使える。タカムラ産業http://e-takamura.co.jp/

観衆の成立

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by 卓 坂牛

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五十殿利治『観衆の成立—美術展・美術雑誌・美術史』東京大学出版会2008に目を通した。近代日本美術の鑑賞者はどのように生まれたのか?美術という分野が制度として作られ、それを鑑賞する場所としての美術館がこれもやはり制度として生まれたことによって観衆は醸造されたのである。それは美を求む人々の欲望による自然発生的なものではない。世界関係と政治によって作為的に作られたものなのである。それは美自体がそうであるように。
著者がいくつか啓蒙を受けた書が挙げられている。前田愛の『近代読者の成立』渡辺裕の『聴衆の誕生』には強懿影響を受けていると述べている。前者は未読なので早速注文した。後者はだいぶ前に読んでとても影響を受けた。ここでは政治的な力が音楽の聴き方を変えたというよりも、文化的枠組みの時代的変化が聴衆の趣向を変化させているという説明が多かったと思う。
何れにしても、聴く、見るという欲求が単なる人間の自発的なものだけではないということは心しておいたほうが良い。

校正

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by 卓 坂牛

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数日前に届いたフォーティー翻訳の第二校380ページ。うーん重い。昔から間違い探しは得意ではない。それは自分の中にしょせん「間違い探し」だという侮りがあるからだと思う。同僚の先生にはこういう作業にめっぽう強い方がおられる。その方の爪の垢でも煎じて飲みたいものである。
中高の同級生で中公新書の編集長をしていたMが最近校正部長になりその仕事は奥が深いと賀状に記していた。その深さを教えてもらおうと思う。そうするとこの仕事がずっと有意義なものになるはずである。

ピンナップしたい

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by 卓 坂牛

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スケッチ描いて、少し話して、また描いて、また話して、このリズムはとてもいい。早くダンボール来ないかな。スケッチをどんどんピンナップしたい。

卒論指導

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by 卓 坂牛

学部と修士と博士ともうすぐ締め切りの論文を見ていると当たり前だけれどそれぞれのレベルというものがある。人間は進歩するとも言える。一方でそのレベルは理想的には常に高みを目指すのだが、それは建築の設計と同じで常に彼岸である。
ところで、振り返って見ると僕が卒論を書いていた時スチュワート先生は30台前半だし、修論書いている時、坂本先生は40台前半だった。年のせいにするのはずるいけれど50代半ばの僕があの時の二人のような方法で教えることはできない、ポイントを抑え効果的な言葉をかけてやるしかない。年取った分だけそういう力だけは少しは増していると思いたい。

井上章一の京都

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by 卓 坂牛

IMG_7519160110%20inoue.jpg僕は井上章一のファンである。ほとんど例外なく彼の著書は読んでいる。そして例外なく面白い。これはダメだと裏切られたことはない。新刊『京都ぎらい』朝日新書2015も面白い。
彼のものの見方は人と違う。人と同じ見方だが情報量と思索の密度が違うというような書き方はまずしない。多くの人が対象を昼間の陽光の下で見ようとするなら、彼は月夜に見るはずである。多くの人が正面から見るなら彼は背中から見るに違い無い。
しかし今回の書き方はそうでもない。彼の見方は正面であるだろうし、実は京都にいる人なら皆知っていることのようである。しかし京都以外の人はほぼ誰も知らないことを堂々と書いてしまったという書き方である。これは結構恐い話である。
彼は嵯峨生まれ嵯峨育ち、そして現在は宇治に住んでいる。こういう彼を京都の人と呼ばず何と呼ぼうかと東京人は思う。しかしこれは洛外であり、洛中の人間から言わせると洛外人は京都人ではなく、彼らがもし京都弁でも使おうものなら許せないということらしい。これは東京でも似たようなことはあり得る。港区、世田谷区住民からすると、足立区民、葛飾区民など東京人ではない。と言うようなことを言いそうな輩はいそうだが、全ての港区民、世田谷区民がそんな気持ちを持つわけはない。しかるに洛中の人間たちのほんとんどはそういう気持ちもを持っているように書かれている。そしてそれはおそらく正しいのだろう。おお京都恐い!!
こういう高度な優越性を感じる人間のグループは京都洛中人だけではないのだろうが、おそらく日本でも最も多く、強くそうした意識を持っているのが京都洛中人なのであろうと思わせる本である。

いい枯れ方

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by 卓 坂牛

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私が家庭教師していたTくんは私と配偶者の中高の後輩。というわけで私が結婚した頃この家に呼ばれてご馳走になった。そのときに配偶者がこの青山の古城のような和風の家の表札を書いた。約30年経って昨日見ると見事に枯れていた。新しく書いて欲しいと頼まれたが、この枯れ方がいいようにも思う。