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Mar 2016

ロースの椅子

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by 卓 坂牛

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今朝名刺の整理をしていたらウィーンで小さなテーブルを買った世紀末の家具を扱うお店Das kunst werkの名刺が出てきた。ウェブサイトが出ていたので見てみるとお店に置いてあった1899年アドルフロースデザインの椅子が載っていた。これ確か8000ユーロくらいしていた。ダントツに高い商品だった。僕も全く知らないデザインだったのでここに転載します。店長も怒らないでしょう。ロースの外側と内側の感覚の差を強く感じる一例です。

最近の3つの興味

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by 卓 坂牛

一昨日最近の自分の建築への考え方を整理すべく思っていることを佐河君に話してみた。話すことで頭が整理されるが、それをもう一度ここに文章にして整理してみたい。
僕は建築のコンセプトを事前的にではなく、事後的にやったことを回収して考えることも多い。一体自分はここで何をしたかったのだろうかと作ったものを見ながら反省するのである。そしてそこに見いだせたものをその次に事前的に設定する。しかしそこでも無意識のうちに発露することは様々あるわけでそれらは事後的に回収される。コンセプトはその繰り返しの中に見え隠れするものと考えいている。
おそらく今僕の興味は3つある。それらは一言で言うと、質料性、脱対象性、不連続性ということになる。漢語を使うと難しそうに聞こえるが内容はそうでもない。ひとつずつ考えてみる。
1) 質料性
これは日建をやめて美学を学び、造形が質料と形式で構成され、質料がモダニズムでないがしろにされてきた歴史を鑑み、質料の復権を考えようと思ったところから始まる。質料とは肌理、色、透明性のことであり、これらが建築の表面で持つ力を発揮させたいと常常思っている。そしてそれが五反田のアルミホイルなどにも現れている。
2) 脱対象性
これは見田宗介の社会学に端を発し、資本主義を正常な軌道に導くために必要な消費性、情報性の転回の必要性から生まれた概念である。対象そのものよりその外側との関係に表現のポイントをずらすという考えである。これは僕が2010年に著したArchitecture as Frameという考え、すなわち建築それ自体よりもそこから見えてくる、自然、人、家具、場所などに重点を置くことというコンセプトに整合している。そして実際昨今の僕の建築作品。例えば内の家、パインギャラリー、勝浦の家などがこのフレーム概念の上に乗っており、対象それ自体よりもその外部との關係にデザインの力点が置かれている。
また都市レベルで考えると去年から今年にかけてウィーン工科大学においてエルンスト教授と行っているワークショップIn-between(都市の中での隙間、間に注目すること)のコンセプトとも合致するのである。
3) 不連続性
これは建築レベルで言うと、2009年に作った高低の家の明るい廊下と天井の高い広間の間に挟まれた天井の低い暗い空間、2011年に作った三廊下の家の中央に背骨の如く横たわる天井の高い中央廊下、2013年に作った内の家の白いボイド、そして今年できた(仮称)勝浦の家の赤いギャラリー。これらはすべて二つ以上の空間に挟まれたつなぎの空間でありそして両側の空間とは全く異質な不連続な空間となっているのである。これは強く意識してきたことではないが、結果として不連続性を強調する空間としてこれらの作品の主要な要素となっている。これを都市レベルで考えると都市の中での不連続性が最近の興味となっている。先日のウィーンでのレクチャーDiscontinuous Tokyoは東京の不連続性を強調した。
不連続性は建築、都市双方において場のアクセントとして人々の意識を覚醒し、建築、都市を実感させる契機として重要な要素だと思っている。
これら3つの興味は実は微妙に相互の関連性を持っているのだが、まだ明快な説明はつかないのでこれはまた時期をみて考えてみたい。

ラテンアメリカネットワーク

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by 卓 坂牛

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東大に移られた岡部明子さんを訪ね本郷へ。岡部さんは20年ごとに行われる国連ハビタットのアーバンアジェンダを作成する世界の委員200人の一人である。国連ハビタットとは世界の居住環境向上を考える世界機関で毎年フォーラムが行われ20年に一回大会が開かれる前回はイスタンブールで行われ、今年はエクアドルのキトで行われる。
というのは前段で、せっかくキトに行くので彼女はそこでプロジェクトを計画している。エクアドルの設計集団アルボルデの廃墟を改装した事務所に場所を作ってアビタットで紹介し、かつそこをハブにしてラテンアメリカで二つのプロジェクトネットワークを作ろうとしている。一つはスラムのソーシャライズ、もう一つは先住民とローカルな建築を考えようというもの。そこで僕、中川大起くんなども一緒になってラテンアメリカネットワーク作りましょうということになったのである。
そもそもラテンアメリカに本気で入って行こうなんていう人はアカデミックセクターのなかにはほとんどいない。理由の一つは言葉、二つ目は距離、三つ目は金にならない、しかし何より一番大きいのは日本のアカデミックセクターの上層部が留学した先が欧米であり未だに欧米コンプレックスなのである。簡単に言えば「知らない」のである。イングリッシュネイティブの国でイングリッシュでディベートしたってたいしてコミットできるわけでもないのいイングリッシュスピーキングの国が好きな日本人ってもう病気???
世界は広いということを知らしめるためにもこのネットワークを確立したく思う。頑張ろう岡部さん。

plannedとunplannedの融合

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by 卓 坂牛

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四谷三栄通り、100メートル以上あるペンシルビルストリート(unplanned)が今再開発で取り壊されようとしている。ビルの形にあわせて仮囲いが取り付けられた姿はさながら新しい一棟のビルができたかのごとく外壁の統一性(planned)が生まれている。無計画(unplanned)と計画(planned)が程よく融合しているこの姿が心地よい。これが全部壊されて無味乾燥な長いウォールと高いタワーが建つのだが、今より良くなるように岡さん宜しくお願いします。

振り切ってはいけない

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by 卓 坂牛

午前中前期大学院製図の打ち合わせでコンピューテーションの竹中さん、構造の小西さんを迎えて打ち合わせ。
学部を卒業して最初の製図に対して何を教えるのかは大きな問題。学部から一方前進するとはどういうことなのか?前期は構造、後期は環境という方針のもとに去年より前期はコンピューテーションを一つの補助線としている。しかし重要なのはコンピューターを使った構造の知識を増やすことでもなければ、環境のテクニックを身につけることでもないと僕には思える。ではなく、そういう技を使う使い方、使う哲学をまず考えることであろうと思っている。ではいったいそういう技を使う哲学とは何か?
昨日コンピューテーションの考え方を学部生に教えてくれている木内さんと話す機会があったのだが、彼は都市の中の背景をデザインしたいと言っていた。都市に離散する装置をコンピューターを使いながら模索するものなのだが、そこには必ずや都市に生まれたunplaned なものとの衝突、溶融、利用ということが起こる。これは僕らがウィーンでやっているワークショップin-betweenの目指すところでもある。そこでは都市のunplanedな不連続面との邂逅とその利用による人々の覚醒が意図されている。また昨今の建築デザインではコンヴァージョンが大きな比率を占め、ここでもunplannedな既存物との調合が建築を大きく左右するのである。つまり総じてここに計画しながら計画されないものとの衝突、取り入れ、融合が必要なのである。ここに昨今の建築の必然と前提が隠れていると僕は考えている。
そこでコンピューターがこうした学問的前提あるいは哲学の上にどう成立するのかが重要だと思っているのだが、竹中さん曰く、それこそがまさに現在のコンピューテーションであるとおっしゃっていた。つまり、現在のコンピューテーションはあるコンセプトから発生したロジカルで演繹的な展開の上に解を導き出すことではない。そうではなくて様々な状況を放り込みながら事後的にその状況(unplanned)のオーダーを取り出しそれをもとに解を取りだすことでグーグルがやろうとしていることはそういうことだという。
さて、、、自らunplannedとの距離の取り方の重要性を指摘しおきながら煮え切らないのだが、それはそれであまりにunplanned よりだという不安がある。、、、常に状況は事後的にしか把握できないのだろうか?、、、オーダーをplanすることは不要で無意味なことなのか?AorBではなくAとBの比率の問題にするべきなのではないのか?
このあたりは助手の佐河君とドゥルーズの話をしなが考えていたことでもある。
planed, planed accident, unplanned これらの要素を状況に合わせ、文化に合わせ、法律に合わせその比率を考えることが一歩進んだ設計の哲学の基礎においてみるのはどうだろうか?

予想通り

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by 卓 坂牛

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そろそろお開きなのだが、空いたワインのボトルを数えると26本。芳名帳の人数を数えると47名それに宮、木島、坂牛を足すと50である。。これは信じられない。食材を買うときに何人来るだろうかと計算すると50人で50人来たら2人で1本あけるだろうから25本必要。おそらく10本はプレゼントされるだろうから15本用意したのである。予想はほぼ的中唯一違ったのはいただいたワイン数。これは10本ではなく、25本だった。もう一回パーティーができそうである。

花の咲かない花見

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by 卓 坂牛

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まだ途中ですがたくさんの方がこられております。2時から始まり今5時半。3時間半たちました。立ちっぱなしで疲れたので現状報告。花見なのですが花は咲いていません。残

OFDA2A

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by 卓 坂牛

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木島さんと坂牛と伊藤博之さんで始めたOFDAは方南町をスタートしたのが1998年そして荒木町に引っ越したのが2003年くらいかな?そしてどんどん場所が狭くなりどうしようもなくなり、坂牛と木島は昨年末荒木町から歩いて5分の四谷坂町に引っ越しました。そしてそこに日本女子大の先生になられた宮晶子さんがもはや横浜は少々遠いということで参戦してくれました。ここに四谷坂町に新しくなったOFDAと宮さん主宰するSTUDIO 2Aが同居することになりました。その名もOFDA2A。暗号のような名前です。外国の方にはわかりやすいのかどうなのか??
そんな事務所はコンクリート打ち放しで(床も)天井を銀色に塗り、家具を学生と一緒に作りかっこいい場所となりました。お披露目をしなければと思いつつはや3ヶ月この花見シーズンを逃すとまずいだろうということで花見を企画したのですが、だいぶ前から今日は寒波で雨でもはや花見どころではないという予測となりあまり宣伝しておりませんでした。しかし本日朝起きると晴れているしそんなに寒くない。
ですので、皆さんもし散歩がてらお花見をと思い都心に足を運ばれた際には是非お寄りください。2時から夜までやってます。
場所は
新宿区四谷坂町6−1
最寄り駅はJR、南北線、丸ノ内線四谷から徒歩5分
四谷の小さな路地をはいったところでわかりにくいのでできれば下記のURLを頼りにおいでください。
http://ofda.jp/contact/index.html
迷子になったらお電話を。03−3358−4303

最後の晩餐

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by 卓 坂牛

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今日は娘の卒業式で明日から家を出るので今日は晩餐。という約束をだいぶ前にしたのだが、普通卒業式の後には飲み会があるのではと今朝思った。しかし文系というのは寂しいもので研究室飲みなどもなくみな静かに帰るらしい。早稲田大学ともあろうものがそういうものであろうか???
というわけで久しぶりに家族3人で夕食をとり卒業祝いをあげ感謝のプレゼントをもらった。自分が卒業した時はいったい両親と卒業を祝ったりしただろうか?そもそも卒業式は出たのだろうか?全く思い出せない。大学院の卒業式は確かにアフリカ旅行から帰って次の日出た気がするが、、、、
兎にも角にも娘は明日我が家を出て自活する。貯金をできる限りして夏の渡米に備えて欲しい。自律して社会に出る娘に送る言葉は「誠実さ」である。

作家論

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by 卓 坂牛

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先日の学会の歴史意匠小委員会で意匠論の方法論を検討する中で大工大の朽木さんが作家論の方法論について語ってくれた。彼は二つの方法を提示してくれた。一つはその作家の創造の根源に迫りそこにいかなる作ることへの萌芽が読み取れるのかを問う方法。もう一つはむしろ作られたものの細部に迫り、その作った物の実体から作家を作家たらしめている物を把握解釈する方法である。
そこで問題となるのは時間軸でありその作家を時の流れの中で追うのか、ある時の断面で切り取るのかという見方である。一般的に時の流れで切り取ればそれは歴史論であって意匠論ではないと判断されがちだが田路先生は時間軸で切ってもそこから抽出しようとしているものが創るという行為にねざす未来への指向性を持つものであるかどうかが問題であるとおっしゃっていた。
さて来月の29日にバルセロナでエンリック・マッシプ–ボッシュの博士学位論文である「FIVE FORMS OF EMOTION KAZUO SHINOHARA AND THE HOUSE AS A WORK OF ART」の審査会がある。私は5人のジャッジの一人であり、これからこの300ページを超える大部の書を英語で読む。私がこの役を引き受けたのは、英語の審査会に出て篠原論を判断できる人間がそうたくさんはいないということもあるが、それ以外に積極的に二つの興味がある。一つは海外の大学において建築意匠論がどのように審査され評価されその評価ポイントが何なのかという点を見極めたいというのが一つ。もう一つは日本でも海外でもまだ新しい建築家の作家論がどのように書かれそしてどのように評価されうるのかを見極めたいというこの二点である。
早速今日から少しずつ読進めたいと思う。