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Jul 2016

レイモンド・カヴァーのダーティーリアリズム

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by 卓 坂牛

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グランタのダーティーリアリズム特集vol.8のブフォードによるイントロを読んでいたら、そういう傾向を持つ70年代後半から80年代のアメリカ文学の一つの潮流がミニマリズムで、不要な表現を削ぎ落としたシンプルな文体を特徴としていることが書かれている。そしてその代表選手がレイモンド・カヴァーであることを知った。そもそもアメリカ文学など興味もなかったがカヴァーは村上春樹が昔から翻訳していたのは知っていた。そこでカヴァーを読んでみると村上がカヴァーの文体に影響されているのだろうことが推測される。
カヴァーのこの短編集では日常の中に暴力、不倫、ドラックがさらりと表現されているのだが、村上もそういうところがある。
ブフォードによればカヴァーはダーティーリアリズムの代表選手の一人である。とするなら村上もそうだということなのだろうか??村上のデビューとカヴァーのそれはほぼ同時期だし。

Luisa Lambriのバルセロナパビリオン

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by 卓 坂牛

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Luisa Lambri が2004年にメニルコレクションで行われたLoccationと題する展覧会のカタログを見直していた。彼女の視覚が部分から始まるものであり、形の全体ゲシュタルトを捉えようとせず、少々視点を変えて起こるその部分の変化、光が変わることで起こるその部分の変化を見ようとしている。
鈴木理策もそんな見方をする時がある。

気を付けないと日本からもなくなってしまう

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by 卓 坂牛

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私の研究室にいるグアテマラからの文部省給費留学生のルイスと昨日御茶ノ水でばったり会って大学までずーっと吉祥寺の話をした。彼は日本に来て外語大で日本語を半年学ばなければならなかったので理科大からはかなり遠いが外語大に近い吉祥寺に住み始めた。そして中央線が気に入って修士論文も駅を核とした街の発展の歴史を調べている。そんな彼の吉祥寺のお気に入りの場所はハーモニカ横丁であり、吉祥寺に限らず○○横丁を色々と知っている。おそらくこの横丁というようなかなりインフォーマルな場の形成は西欧文化には生まれなかったものだろう(アジアには色々と見られる)。
言うまでもなくこうした路地的、横丁空間は近代都市計画で相手にされなかった過去の遺物であるものの、50年代にジェイン・ジェイコブズが再評価した空間でもある。小さい街区、多様性、密度、多用途という有名な4つのテーゼをすべて実現しているわけではないが多くが具現化されているのが横丁である。
『ジェイン・ジェイコブズの世界1916-2006』別冊環22、藤原書店2016で佐藤慈教授が「モクミツから学んだこと」と題して書いているが、ジェイコブズの言う空間は日本には(東京には)たくさんあると過信していたらあっという間になくなってきていると警鐘を鳴らしている。東京の横丁がどうしたらそのクオリティを維持しながら脱皮していけるのか。これからの東京のとても重要な問題である。

デザイン・クリティーク

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by 卓 坂牛

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デザインクリティークをする時に行ってはいけないことが二つあって一つは直感的に反応すること。もう一つは自分の案を押し付け指示すること。
するべきはクリティカルシンキング(批判的思考)。その要諦は以下三つ。
①批評が対象のどの部分について語っているのか、
②批評がそのデザインの目的とどう関係しているか
③批評が目的接近にどう貢献するか
を明示すること。
(アーロン・イリザリー、アダム・コナー 安藤貴子訳『みんなではじめるデザイン批評—目的達成のためのコラボレーション&コミュニケーション改善ガイド』ピー・エヌ・エス新社2016)

ダーティーリアリズム

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by 卓 坂牛

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「ダーティ・リアリズム」という呼称は、イギリスの文芸誌『グランタ』上で編集者のビル・ブフォード(1954-)が80年代後半のアメリカ文学をめぐる若い世代の運動を説明するために用いたものである。この新たな文学運動においては未婚の母、麻薬中毒、泥棒、スリなど資本主義の暗部が活写された。そうした表現の形容詞として生まれた「ダーティ・リアリズム」を建築の表現に見出して批評の言葉として使い始めたのもまた「批判的地域主義」という呼称を生んだツォーニスとルフェーヴルである。
grannta 手に入れた初版は1983年である。

意匠論の帰りに

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by 卓 坂牛

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細々と続けている意匠論会議。関西からも田路さん朽木さんがこられ、関東からは奥山さんをはじめ、能作、塩崎、山村、天内さんたちが集まり本当に内容の濃い議論が生まれ楽しかった。帰りがけ四谷の駅に犬が二匹。主人が出てくるのを待っていた。

地域アート

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by 卓 坂牛

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藤田直哉の「前衛のゾンビたち−地域アートの諸問題」2014年『すばる』初出(『地域アート−美学 制度 日本』堀内出版2016所収)をやっと読んだ。加えてその周辺の議論を読んでみて藤田氏の話題の本論考の意図に共感するに至る。そしてこれはアートのみならず建築にも相当部分当てはまる議論だろうと思わざるを得ないと感じた。
本論考の趣旨はこうである。現代地域アートという名で妻有、瀬戸内海などで行われている地方芸術祭が国の地方起こしの政策や、芸術系大学における指導にも導かれながら行われている。しかしそれらを語る理論は68年のそれであり、あたかも前衛たちがゾンビのごとく蘇り、しかし前衛が持っていた未知の世界の開示や拡張の感覚がここにはなく、ただただ国策の一環であるかのような「地域活性化」に奉仕してしまって閉じてしまっていることを批判的に指摘するものである。
藤田は会田誠との対談においては大学の教育の問題もあげている。あたかも地方アートの姿が正常で、資本主義社会で売り買いされる高額アートは商売でありアートではないという指導がまたアートを閉塞化させているというものである。
建築も似た状況である。社会性がなければ建築ではないというオブセッションに取り憑かれた学生は藤田のいう未知の世界の開示や拡張の感覚を完全に忘れてしまったし、もしかすると最初からその存在を知らされていない。出口を考えてそれにあった教育をと思うのは当然だが、建築の本当の喜びと、建築に求められているものは実は藤田の指摘する「未知」にもあるのである。僕らは堂々とその喜びを学生に伝えてやるべきなのである。
あきらかに僕らが学生時代、磯崎や篠原の建築を見に行って固唾を飲んだあの喜びと興奮を今の学生には知らせることができていない。これは教員の落ち度である。

雰囲気の美学建築版があった

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by 卓 坂牛

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辺見が進めてくれた次の本が届いた。アルベルト・ペレス=ゴメスの『ATTUNMENT —Architectural Meaning After the Crisis of Modern Science』MIT Press 2016出来立てほやほやの本でアマゾンアメリカでは5星がついている。この本の醍醐味は昨今の建築は「形の発明」か「サステナビリティ技術」の両極に引き裂かれ本当の人々のための建築がないという状況認識である。そして彼のテーマはドイツ語でいうStimmung(気分)。英語で言うとMoods とかAtmosphereとなりこれらをキーワードにして分析が進む。これは美学者ベルノート・ベーメの考察に近い。しかしゴメスはこの考察を建築からスタートさせている。