On October 30, 2016
by 卓 坂牛
月曜日の二つの講義の短いレポートが日曜の朝までに届く。今年はそれをきちんと全部読んでノートにメモることにした。そして明日の授業で面白いものは披露する。そうするとレポートを書くのも少し張り合いが出るだろう。
レポートを読んで9時に始まるジムで汗をかいて、10時に始まる庭園美術館でボルタンスキーを見る。美術館が近いのが四ツ谷の利点である。ギャラリー間まで4駅、 リクシルギャラリー6駅、銀座のギャラリー 4駅、 庭園美術館6駅、国立新美術館 森美術館 5駅、 上野の美術館 5駅、 国立近代美術館4駅、 オペラシティギャラリー3駅、東京都現代美術館8駅、都内の主要美術館にドアツードアで概ね30分で行けるこの住まいは,偶然住むことになったけれどとても重宝している。配偶者もよく今日は3軒梯子なんて言っている(飲み屋ではなくギャラリーなど)。あえてこの場所の欠点をいうならば、この場所自体に美術館が無いことくらいである。マンション住まいは第三の人生を始めるまでにやめたいのだが、できれば四ツ谷は離れたくない。
On October 29, 2016
by 卓 坂牛
ベルナール・スティグレール浅井幸夫訳『偶有からの哲学——技術と記憶と意識の話』新評論2009
人間の記憶には3種類あって一つは遺伝子に託された種の記憶。二つ目は経験によって脳に刷り込まれる記憶。そして三つ目は技術によって外在化された記憶。それは本であり、レコードであり、映画であり、いや単なるメモやノートだってそれに当たる。人間はそもそも補綴性というべき不完全性を生来持っている。入れ歯だ義足だ補聴器だというようにどこか悪くなるとなんらかの技術でそれを補う。頭に記憶仕切れない内容をノートに書き留めておくのも同様の補綴性と言えなくもない。動物たちには補綴性があるのかもしれないが、それを技術で外在的に補うことはできないのである。
というわけで人間は技術と合体して一つの存在になるといっても過言ではなくそれゆえに技術は人間の運命を決めいていく極めて重要な哲学的思考の対象なのだというわけである。技術を過小評価してはいけない、、、、当然かな?
On October 28, 2016
by 卓 坂牛
配偶者の小学校の同級生で僕とは中高が同窓生で、未だに年末に美味しいワインと料理をご馳走してくれる宮正樹くんが本をかいた。新たな魚類大系統という本で3万種ある魚の特に深海魚の新たな分類学を確立して話題となっている。前書きに高校時代大学時代のことが書いてあるが、授業をさぼって釣りしに行っていたとは知らなかった。いい時代だったなあ。だからこういう人間が生まれるんだよなあ。管理社会はあかん。
On October 28, 2016
by 卓 坂牛
シャーロット・コットン (著), 大橋悦子 (翻訳), 大木美智子 (翻訳)『現代写真論 新版 コンテンポラリーアートとしての写真の現代写真論 』晶文社2016は現代写真を7種類に分類している。傑作はDEADPAN(ポーカーフェース)。ジュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャーから引き継がれたオブジェクティブな写真の流れはここに分類されている。名前は忘れたが他の分類は、アート作品、現代社会のシミュレーショニズム、生活、などであった。それらは主に対象の問題なのだが、デッドパンだけは撮り方の問題であるところが異色である。人の顔でもデッドパンでとるかライフで撮るかでそれはぜんぜん違うものになる。
しかしデッドパンで撮ると言うことはただ無表情にとればいいのではないだろう。きっとその被写体との本質的な会話がなされるはずである。表情というものは刹那的な現れであり無表情こそが内面(実在)を示すのだろうと思う。
On October 27, 2016
by 卓 坂牛
『服の記憶』アーツ前橋2014とうい展覧会カタログの展覧会の趣旨とはなんの関係もないのだがその中に出ている文章の中に気になることが二つあった。
西洋コンプレックスの解消
一つは西谷真理子さんが書いていたコムデギャルソンのこと。それは川久保がパリ進出のときに最も注力したことは「日本人に根強い西洋コンプレックスを解消する服でありたい、身体が平べったくても丸くても、手足が短くても長くても、着られる服」という部分である。この西洋コンプレックス解消がヨーロッパ進出の優先課題だったというのは建築家にもあてはまるのではなかろうかと感じた。
日本の建築や都市が外国の視線に認められたのは言わずと知れたタウトによる桂であり、次はメタボリズム。まちがっても東京が美しいとは言われてはこなかった。そんなぐちゃぐちゃの東京にコンプレックスを持っていた建築家がそのコンプレックスを解消するために「カオス」という概念を持ち出したとみるのは穿っているだろうか?もちろんそれを最初に言いだしたのは篠原一男であろう、彼は醜い東京で建築を作らざるを得ないという東京コンプレックスをなんとかひっくり返したかった。金閣を愛する篠原が東京を「美しい」と言うことは諦めていたが、凄いとは言わせられるのではと直感的に感じ取っていた。アフリカのぼろぼろの集落と同じレベルで東京を語れるのではないかと考えた。そしてその概念は思いのほか彼の数学者としての思考の中にあった。と考えるのはそれほど穿った見方ではないような気もする。
日常の裂け目
もう一つはアンリアレジのブランド名のこと。その昔からアンリアレイジの服が好きだし、このブランド名がrealをもじったものだということも知っていたがその意味を真面目に考えたことがなかった。
このANREALAGEは「A REAL」,「UNREAL」,「AGE」の組み合わせでその意味するところは「日常の中にあって、非現実的な日常のふとした捩れに眼を向け、見逃してまいそうな些細なことからデザインの起点を抄いとる」なのだそうだ。それってほとんど坂本一成さんの言う日常の詩学である。これは驚きである。
On October 26, 2016
by 卓 坂牛
スティーブ•シャピロ上野俊哉訳『モノたちの宇宙–思弁的実在論とは何か』河出書房2016はメイヤスーを読む前に読む概説書とも言えるが、ホワイトヘッドを思弁的実在論から読み返す本である。昨今の幾つかの名前で呼ばれる哲学的潮流(思弁的実在論、新唯物論、物質指向存在論)に共通するのは、反相関主義、反人間中心主義であると言う。つまり共通の目標は自分の外に出ること、異なるのはその出方だと言う。一体僕らは自分の外にどうやったらでられるのだろうか?ちいさい頃よく相手の気持ちになって何て言われたけれどそれぬは限界がある。しかしそうした自分の殻以上に自分を規定しているのはまさに言葉だという気がする。そう考えると、規定されている自分の外に出るには、違う国の言葉で考えることである。英語か?もう少し勉強してスペイン語か?
On October 26, 2016
by 卓 坂牛
Adrian Forty`Words and Buildings`2000の監訳『言葉と建築』は出版とほとんど同時に重版となった。あれから10年経って三刷になったと聞いた。と言っても全体として3000にも至っていないのだが、5000円する本がそれだけ刷られるのはありがたいことである。いまだに自分自身教科書として使っていてやはりそれなりの手応えがある。同様の内容を持つ本はもとより類似本さえ見あたらない。2005年の年末から2006年の年始にかけて事務所に共訳者と缶詰になってこの仕事をした。雪の中近くのピザ屋に夕食を雪の中買いに行って大転倒してピザがぐちゃぐちゃになった。ついでに年始の家族との食事会にも行けなかった。でもこうなるとやってよかったとつくづく思う。
On October 25, 2016
by 卓 坂牛
グラフィックチームで建築家のポジショニング議論をしました。中野さんがそのマトリックスにグラフィックデザイナーのポジショニングを乗せてくれました。表現とはジャンルが違えどいろいろな共通点があるものだと痛感します。さてこれがどう展開するものかしないものか??
On October 24, 2016
by 卓 坂牛
毎朝武道館の前を自転車で通る。ほとんど毎日違う看板がかかっている。それは柔道大会だったり、コンサートだったり、大学のイベントだったりする。コンサートの場合武道館で出来る人はかなりメジャーであるから、僕でもだいたい知っている。今日はコブクロである。
On October 23, 2016
by 卓 坂牛
恒例の年末国際ワークショップの今年のゲストはブエノスアイレス国立サンマルチン大学教授で建築家のロベルト・ブスネリである。先日ワークショップ用の課題書が送られてきた。なんと16ページ。こういう書類を丁寧に作るのが彼らの伝統である。テーマはSustainabe habitatー passive and low enery architecture for social housing(持続可能な生息地 にエネルギーがかからないソーシャルハウジングを作る)である。2013年の1月に彼らが国際交流基金の助成できた時もスラムの改善をやったのだが、その時にはサスティナブルの意識はなかった。今回はそれが取り入れられた。加えて、敷地はサンマルチン地区という工場地帯でありスラムである。そこにできれば工場の廃材なども使いながらデザインしようというものである。
大学院の学生は環境建築をやっているし、3年世はレンガの屋根をやっている。どちらもこの課題には繋がりそうで面白いものになるのではないだろうか。