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by 卓 坂牛
サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』は1996年に書かれ2年後に翻訳が出ている。その要約に日本で行った講演を加えた新書版が2000年に出版された。サミュエル・ハンチントン鈴木主税訳『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書2000である。
冷戦はイデオロギーで世界を分裂させたが冷戦終結後は異なる文明が衝突すると予言した本である。世界は八つの文明に分かれている。①西欧文明②東方正教文明③中華文明④イスラム文明⑤ヒンドゥー文明⑥ラテンアメリカ文明⑦アフリカ文明。そして⑧日本文明である。これらの文明は日本を除くと幾つかの国民国家によって成立している。そしてこれらのグループはお互いに助け合い文明を維持していく。
この本の面白いところは先ず、こうした文明の衝突は予言通りになったということ(9.11など)。
二つ目はこういう世界の多極化をuni-mutlipolarsystem(一極多極体制)と呼び超大国アメリカに対して中国、ロシア、インド、イスラエル、ブラジル、独仏連合、イラン、インドネシア、ナイジェリアという地域大国がありその下にナンバーツー大国イギリス、ウクライナ、日本ヴェトナム、韓国、パキスタン、オーストラリア、サウジアラビア、エジプト、アルゼンチンがあり、超大国アメリカは地域大国が強大にならないようにナンバーツー大国に資金注入して地域大国を牽制するという構図が出来上がっている。
三つ目は日本文明は日本以外にその基盤を作る国はないので他のどの文明を助ける義務がない代わりにどこからも助けられない運命にあるということである。
現状の世界をここまで正確に20年前に予言していたのか思うと驚愕である。今からでも遅くない。ぜひ皆が読むべき本である。
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by 卓 坂牛
宮晶子さんと四谷坂町のスペースをシェアすることになって早いものでもうすぐ1年経つ。一年経ったら宮さんの設計していた住宅が完成した。と言っても宮さんが本腰入れて設計し始めたのは今年の三月だったと思う。。敷地は深谷から車で10分。畑と墓地と住宅と学校に囲まれている。去年宮さんの設計でできたレストランの同じ敷地内のハナレという位置づけ。レストランから見える。レストランで働き帰る所はレストランとは異なるものにということで、レストランはベニヤ壁柱frp仕上げなのに対して、ハナレは箱状ガルバ仕上げである。写真の玄関ドアから推測される通り、床を埋めて軒を低く抑えている。長方形が噛み合ったつなぎめの空間のくびれと広がりがこの建築の絶妙な所。
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by 卓 坂牛
第39回木村伊兵衛賞を受賞した森栄喜の『intimacy』は男が男に向けた眼差しである。半裸の若い男性がアパートで目が覚め、そして眠る、散歩に出て寝転がって起きる。一体どのくらいの時間が過ぎているのかも定かではないが、なんとなくこれを見たとき感じたのは研究室で寝起きしている若い学生たちの寝起きの姿である。研究室に行くと常時数人の学生が寝ているのに遭遇する。教師が入ってくると、時間によるがさすがに起き出して寝床を片付けてというような姿に出くわすのだが、そのぼーっとした顔やだらしない服装がこの写真集に重なってくる。タイトルのintimacyは写真家の被写体に向けた視線の質を表しているのだろう。写真には優しさが感じられる。
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by 卓 坂牛
年末のスケジュールがやっと固まった。12月22日:ロベルトワークショップの最終講評会。アルゼンチン大使館から書記官ともしかすると公使も来られるかもしれない。23日:3年製図合評会。24日:スチュワート研の忘年会。小沢君教授昇進お祝い。25日:修士設計レビュー。坂牛研OB全員集合し昼から夜まで徹底レビュー。終わったら研究室忘年会withOB。その日の深夜の飛行機でカトマンズへ。環境省委託のエコシティデザイン調査。31日の朝成田へ戻る。ネパールのヴィザが今日旅行社から届く。
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by 卓 坂牛
ウィーンからの学生を受け入れるためにいろいろやっていますが大変です。うまくいくといいのですが。
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by 卓 坂牛
ポストモダン以降に3つの哲学的転回があると言ったのは岡本裕一郎である。その3つは
① 自然主義的転回
② メディア技術論的転回
③ 実在論的転回
実在論は建築との関係が深いため身近なのだけれど①と②はそういう議論はあるとしてもそれほどのものかと思っていた。しかしさらさらと読んでみるとなかなか重要だということも分かった。
① の教科書
1) アンディー・クラーク著 池上高志、森本本太郎 他訳 『現れる存在−脳と身体と世界の再統合』NTT出版2012(1997)
2) ジョン・R・サール著 山本貴光訳『心の哲学』旭出版社2006(2004)
② の教科書
1) ベルナール・スティグレール著ガブリエール・メランベルジェ 他訳『象徴の帝国−ハイパーインダストリアル時代』新評論2006(2004)
2) ダニエル・ブーニュ著水島久光 西兼志訳 『コミュニケーション学講義−メディオロジーから情報社会へ』書籍工房早山1998(2010)
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by 卓 坂牛
天王洲に用事があり建築倉庫に寄ってみた。たくさん模型があって学生は楽しいかもしれないけれど、皆さんの模型がどの設計段階の時にどういう目的で作ったのかが書かれていないのでほとんど僕らには無意味な展示である。でも青木さんの三次市民ホールの大きな模型は興味深かった。本物は雑誌でみているから知っているが、こう言っては失礼だがなんの変哲もない外観である。模型もおそらく実施段階に作られたものだろう大きな模型で実物そっくりである。なんでそれが興味深かったかというと、なるほどプロポ案に模型写真を載せていない理由がなんとなくわかったからである。プロポ案の目玉は平面を上から覗き込むようなパースでその中に人が1000人くらい描かれているものである。もしここに模型写真があったら最優秀にならなかっただろう。賢いプレゼンの作戦勝ちだったことがこの模型をみてよくわかった。それを見るだけでもきた甲斐はあった。
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by 卓 坂牛
ベルナール・スティグレール 著 ガブリエル・メランベルジェ他訳『象徴の貧困−ハイパーインダストリアル時代』新評論2006(2004)は以前読んだ『偶有からの哲学』の前著である。ここでも前著同様補綴性の話は出てくるが、現代における人間の補綴性が種としてITやテレビによってなされることで現代人から象徴を読み取る能力を喪失させている(象徴の貧困)と否定的に捉える。テレビは「誰でもない」意識を蔓延させ、ネットは人に先回りして欲望を規格化する。著者はこれを象徴の貧困と呼び人々の芸術性とともに政治性を失わせるという。というのも政治とはジャック・ランシエールが言うように感性の産物である。人々のsympathy(共感)とempathy(感情移入)が政治意識を生むのである。
先日ディエゴと水戸に行く時行きも帰りもずっとトランプの話で費やした。時差ぼけなどなんのそのである。その中で彼が面白いことを言っていた。二人の候補の応援団は互いに直接会うこともなく、相手と議論することもなく、相手を説得するというような場面がまるで起こらない。お互いはテレビの中に相手を見るだけである。まるでイランイラク戦争をテレビの中のみで見るヴァーチャリティーに近い。これはまさに象徴性の貧困である。
政治と芸術は紙一重である。共感と感情移入が政治を作り芸術も作る。象徴の貧困を回復するにはどうしたら良いのだろうか?
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by 卓 坂牛
拙訳『言葉と建築』の第二部には18のモダニズム概念が並んでいるがよく見ると3つの言葉がよく似ている。それらは「コンテクスト」「歴史」「記憶」である。この言葉の意味の差はこの本の中では、コンテクストは形の中、歴史は文献の中、記憶は心の中に宿るものである。これらの中で何がデザインに有効かと考えるなら一番てっとり早くてわかりやすいのは形に宿るコンテクストである。モダニズムは手っ取り早くわかりやすいことを大事にしたので彼らはコンテクスチュアリズムを生み出したのである。よくコンテクチュアリズムはモダニズムに対立する概念だと言われるが、立地環境を気にしないという面では確かにモダニズムはアンチコンテスチュアリズムだが、フォルマリズムという点ではコンテクスチュアリズムは上記三つの概念の中では最もモダニスティックなのである。そして次に使いやすいのは歴史である。なぜならこれもすでに文献化されて認知されているからである。認知されているものは使いやすい。よって記憶が最も扱いにくい。こんなあやふやなものを根拠に建築を作るのは危険極まりない。だから滅多にこんなものを使って建築を作る人はいない。しかしそれだからこそ成功した時の効果はもっとも大きい。記憶を頼りに作った建築を探してみればいい。実に奥が深く感動的である。しかしそれは説得できるものではない。できてみて初めてわかるというようなものである。
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by 卓 坂牛
このところ何かするのに必要なものはマックとiPadと大きな虫眼鏡である。以前ベルナール・スティグレール浅井幸夫訳『偶有からの哲学——技術と記憶と意識の話』新評論2009の中で書かれていた人間の補綴性を思い出す。それは人間はそもそも補綴性というべき不完全性を生来持っている。入れ歯だ義足だ補聴器だというようにどこか悪くなるとなんらかの技術でそれを補う。というわけだが、漢字を覚えきれないからマックを使い。新しいことを知るためにipadを使い目がもはや見えないので虫眼鏡で補強するわけである。だからこれら外在かされた技術に記憶が宿るというわけである。孫たちは驚くだろう。おじいさんはこんな不便なITを使っていたんだと言って。