基礎が厚い時外壁はどこに置くか?
地下外壁が250あるのだがこの外壁は地上1400まで立ち上がる。その時その上の木造壁を外面で合わせると面積がオーバーする。内面で合わせると、外壁が通らない。だから地上に出たら壁薄くしてというのが結論。今回は構造にお願いする事が多そうである。
地下外壁が250あるのだがこの外壁は地上1400まで立ち上がる。その時その上の木造壁を外面で合わせると面積がオーバーする。内面で合わせると、外壁が通らない。だから地上に出たら壁薄くしてというのが結論。今回は構造にお願いする事が多そうである。
外国人教員を招聘するのに書類を書いて、書いて、書いて、出すとそもそも書き方がよくわからないフォームなので再三チェックが入る。我慢してそれをなんとか修正して出して、かろうじて採択されるとまた書類を出さねばならない。どういう書類かというと内容はすでに出しているものと何ら変わらない。ただ提出先が違い、書式が違うだけである。本当に無意味である。大学の事務の縦割り社会はもはや役所以上である。
ビューロクラシーといえば何も日本だけではない。学外での国際活動のためにEUNIC(EU諸国の文化組織)と組んでEUの建築家と日本の学生とのワークショップを企画しているが、彼らは我々に完全依存。君たちが主体なのだよと喝を入れたいが自主的に動いて汗をかこうという人間は少ない。外交官のビューロクラティックは本当に参る。
北田晃大、神野真吾、竹田恵子編著『社会の芸術/芸術という社会—社会とアートの関係、その再創造に向けて』フィルムアート社2016の中で岸政彦がアートとはそもそも社会から生まれたのだと言っていた。岸はテリーイーグルトンをひき、現在のアートの表現形態は19世紀ロマン主義にさかのぼり、それは産業資本主義市経済における功利主義があらゆる教養を否定し、その否定からの治外法権な場として想像力や創造力という概念が生まれたと説明する。つまり「純粋に美的なもの」とは社会と関係を結ばないもの「結んではいけないもの」それが美的であることの証なのだという。アートは我々を社会の外に連れて行ってくれるのはアートの力なのではなく、それはそのようなものとして社会的に作られたのだと言うのである。
ということは社会的アートというのは明らかにもともとのアートの役割を放棄したものであり、それはやはりアートと呼ぶべきではない。それは社会活動と呼ぶのだろうと思う。僕は建築についてもそういうことを感ずることがある。建築というものはアートと異なり治外法権の場として作られた創造力や想像力のみによって作られるものではもちろんなく、それこそ社会的な要請によって生まれるものであるから、社会と密接につながっているものなのである。しかし創造力や想像力も建築を作るとき、見るときの醍醐味であり社会的に要請されていることでもあるのである。となれば建築というものも社会と関係を結んではいけないものとして定義することも部分的には可能なのではないかと思うのである。そしてそうした反社会的な建物にも、建築の良さがあることを大いに認めていいのだろうと思うのである。
屋根を多角形に綺麗に収めるのはやめた。もっと即物的に直方体から内側に必要な空間を残して切り取ってみる。もちろん北側斜線と、道路斜線も切り取る。残りはこうだけれどやめみたいじゃなくていい。
二宮敦人『最後の秘境東京芸大天才たちのカオスな日常』新潮社2016期待通り面白かったが知っている内容が多かった。でも音校のことはあまり知らなかったので興味深い。ヴァイオリンやると体が歪む。なぜなら顎を斜めにしてヴァイオリンを肩の上で固定するからである。そうだったんだ。僕は写真に写ると大体顔が斜めに傾く習性がありその理由がわからなかったが、、、歪んでいるのだ。
川辺直哉さんの自邸の見学をさせていただいた。完成したのは1年前だが植栽が育つまでまってお披露目ということである。以前見せていただいた集合住宅のように敷地環境と応答して矩形が噛み合ったデザインとなっている。RC外断熱で内部は普通型枠の打ち放しである1〜2階は吹き抜けを介して繋がっており3つの箱でそれぞれ階高が異なるのが空間に流れを与えている。2階のテラスは外に開くのではなく、うちに開いているので内部がとても明るい。この考えをなんとか拙宅の設計にも入れたいのだが、、、、こちらはだいぶ小さいので、、、30坪くらいの家だがとても広がりのあるゆったりとした住宅である。スタッフで坂牛研OBの奥田君が元気で働いていた。がんばって。
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