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Sep 2017

建築の存立構造

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by 卓 坂牛

真木悠介、大澤真幸 現代社会の存立構造/『現代社会の存立構造』朝日出版2014を読む。マルクスの読解本であるのだが、その深い部分は大澤の解説が懇切丁寧でとてもわかりやすい。でもこの本が建築的示唆を与えるのはその部分よりもっと基礎的な社会の認識が建築と重なる部分である。それは社会というものが「それがまさしく、切株や川の流れや台風等々と同様に対照的=客観的な、つまり物的な事象として存在するということ」と同時に社会現象が「自分たち人間じしんの行為の連関以外の何ものでもない」つまり社会は自分自身なのである。ということは社会は対象的であると同時に我々との連関の上にあるという二律背反の状態にあるという認識である。実は建築も切株のようなものであると同時に自分たちじしんの行為の連関以外の何ものでもないのである。そして設計者の力点の推移がまさに建築を前世紀から今世紀にかけて移動させてきた力なのだと思う。また逆に言うと建築の存立構造の基本にこの二つの視点があるし、建築家が考えなければいけないことでもある。

思考解体実験

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by 卓 坂牛

私の先輩の社会学の教授が大学の授業で講義の内容はすべて授業ホームーページにアップして学生はそれを予習してきてこの内容を授業時間には批判的に論じよという方法をとったと言っていた。ここで学生はかなり挑戦的に間違いを指摘したり、資料の根拠を批判したりして先輩もあたふたしながらも、学生がポジティブに授業にコミットするメリットを語っていた。そこで私も今季から『建築の条件』授業において一章ずつ進むとして学生はすべてその章を読んできて、まず担当者がそれを15分で解説して、僕が10分補足し、その後60分をディスカッションすることにした。ディスカッションのテーマは私の主張の批判的読解である。そして2章進むごとに二つのテーマについて学生が独自の調査によって同じテーマを異なった視点から読解するというプレゼンをしてもらうことにした。また授業ごとに小さなレポートをウェッブ上に記してもらう。こうした多角的な授業は単に双方向的というステレオタイプな指導基準を実践するためではない。学生が自発的に思考することと、私の思考の欠陥と癖を是正するためでもある。さてどうなることか?しかし前も記した通り、自らの思考を解体することに残りの大学人生を使おうと思っているまずは最初の実験である。

研究室の劣化

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by 卓 坂牛

篠原研究室同期の桑原が逝去して別れを告げに行ってきた。人生の儚さにがっかりするとともに生きていてなんぼだなと思う。

明日から授業であり、研究室の指導も始まる。後期は卒業、修了を射程に入れるので毎年遅々として進まぬ学生の進捗にこの時期暗い気持ちになる。しかし生きていてなんぼだなという価値観が頭をもたげて来ると、まっいいか、好きに生きていけばいいじゃないか、「生きている」んだからという気もちにもなる。

どいつもこいつも設計者にする必要はない。そう思えば気が楽である。設計者にしようと思うから憂鬱なんであって、なんでもいいから卒業させればいいじゃないかと思えばまあ要点だけ押さえておけばいいということになる。

しかしそんなことなら大学にいて教育なんてしている意味があるのか?という気にもなる。教育の醍醐味は上手に水を与えて大きな花を咲かせるところにある。いくら肥やしをやって水をくべてもかろうじて花が開くも実も実らないということだと充足感は0である。

先日研究室に来たOBが研究室の質が下がっていると言っていたそうだが当たらずとも遠からずである。その一番の原因はとても簡単なことだが、学生たちが建築に使う時間が少ないからだと思う。なぜゼミに出すレジメが毎回ほとんど同じなのか?なぜ設計課題のスケッチが更新しないのか?彼らはゼミに出ると勉強した気になるのである。それまで何もしないのである。たまにまとまった新しいことを発表してもその次は全然続かない。たまたまなのである。単なる思いつきなのである。設計も同じである継続性がないのでたまに面白い案がポット出てもそれが展開しない。

それでも別に「ただ」の一級建築士になるのならなれるような気もする。それで満足ならそれで生きていけばいい(それなら別に僕と一緒に世界のワークショップ行く必要もなければ、無理して学会行かなくてもいいし、読みたくもない本を読まなくてもいいのであるが、、、)。しかし建築家として生きていくならそれ相応の覚悟を持って欲しい。起きている間は飯を食うときも建築のことを考えていて欲しい。そういう人が少ないと嘆きたくなって愚痴を連発しているが、考えてみればそんな学生は年に一人もいれば多い方なのだからまあこれでもいいのかなあと自分を慰めよう。

下吉田のゲストハウス

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by 卓 坂牛

下吉田にゲストハウスを作ろうというプロジェクトの打ち合わせでリトロボカフェへ。おっよく見ると拙著が並んでいる。ありがとうございます。このプロジェクトは貯金箱財団、滝口建築、日本女子大学宮晶子さんと共同作業。上手く進みそうです。

水清ければ魚棲まず

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by 卓 坂牛

木曽崇『「夜遊び」の経済学世界が注目する「ナイトタイムエコノミー」』光文社新書2017は夜間活動の経済効果に日本はもっと注意を払っていいと注告する。ニューヨーク、ロンドンの地下鉄が24時間運転をすることで劇場の開演が仕事が終わり軽く食事をしてゆったりと行ける時間に設定できる。などなど。経済効果もあるが町が楽しくなる。多少の猥雑さが増すものの都市の深みが増す。水清ければ魚棲まずというが、無菌の都市に人は住まない。

EU日本建築会議来年は

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by 卓 坂牛

ゲーテインスティチュートで7月に行ったEU日本建築会議の反省会を行った。そこに会議に来られた方40人くらいから回答いただいたアンケート結果を見るとかなりの高い評価をもらっているのに嬉しく思った。やや否定的な意見は発表者の時間が短い、というのと話題が広くて浅いというものだった。時間が短いのは会期を伸ばして解消できるだろう。話題の広がりはそれでいいのではないかと思っている。まずは状況をしるということが重要なのではなかろうか。こういう会議があればまた足を運ぶかという質問に対しては10ポイント中、10、9、8をつけた人が8割いた。これは頑張らなければと思う。来年はもっと面白く、そして最初から本を作るつもりでやりたいものだと思った次第である。

後輩と食事

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by 卓 坂牛

代官山に住む付属の後輩にヒルサイドに来る?と連絡したら同期で三窓のクライアントでもあるM君も来てくれた。模型を見ながら牛さんも相変わらずエッジだねえと驚いていた。M君は僕が独立したての頃NTTのショールームの仕事を発注してくれた恩人である。あの時は凄まじかったなあ。こっちはどんどん絵を描き、その横で工事は進み、M君ができたものに駄目出しして壊してはまた作りだった。そんな時に二人の娘は小学校に入る頃で受験の話も連日していた。そんな娘が今や働いていたり、留学していたりである。

理科大チーム4つ入選

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by 卓 坂牛

29年ぶりにSDレビューに出して入選にしていただき、審査員その他からこれは若手の登竜門でというようなこともつぶやかれ、まあそれもそうだよな、大人気ないとも思う。しかし弁解すると、誰かがこれは若手の登竜門となっているが、本当は建築の真の力を試す場だというような説明がされているという文章をみせてくれたので、では出してみようかと言って出したのである。まあそんなことはどうでもいいのだが、今日はオープニングパーティーがあり参加した。審査員の方たちにはニヤッと笑われ、こちらも「どうも」と返すしかない感じ。可能な限り若い入選者と声をかわし、彼らの作品をみせてもらい、審査員が言うように、こんなところに仕事があるのかと驚くような作品が数多くあるし、外国での建物が3つもあるのには驚く。受付には鹿島出版会の主催なので多くの私の著書や監訳本が置いてあり嬉しくもあり恥ずかしくもある。川島さんには著者が入選なんてかつてないと言われる。ありがとうございます。SDレビューのアドバイザーである鹿島昭一さんは附属の先輩で、私の案の話をするとあの寝室は狭いだろうと言われてれ笑である。帰る間際に理科大チームで記念撮影。今回は理科大教員3人、理科大出身が一人入選するという快挙である。

 

説明のつかないこと

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by 卓 坂牛

建築を人に説明するということは相手に理解して納得してもらうためにするのだからその説明は論理的でなければいけないし、お互いが共有する価値のようなものを基準に話さざるを得ない。でもそうしていると言葉にしずらい価値や、論理的ではない感覚的なことは説明できないししてはいけないということになる。なので今日は最初にそういう説明をして、説明がつかないけれどなんとなくいいなと思うことも提案の中に含まれていますということを申しあげた。もしかすると反論されるかとおっもったけれど、じっくり模型を眺めて、言葉少なく納得していただけたようでほっとした。SDレビューで展示している模型もそんな部分はいろいろある。言葉で説明しなくてもいい建築のよさをどうやったら説明できるのかを論理化したいのだがそれはそもそも矛盾しているだろうか  。