Archive

Nov 2017

ありふれたもの変容

On
by 卓 坂牛

便器が芸術作品となる20世紀アートの世界ではありふれたものが変容する。そのさまを哲学的に分析したのがアーサー・C・ダントーの『ありふれたものの変容—芸術の哲学』慶應義塾大学出版会(1981)2017である。彼の指摘では、ものにはそのもの自体の属性である単純属性と他のものとの関係を介してものが持つ属性である関係属性があり関係属性には表象属性とその他がある。この表象属性は作者がそのものを生み出すコンテキストがありそのコンテキストを介して受容者が歴史的知識から再構成することにより生まれるという。この表象属性の力がありふれたものを芸術に昇華させるわけである。さて、建築が単純属性のみで成立しなくなって久しい、ポストモダンの時代には歴史が、そして社会が、エコロジーが建築の表象属性を生み出すコンテキストとして押し寄せている。ではこうしたコンテキストを介して使用者が建築を再構成することで普通の建築が『建築』になることがあるのだろうか?つまりその辺のかなり質の悪いでもどこにでもありそうな建物、アートの世界で言えば便器やダンボールがデュシャンやウォーホールのコンテキスト操作によって芸術に変容したように『建築』に変容するのだろうか?普通の建売住宅や普通の公団アパートを例えばエコロジーで読み替える、社会性で読み替える、というようなことはできるだろうか?思考実験としては面白いけれど建築って物が伴うからデコンテクストとして価値が突如上がるかというとそんなに簡単ではない。しかし単純属性の修正をミニマムにすればするほどスリリングではある。平凡なものがどのように建築になるのか?
とここまで書いてきてそういうことしているのって坂本一成さんだなって思う。そうかあ坂本一成はデュシャンでありウォーホールということか。さもありなん。

 

 

 

 

打ち放し3連発

On
by 卓 坂牛

僕が働きはじめた1986年マニンビルができた、鈴木恂の設計。地下に真っ赤なビロードで覆われたイタリアンレストランがありマニンという名前だったと記憶する。そこから神宮前の方に行くと竹山聖のterrazzaかある。1991年竣工。昔竹山はデコン流行りしころ、ああいう昆虫建築より普遍性を希求し、参照するならロッシと言っていた。彼はそのスタンスにブレがない。今度竹山さんのオートノミーについてご教示ください。マニンビルの通りを上がると北川原温のシェアオフィスARCAが2009年にできている。窓周りの一工夫がうまい。コンクリートは年をとる。31歳、26歳、9歳。それなりに見える。

シュモクザメプラン

On
by 卓 坂牛

昨日考えていた対角線上に折る屋根は屋根面を南に向けてソーラーパネルの効率をあげる目的なのだが空間に動きができて一石二鳥かなと思っている。しかし短辺方向の耐震要素がないので思い切って短辺は窓をやめて壁にしてその代わり、シュモクザメの頭のようなプランにしてその目の部分から外光を入れると明るい床の間のようなものができる。床の間に行くと墓が見えるのである。このシュモクザメプランにすると短辺方向の壁が少し増える。

ビラシリーズ

On
by 卓 坂牛

bikearch36 原宿の一角にビラと名のつく集合住宅が集まって建っている。興和商事の(故)石田鑑三会長が「自分たちでまったく新しい住宅を作るしかない最高のものを作ろう。20年先のことをやろう」という意気込みで一流の設計者に頼んで作り始めた集住である。シリーズ最初が堀田英二設計のビラ・ビアンカ(1964)。一層ごとにテラスを挟み込みキャンチレバーでコーナーに柱を立てない設計。数件先に坂倉事務所のビラ・セレーナが1971年に建てられた。その道路を挟んで逆側に次の年ビラ・フレスカ(1972)が作られている。道路斜線をうまくかわしながらセットバックし、挿入された光庭の壁面は黄色く塗り込んで明るくしあげている。同じ年にさらにそのワンブロック先に大谷幸夫によるビラ・グロリア(1972)が建てられた。これ以外にもビラ・ローザ、ビラ・モデルナなどがまだ健在である。すでに50年たっているこれらの集合住宅は実にメンテナンスもよくこれからも生き延びて欲しいヴィンテージマンションである。

実験室

On
by 卓 坂牛

先月ラファエル・モネオ一家が日本に来たとき彼らは日本の住宅展を見に行って驚嘆したそうだ、日本の建築会は巨大なき実験室だということに。そしてそんなことは決して出来ないスペイン人は日本人を嫉妬すると言っていた。昨日アルゼンチンのフェデリコが日本建築研究で来日したいということで費用をジャパンフォンデーションに申請するにあたり日本側の協力者になって欲しいということで研究計画書をもらった。それを読むと、研究背景のところに日本の建築界は戦後の復興気において巨大な実験室と化して多くの実験あるいは異議申し立てを行って来たと書いてある。フェデリコはアルゼンチン生まれだが学位はカタルーニャでとっており二人共イベリア半島の文化圏とも言える。そういう人間たちにとって建築は実験とか革新ではなく伝統なのである。

日比谷あたりの小さな建築

On
by 卓 坂牛

bikearch 35 今日も日比谷までやってきた。自転車だと赤坂〜溜池〜虎ノ門〜日比谷で10分くらいである。日生劇場の前には乾久美子設計の日比谷花壇のフラワーショップHがある(2010)。朝はブラインドがしまっているのでちょっと寂しい風景だがこの場所に昔からあるようにひっそりと置かれている。日比谷公園の角には横河健の日比谷公園前交番がある。交番建築のはしり。1986年にできている。新橋駅前にはもう一つ横河設計の交番がある(1990)。どちらもできて30年近く経ち町に溶け込んでいる。

Obras architects

On
by 卓 坂牛

アルゼンチンとアメリカの建築家ユニットObra architectsの自由な形の作り方に惹かれる。これはニューヨークPS1の中庭インスタレーション。図学的な形が好きである。相貫的な形は特に思わぬ線が出てきて楽しい。

YMCA

On
by 卓 坂牛

赤坂に引っ越した時に出てきた結婚式のビデオを先日DVDにしたので昨晩夕食をとりながら30年ぶりに見てみた。二人は若かった。僕にはフサフサとは言わないまでも髪の毛があるし、配偶者はかなり細い。未だ仲人という古きシステムが残っており、ディビッド・スチュワート先生夫妻がその労をとってくれた。おそらく30代だったと思う。日本語半分、英語半分で私たちの紹介をしてくださっている(スチュワートさんがあんなに長く日本語を話していたことは後にも先にもないだろう)。篠原先生はいずれ建築史家スチュワートの目に止まる建築家になれたら素晴らし?というお言葉をくれた(無理でしょうね)。ホテルでやるのと煙の出る結婚式には行かないとおしゃっていた林昌二さんも乾杯をしてくださった(式場はコンドルが教えた最初の学生曽禰達蔵設計のYMCAだった)。二人が話すなら僕は言うことはないと言っていた坂本先生も二人と楽しそうに話をされていた。締めの言葉は私が「お互いずっと尊敬できる関係でいたいです」と言っている。

日比谷の懐かしい建築たち

On
by 卓 坂牛

bikearch34私が小学生の頃まだ東京でコンサートが聞けるホールは少なかったと思う。1929年に佐藤功一の設計で生まれた日比谷公会堂はその一つである。母親に連れられてここに何度かきた。メニューインのヴァイオリンコンチェルトは鮮明に覚えいている。日生劇場も夏になると劇団四季のミュージカルを見に来た。1963年竣工村野藤吾の設計である。取り壊されるという噂を聞いたことがあるが、隣地がこれだけ揃えて作っているということは残すことが決まったのかな?興銀本店(みずほ)とともに残してもらいたい村野名建築である。

 

鈴木了二の建築講義

On
by 卓 坂牛

今村創平さんと鈴木了二さんの対談を読んだのをきっかけに『ユートピアへのシークエンス』を一気に読んだ。これは講義録なのである。そしてこれは僕がやるような話とはかなり違う。
先日僕が千葉工大で講義したら今村君が東工大的だと言っていたが、この鈴木さんの講義はとても早稲田的なのではないかと想像した。あるいは早稲田はもっと感覚的なのかもしれないのだが、この鈴木さんの講義は鈴木さんの想像力で徹底して建築の中に分け入って読み込んでいくのである。新しい鈴木物語が生まれているのである。それはスリリングである。特にこれを読んで面白いのは私が行ったことのない建築である。見たことはないから鈴木さんの読みと図面で想像するしかない。写真も見ない。その方が楽しい。その意味でシザは一番興奮する。シンドラーは本物知っているからその鈴木流の読解である。もっと言うと鈴木が嫌いな建築史家的な説明である。面白いのはインディアンの影響ではないかという読み込みである。これはスリリングである。などなど数え上げるときりがない。60年近く鈴木さんのような視点で建築を見たことが無かったのでこれは興奮である。でもきっとこう言う見方を僕はこれからもしないような気がする。それは鈴木さんのような想像力がないからだと思う。やろうとしてもできないだろうなあと思う。ではどういう視点で僕は建築を見ているのだろうか?多分読解していないのである。まずフォルマリズムである。そして現象学なのだろう。そこにあるものとそこに見えるものだけを信じている。一方で言説なのだろうと思う。