論文と作品
昨日博士の学生の黄表紙投稿の採用通知が来た。構想を練り週2回のゼミを行いここに至るまで約1年かかった。そしてこれは連続ものの論文なので第二稿は年度内に出しうまくいけば夏までには掲載されるだろう。つまり1年半で2稿が完成する。査読が比較的厳しい意匠系の論文でも真面目にやればこのくらいのペースで仕上げることはできるだろう。一方建築作品はというと仕事が始まり敷地調査などして担当者と当初は毎日、設計段階で週3回、現場に入れば週2回くらいは打ち合わせをして竣工するまで小さな住宅でも1年半は少なくともかかる。これが作品選集に掲載されるクラスになるとさらにワーク量は多くなる。こうして論文と作品を比較するとワーク量は作品の方が必ず多く、また抽象化された理論では得られない建築の本質、構築やヒューレは作ることでしか獲得できない。それゆえ黄表紙論文と作品選集を同等に扱うことは当然あるいはそれ以上と考えるべきだろう。そこで作品選集のあり方も少し変えてそこにコンセプトと作成までの筋道をもう少し理論化して作品論として位置づけ黄表紙論文と同等に扱うべきである。その意味で現在のJARのデザインレビューはよくできていてこれを日本語でもやればいいのである。あるいはこれからは作品選集はやめて全部英語でこうした説明を加えて投稿し審査する形式にするのでもいいだろう。いずれにしてももっと作ることの位置づけを高くしていかないと昨日加藤先生と話した構築とヒューレの建築論は進展しない。
篠原論
博士の大村と一年間考えた篠原一男に関する黄表紙論文の採用のメールが来た。まだ再査読者のコメントに応えなければならないがハードルは一つ越えた。篠原一男の4つの
様式を貫く創作のメカニズムとして日常の非日常化に着目し言説分析と図面の相関を調べている。今回採用された第一稿は言説と構成の相関を明らかにした。次の二稿は言説と形、三稿は言説と空間量の関係を分析する。データはとれているのであとは料理するだけである。言説をKJ法でメタ分類し、図面はある定量化きらクラスタ分類し、それぞれをつき合わせる手法はまだまだ改良すべき点はあるものの、作家論の方法論の一つの可能性がありそうに思う。
新四年生
来年度坂牛研入研希望の中間部の学生と面接をした。希望者が定員より少し多く毎年のことだで心苦しいが選ばせていただいた。今年は粒揃いで選ぶ基準の設定が難しかったのだが、学生の希望と特性から考えて僕の指導によって最も伸びる伸びしろが感じられることを第一に考えた。
織物装飾が建築意匠に及ぼす影響を考えたいという京都の呉服屋の息子(昼インタビューした加藤先生が泣いて喜びそうなテーマ)、LA育ちの帰国子女(留学希望だがアメリカではないようだ)、中国からの留学生(坂牛研4人目の中国からの留学生。学部で入学した人は彼女が始めて)。ニュージーランドの父を持つハーフ(トイックが1000点近い。ワークショップなどでアシスタントよろしく)。成績トップ(坂牛研では4人目の成績トップ。理科大では成績トップがデザインもできることが多い)という面々。早速彼らにはキックオフミーティングに向けて宿題を課した。充実した研究設計生活を研究室全体で進めたい。
マツコの知らない世界に稲葉登場
わっ、稲葉がマツコの知らない世界に出ていたなんて知らなかった。しかもアーキフォトネットに篠原研出身で坂牛の同級生とまで紹介されてる。今度教えてね。マツコがどんだけ大きかったか。
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