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Feb 2019

JIAマガジン3月号

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by 卓 坂牛

JIAマガジン3月号昨日校了。今月号の表紙は比嘉武彦さんの建築が生まれる時である。比嘉さんは開館6年間で1000万人の来場者を記録した学会賞受賞作武蔵野プレースの設計者である。そんな比嘉さんが茨城県の筑波山を臨む地に作る学園で考えたことが形になる瞬間である。廊下が生徒と自然をつなぐ場所と考えその空間を考えていた時にバッハの音に誘われたという。音楽好きの比嘉さんだからこその天啓だったのだろう。

今月号は話題が豊富で昨年のアルカジア大会での基調講演を行ったBIG事務所のカイ‐ウェ・ベルグマンさんのユニークな公演の要約とアルカジア建築賞2018最優秀賞受賞者ジュン・セキノ氏へのインタビューを掲載した。ベルグマンさんはBIGのプロジェクトを15㎡から1億㎡まで16個のプロジェクトを説明し最後は宇宙建築の可能性を示唆する内容でその建築の幅の広さに聴衆は魅了された。

年か前にブエノスアイレスでレクチャーをご一緒したのがBIGのベルグマンさんだったと思う。僕は自分の準備であまり聞けなかったが聞いた学生によるとめちゃ面白かったそうだ。この事務所はプレゼンの天才である。

建築論シンポジウム

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by 卓 坂牛

建築論を議論しているグループでシンポジウムを企画しました。

自律性を標榜した建築およびアートはポストモダンといわれる時代に瓦解し他律的になり、停滞する経済、3;11を契機にその傾向は社会性というキーワードで極大化します。

そこで昨年自律した建築の可能性を議論しました。今回は他律のスケールの上で建築を議論します。必ずしも登壇者は他律建築に両手を広げあげて賛成しているわけではありません。どんな議論になるか楽しみです。

予約はとらず先着順です。ご来場をお待ちしております。

世界大学ランキング

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by 卓 坂牛

先日結構有名なイギリスの世界大学ランキングの組織からメールが来た。そのランキングの評価基準は40%が学界での評判となっていて一体どんな人がその評価をしているのかと思っていたらこういう風に評価の依頼が来るのかということを知った。それで昨日その評価アンケートが送られてきて10分かからないからすぐやて下さいと書いてある。自分の所属、専門分野をいれてから聞かれたことは呆れた。日本国内でその分野で優秀な大学を10まで挙げよ、世界で20まで挙げよである。へえ、こんな質問の集計がこの有名なランキングの40%の評価を占めているのか、そう思うと責任を感じる一方、おなかがすいて朦朧としているときに、どこまで明晰な答えをだせているのやら疑問を感じた。さらにこのアプリが恐ろしく性能が悪くて大学名を入れるとその正式名がでてきてそれを選ぶのだけれどその正式名が出てくるのに30秒くらいかかるのである。be patientって書いてあるけれど無理だね。

I pad pro

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by 卓 坂牛

I pad pro を使い始めた。JIAマガジンの編集や学生の梗概に赤入れすのにいちいち印刷していては馬鹿らしいと思ったからである。編集会議で出版編集のMさんもIpad pen で校正すると聞いてうれしくなった。新しいIpad pro は本体に磁石でくっついているときに充電される優れもの。

コミュニタリアニズム的

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by 卓 坂牛

吹き荒れる資本主義に物申すためにコミュニタリアニズムが登場したので昨日の言い方はやや誤解を招きそうなので言い直しておこう。さてこの本でコミュ二タリアニズムを復習すると次のことが分かる。政治も経済も乱暴にくくれば私的所有の度合いでそのメカニズムは概ね決まる。つまり政治経済は資本主義と共産主義の間を揺れ動いているということである。その昔資本主義が現れ調子が悪くなるって私的所有を制限する空想社会主義が、マルクスが現れ、一方功利主義に対して私的所有を最大限にするリバタリアニズムが現れ、それを競争で獲得せよというネオリベラリズムが現れ、行き過ぎだから少し共同性を加味せよと中道左派としてのコミュニタリアニズムが現れたということである。その流れに文句を言うつもりはない。僕もある程度コミュニタリアンである。問題はそういう下部構造の上に乗っかった建築はそのリトマス試験紙の如く左へ右へと揺れ動き資本主義の調子がいいと私的、個人的、自閉的、右派的に振れ、調子が悪いと共同的、コミュニティ的、開放的、左派的となる。そのあまりに軽々しい根無し草的な建築のあり方に坂本先生は警鐘を鳴らしたいのである。曰く「行き過ぎた社会性」は建築性を失うと。

言語化しづらいことのコード化

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by 卓 坂牛

創造に役立つ博士の学位を取らせたくリクルート中。もちろんArchitectの資格は世界では日本の比ではなく価値があるがDoctorはその上を行く。先日日建の博士を持つ取締役が海外行くとDr.Eng.が実に役立つと言っていた。しかし学位のための学位には何の意味もない。創造の背骨になる論理とは何かを考えたい。先日RCRの展覧会を見ながらつくづく思ったが建築はロゴスとパトスの戦いである。パトスにいつ委ねるのか。パトスをどれだけ信じるのか、パトスをどうコントロールするのか、そんな言葉に出来そうもないことをコード化できたら役立ちそうなのだが。

共同性の紐帯

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by 卓 坂牛

大塚久雄の『共同体の基礎理論』岩波現代文庫(1955)2000は経済史研究の不動の名著と言われている。なぜそんな本を読んでみたかといえば共同体とは何かを知りたかったからである。そして分かったことは共同体の紐帯は土地でありその土地が共同体的所有から私的所有に移行するときにこの紐帯が切断され始めたということである。つまり資本主義が共同体を瓦解するということである。さて共同体の歴史を知りたかったのは共同性の可能性をしりたかったからである。というのも共同性とは共同体の精神的紐帯の呼び名であろうと思っているからである。だとすれば共同性も資本主義により脆弱化されたということになる。だからローティーが連帯をいい、サンデルがコミュニタリアニズムを説いてもそもそも資本主義が吹き荒れていると共同体も共同性も産まれずらいだろうと思うわけである。資本主義の世界で共同性を生み出すためには土地に代わる紐帯が必要なのだと思う。いくら建築家が箱を作ってもコミュニティが生まれないのは紐帯を考えていないからである。

建築性

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by 卓 坂牛

昨日のオープンハウスで坂本先生と少々お話をする時間があった。話は例によって直接この建物の本質に迫るものではなく周到に迂回しながら核心に迫るのである。最初は3月9日に法政大学で僕らが企画して行う建築の社会性を問うシンポジウムの話から始まる。坂本先生には妹島さん、ヨコミゾさん、青井哲人さんとともに登壇いただくのだが彼はすでにそこで話すことがあってそれは結論か言えば行き過ぎた社会性に対する警鐘である。この「行き過ぎた」というのが坂本先生の昨今のキーワードで、拙著『建築の条件』で対談させていただいた時も頻繁にこの言葉が登場した。そして昨日の子供の家についてもこの「行き過ぎた」態度の有無が論じられた。先生からすると土地を道路に擦り付けたことが「行き過ぎ」と見え、また内装や形態にもそのきらいがあるかのようであった。しかし一方現代社会はそういう行き過ぎた態度を欲しているのも事実であるとしたうえで、しかしそれに押し流される建築には「建築性」が欠如すると語気を強めていた。このことは僕が『建築の条件』の最後に書いたことに他ならないつまり「建築」なきあとの建築とはこういう建築性への希求なのである。さてではこの子供の家の建築性とは何か?それは運動と風景であり流れと淀みなのだがそれはまた改めてゆっくり記してみたい。

オープンハウス

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by 卓 坂牛

久しぶりのオープンハウス。都内でやるのは内の家以来。天気も良く便利な場所なので多くの方が来てくれました。坂牛研OBOGはもとより理科大の人、東工大の人、日建の人、OFDAの人、附属の人、建築家、先生方、ありがとうございました。いい天気の夕刻にいたのは初めてなので夕方の光が外壁に反射していい雰囲気。