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Apr 2019

小堀哲夫

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by 卓 坂牛

二度目のJIA建築大賞を受賞した小堀哲夫さんにお話を聞きに行った。春日の裏にある古いビルをリノベして3層使っている。哀愁の漂うビルである。小堀さんの設計はそもそもその建物の使い方を根底から疑って新しい使い方を生み出すものである。そのリサーチ力と説得力はなかなかのもの、ホームページのビデオもそんなプレゼン力を感じさせる。また元久米設計にいただけあって技術のネットワークも十二分に有効活用されているようだ。二度目の大賞は当然かもしれない。

副査

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by 卓 坂牛

K先生から外国の方が書かれた博士論文の学外副査を頼まれた。いつもお願いばかりしているので断るわけにはいかない。K先生曰く論文の内容が私の関心に近いからという。確かにその方の著書の2つは私の近刊にも引用したことがある。というくらい名前を言えば建築関係者なら誰でも知っている世界的に有名な方である。そして世界的なトップ大学建築学科のディーンでもある。世界のディーンはPhDより知名度で選ばれるようである。どうしてそんな方が日本の大学に博士論文を出すのかは色々な事情があるようだが、審査する側も大変だ。この論文は著書7冊をまとめたものだというのだからその7冊読まないといけないのだろう、、、トホホ。

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by 卓 坂牛

運動と風景一回目のオープンハウスに200人近くの方が来場くださいました。一時中に入れず外で待っていただくこともあり恐縮でした。感想のメールもいくつかいただきました。ありがとうこざいます。是非さらにご意見ご批評いただければ幸いです。14日に二回目を行います。御覧になりたい方は担当中川までご連絡ください。ご案内お送りいたします。

nakagawa@ofda.jp

手嶋建築

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by 卓 坂牛

広谷さんと手嶋建築を拝みに行った。光と素材と家具の絶妙なバランスは見事としか言いようがない。自分の作っているものとは明らかに違うジャンルのものである。

カタルーニャ工科大学

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by 卓 坂牛

「あの、うちカード使えないんです」とオダギリジョーがいう。すると「じゃあ、いいです」と謎の外国人はあっさり帰ってしまうCM知ってる?

最近カタルーニャ工科大学の建築学部が独自に協定を結びたいといい理科大の国際課と緻密なやり取りが始まった。それをccで見ていたら。「うち英語で授業してません」という文言がありこの宣伝を思い出してしまった。この宣伝に則れば「じゃあいいです」と言って彼らは違う大学に行ってしまいそうだが、相手は僕のことを知っているので坂牛研で受け入れてくれるのなら単位はいらないと言う。理科大側も研究生ならなんとかしようといいなんとか交換留学できるように話は進みそうでホッとしている。今年はイアエステの学生も含めるとスペインから学生が3人、夏にはマドリード工科大学から建築家が1人来そうである。さあみんなでスペイン語の勉強でもするか。セルバンテスでもらったスペイン語レッスンのただ券使おうかないよいよ。

ラワン塗装

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by 卓 坂牛

お金が合わず、仕上げにラワンを初めて使った。木の色のムラが激しく塗装が上手くいかない。ep拭き取り今日で3回目。やっといい具合になった。

塚田邸

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by 卓 坂牛

建築家 塚田眞樹子さんの自邸を見せていただいた。もともと構造を、学んでいた人らしくテクトニックである。同世代の建築家で20年以上前に処女作として自邸を建てたなんて凄いなと思った。しかしHouse SAは坂本先生56才の時、ハウスインヨコハマは篠原先生59才の時。遅く作る人もいる。

アナザ ユートピア

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by 卓 坂牛

槇さんから新刊を頂いた。槇さんは広場の境界はリンチの言うエッジであり周囲と断絶している。だからその中は自由なのだと言う。そう、そうあるべきである。だがスペインの建築家エンリックに言わせれば東京にパブリック空間(人びとの空間)はないと言う。全ては管理空間(自由ではない)か、商業空間であると。パブリック空間を取り戻すためには人びとの側にもリテラシーがいる。日本ではそうした教育から始めてアナザ ユートピアを獲得していくのだろうと思う。

Any place. work

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by 卓 坂牛

理科大坂牛研究室で設計及び一部施工した富士吉田のコワーキングスペースanyplace.workを新建築4月号に掲載頂きました。この仕事では昨年M2だった高野君が設計から現場まで先輩を見習い頑張りました。こういうプロジェクトは大学生にとっては(もちろん教員にとっても)貴重です。

新宿再び

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by 卓 坂牛

港区から転出。晴れてまた新宿区民となった。思い起こせば30年ほど前結婚して大隈講堂脇のマンションに転がりこみ本籍も早稲田にし、その後杉並、四谷、赤坂と移り住んだ。そして今日再び早稲田のとなりに戻って来た。住む場所は全て配偶者が決めた。早稲田の住処を探して来たのも、方南町に引っ越したのも、配偶者の実家で義父と同居したのも、四谷のマンションを決めたのも、そして神楽坂の土地を買うべきだと言ったのも、そしてもっと言えば新居のデザインを決めたのも彼女である。だから新居は「配偶者の家」である。中川君がボソッと言ったこの命名はかなりただしい。