Surface architecture
モーセン•モスタファビさんの学位論文の審査をするために氏の著書に目を通している。その一つレザボローとの共著サーフェスアーキテクチュアでかつて意味を伝えていた建築の表層がもはや意味は伝えず生産の表れになっていると指摘している。建築の表層は衣服である。かつて衣服は階級とTPOを表していたがその機能が限りなく希薄になっているのと同じである。
モーセン•モスタファビさんの学位論文の審査をするために氏の著書に目を通している。その一つレザボローとの共著サーフェスアーキテクチュアでかつて意味を伝えていた建築の表層がもはや意味は伝えず生産の表れになっていると指摘している。建築の表層は衣服である。かつて衣服は階級とTPOを表していたがその機能が限りなく希薄になっているのと同じである。
本日京大で行なう「建築論の問題群」研究会のテーマは「自然」である。自然はプラトンが数比を見出し、アルベルティが均斉と関連づけ、フィラレーテやロージエが建築の原始と考え、カトルメール・ド・カンシーがその概念と物の双方に注目し、さらにゼンパー、ラスキンにおいても建築との関連が位置づけられてきた。そしてモダニズムは自然と建築との繋がりを断った。その理論的背景にはヴォリンガーの『抽象と感情移入』があり建築はもはや自然を表彰するようななにかではなくなる。しかるに21世紀に入り環境主義のもとに建築は再度自然を地球規模で考えなければならない段階にある。という流れを今日の論者は恐らく各論としてお話ししていただけるのだろうと思っている。
しかし僕にとっての自然は毎朝起きて窓越しに見えるトネリコとユーカリの新芽だったり空の青さだったりする。その日々変化するこのものたちの息吹が建築との関係の中でとても重要なのである。それは建築の本質でもないし概念でもないし環境でもない気がする。
筧菜々子の『ジャクソン・ポロック研究ーその作品における形象と装飾性』を読んで三つ面白いことがあった。一つはポロックの絵はいくつかの層に別れていて初層には人物の輪郭線が描かれているという指摘。二つ目は日本の書道の影響。3つ目は、これが一番気になることだがポロック絵画の装飾性、そしてその装飾性とはグリンバーグの解説によれば視覚的イリュージョンというものでステラの言い方だとワーキングスペースである。ポロックの絵画のパターンが画面から浮き出てくる強い視覚的効果を肯定的に装飾という言葉で評価しているのである。装飾性が様々な観点から見直されている今日、ポロックをそう見る見方に時代の流れを感じる。
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