来週水戸の明治建築を調査することもあり、買いこんである保存デザイン関係の本を読み始める。最初は田原幸夫『建築の保存デザイン論』学芸出版社2003。保存デザインの手法を修復、置換、付加、その他に分類し世界中の保存再生建築を紹介している。パリのノートルダム寺院の尖塔をヴィオレ・ル・デュックが修復した時、彼はオリジナルデザインを大幅に変更したそうである。大きな批判が当時あったようだが、現在見るとそれは当時ほど明らさまではない様に思う。馴染むのである。修復とは歴史への真摯な態度であることに加え現代の刻印であると著者は言う。
夕刻かみさんが書道の勉強会から帰ってきた。講義のテキストのコピーを見るとなんとコリングウッドの『芸術の原理』からの引用である。西洋美学理論が日本の書道のテキストとはなかなか進んでいる(?)。夕食後大澤真幸『資本主義のパラドックス』ちくま学芸文庫2008を読み始める。
高校の同窓生の中で建築を生業としている人たちが集まる会がある。母校の校章である五三の桐に因み桐建会と呼ぶ。誰かが何か作ったり、誰かが何か賞をもらった時に集まってそれを鑑賞す会である。前回は私のリーテム東京工場の芦原賞を祝っていただいたが、今年は川村純一さんがモエレ沼公園で学会賞の業績賞を受賞されたのを祝し飲むこととなった。と言っても皆で札幌まで行くこともできないので、東京で集まって川村さんにスライドショーをしていただくこととした。この公園はイサム・ノグチとアーキテクト・ファイブの合作である。行って見たわけではないのでその作品の素晴らしさはよくわからないが、このプロジェクトには20年の蓄積があるとのこと。川村さんとイサム・ノグチとの付き合いは草月会館から始まっていると聞きその歴史の重みを感じた。
講演は国博の講堂で行なわれ、その後芸大の赤レンガ1号館に場所を移し懇親会が行なわれた。歴史のある学校には歴史的な建物があるものだ。信大でもキャンパス計画で見過ごされていた歴史的建物の保存を計画しているが、大変参考になる。赤レンガ館もこうしてOBがケータリングでパーティできるなんて素敵である。建物は明治のもので寄棟の洋小屋組が面白い。芸大の片山先生から建物の説明があったが、すかさず桐敷先生から歴史的な講釈があった。懇親会の締めでjiaの25年賞を受賞された益子先生がご挨拶(写真)。その後母校の同窓会館について意見交換。渡辺武信さんや、近田玲子さんを始めいろいろ意見続出。総じて若手幹事が今後母校に物申せとのこと。また、単に同窓会館だけではなく、キャンパスマスタープランを作れとのことである。何にもしない幹事の一人としてはどうしたらよいものやら?
足の痛みは昨日と変わらない。湿布を取替え足首が動かないようにテーピング。早稲田までタクシー。近くに住んでいてよかった。しかし文学部は正門から教員ロビーまで遠い。ああ恨めしい。今日のテーマはフォトジェニック建築と体感建築。講義のまとめでフォトジェニック料理と体感料理、フォトジェニックファッションと体感ファッションとかあるのでは??と適当に言ってみた。でもきっとあるような気がする。早稲田から末広町に移動。茶室のオープンハウスである。平日の午後だし、ちっぽけな10坪の空間ということもあり暇だろうと思っていたが、思いのほかいろいろな人に来ていただけて感謝。W事務所の方は事務所総出で恐縮してしまう。私は足を負傷してこまめに動けず、説明もままならず申し訳ないことをした。しかし負傷によってこの空間での身体の置きかたを発見した。この茶室は土間部分と40センチ上がった畳部分がある。土間部分は椅子でも置いて座る場所と考えていたが、今日は椅子もまだなく、また足が痛いので土間のRのついたコーナーに足を放り出して座っていた。それはほんの偶然のことだったのだが、この姿勢と目の高さとスピーカーの位置がとてもいいことに気がついた。つまり背中を包む丸いコーナーの触覚、苔がすぐ脇に見える視覚、そして低い位置にあるスピーカーにあった耳の位置が生む聴覚。どれもが最適な感じである。来る人来る人にその姿勢を勧めてみると皆良さそうにしている。そのせいかこんな単純な10坪の場所に皆長い時間滞在していたようである。
昨晩同僚の先生や学生達とフットサルをした。一ヶ月前くらいに誘われた。昨晩は泊まりだったので行くことにしていた。そういう日に限って製図がなかなか終わらない。6時半にやっと終り7時頃学生の車に乗せてもらい大学をでる。そういえばどこでやるかは聞いていないかった。「どこでやるの?」と聞くと「戸隠」と言う。戸隠と言えばスキー場ではないか。長野から普通に行けば40~50分かかるところ。殆ど冗談だと思っていたのだが、車はどんどん真っ暗な山奥に入っていく。どうも本当のようである。着いたのは正真正銘戸隠であり、町の体育館であった。とき既に8時。当たりは漆黒の闇である。しかし、とにもかくにもこうして4年目にして初めて長野で運動をする機会を得た。相当のブランクの末にサッカーをやるからにはと思い、けが予防のために連休中に二日ほどジョギングをしたのだが、案の定。悪いことは起きる。足首はがちがちにテーピングして捻挫は起きない状態だったのだが、アキレス腱からふくらはぎにかけてどうも筋が伸びた。あっと思った瞬間誰か、後ろから思いっきり蹴られたような痛み。肉離れの感覚である。そしてもう動けない状態である。なんとも情けないやら格好悪いやら。
今朝は朝から学科会議。一番最初に来て一番最後に帰る。この醜態を晒したくない。しかし午後は講義にゼミである。晒したくないなんて言ってられない。そしてゼミが終り事務所へ。明日は早稲田の講義に、オープンハウス。こう言うときに限って移動が多い。
5月7日
連休明けの大学。車中大澤真幸の『不可能性の時代』を読み直す。何故現代が不可能性を胚胎しているのか?彼によれば、現代は第3の審級(あるいは大きな物語)が薄れている時代である。そうした時代の若者にとって家族というものはどういう存在か?家族は第3の審級によって成立している部分が大きいという。つまり自分の母親とか父親というものは血のつながりというもの以前に親であるという倫理観(第3の審級)によって成立している部分が大きい。しかしてその倫理観が崩壊している現在においてコミュニケーションの無い親とは他人以上に他人である。一方ネット上では血も繋がらず、顔も見たことが無い他者と深いコミュニケーションが成立しうる。つまりこうした新たな情報機器は親族と他人の距離を逆転させる。ところがこうして成立した他人とのつながりはあくまでヴァーチャルな状態であり、本当の意味での相互理解には到達しない。あるときそうしたネット上の知人の本当の他社性に気付いた時にその関係は崩壊する。つまり現代の若者が求めるものは他者性なき他者なのだと言う。それはつまり不可能性を原理的に胚胎するというのである。
なるほど分からないではない。原理的には。ニュースに登場する若者は確かにそうかもしれない。娘を見ていてもそれは頷ける。のだが、これが95年以降の現代の主調といえるのだろうか?そう考えるとピンとこない。他に無いの?という気分になってくる。そうそれは気分であり、潜在的願望かもしれない。大澤さんを上回る分析には辿りつけないのが正直なところだが。
大澤真幸の新刊『』逆説の民主主義』角川新書2008と『不可能性の時代』岩波新書2008を読む。前著ではハーバーマスとデリダが登場する。二人が世界の軸となる哲学者として紹介される。二人の思想はもちろん異なるものの、他者性の尊重というところで共通点があるという。しかし、ハーバーマスは他者を受け入れる時に基本的条件を作る。それはヨーロッパ的であり、デリダのそれは無条件でありアメリカ的だという。つまり前者は、ナイフしか持たない人たちのようなもの。彼等は熊を敷地に入れないように気を使う。ナイフで熊は倒せないから。しかし後者のデリダ的発想はそうした限定をしない。しかしそれは彼等がライフルを持っているからでもある。彼等にとっては熊が出て来たら撃ち殺せばいいのである。だから始めから熊を除外する必要も無いし、除外することは民主的ではないということになる。確かに世界は今こうした基軸で動いているようにも思われる。後者は大澤が『虚構の時代の果て』で披瀝した戦後の時代認識である理想の時代(45年~70年)虚構の時代(70年~95年)という二つの時代に続く時代分析である。しかし正直言うとこの本はよく分からない。どうも具体的な例示と観念的な分析の接続が新書レベルでは言葉足らずになってしまうのか、僕の基礎知識が不足しているのかあまりピンと来ない。
ぐずついた天気である。今日はゆっくり家で絵を書いたり本を読んだり。午後少しジョギング。四谷駅の脇にあるお堀端沿いの公園で坂道のダッシュをする。心拍数を150くらいまで上げて10本。さすがにへとへとである。帰宅して風呂につかりながら読書。シャネルの本がやっと読み終わる。
5月4日
午後坂本先生の水無瀬の町家増築を見学。その昔一人で外観を眺めに来たことがある。先生と素材について対談するにあたり、この外壁のやりっ放しコンクリートを見ておかねばと思ったからである。数年ぶりに見るこの銀色の表面は全く変わっていない。駐車場の脇から中へ。坂本建築でいつも感じる低めの断面設定がここでもいろいろな場所に感じられる。2階の階高、切り妻屋根の勾配の始まり高さ、手すり、吹き抜けに面する窓の位置など。そしてその低さが建物を優しい感じにする。増築部分もスケールや床の設定が巧みに考え抜かれている。母屋との間に生まれた中庭は両建物の高さが押えられているので圧迫感を感じない。水無瀬を後にして坂本先生と同級生で造形大の学長をされている白澤さんのご自宅を拝見しに行く。6メートル×12メートルの平面形に矩勾配の寄せ棟屋根の乗る母屋に二つの増築がくっつく構成。母屋が黒い空間で増築は白い空間になっている。全ては明確な幾何学形。ここが坂本一成とは少し違う。微妙な斜めの線などは登場しない。
その後蕎麦屋で飯を食い、バーで一杯。中央線で東京へ向かうも研究室の先輩後輩と共に、反省会と称しつい阿佐ヶ谷で途中下車。ベルギービールを堪能。
朝方は雨がひどく家で読書。午後雨が止んだのでかみさんとルオー・マティスを見に新橋へ行く。松下の美術館は展示量は少ないが近くから作品をみられる空間である。ルオーとマティスはモローの弟子で美術学校の同級生であり大親友だったそうだ(あれだけ作風が異なるのに)。ギャラリーをでてからモンブランの本店に行きペンの修理を頼む。どうも軸がぐらぐらする。直るのだろうか?銀座は歩行者天国。伊東屋でスケッチブックを買う。今までは手帳の中にモールスキンの一番小さい無地のスケッチブックを入れていたがどうも小さ過ぎて調子悪い。もう一回り大きいものを探す。①紙が白すぎないこと。②紙が厚過ぎないこと。③全体が厚くて重過ぎないこと。④綴じ部分が強くて開きが悪くないこと。⑤A5ぐらいの大きさ。こんな条件のものはなかなか無いものである。スケッチブック売り場のものは白すぎて厚すぎる。だからノート売り場で探す。珍しく今日はいいものが見つかった。5冊ほどまとめ買いする。
5月2日
昼間はあっち行ったり、こっち行ったりでひどくあわただしい日だった。夜は茶室がほぼ完成し、担当者の山本さんの労をねぎらい坂牛チーム皆で食事。途中伊藤チームも合流。
その昔スペインの雑誌社から我々の某物件を掲載したいということでかなりの図面や写真を送っていたものが無事出版され、再来週くらいには届くとのこと。たかだかスペインの乱造本だろうとあまり期待していなかったが、そのシリーズはRIBAの推薦図書らしい。確かに最初に来た見本はレイアウトや図面の載せ方がしっかりしていた。到着が楽しみである。