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Dec 2009

コロミーナ

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by 卓 坂牛

朝一で会議、ゼミ、午後一で会議。図書館問題の会議だが東工大の新しい図書館の図面が出てきた。これかあ!!安田さんが設計しているのは。なかなか綺麗なデザイン。巨大ブレースにガラスの箱が載っている。だがどこかで見たことがある。この場所はその昔東工大の100周年記念館の設計候補地であり、学生だった僕らも案を作らせられたのだが、自分が作った案の一つがこれによく似ているのを思い出した。同じ穴のムジナだろうか?図書館会議の後に別の会議が二つ。これで今年の会議は明日の最後の一つを残すのみ。夕食後Beatirz Colomina ed. Sexuality and Spaceの中のColominaの論文The Split Wall: Domestic Voyeurismを 読む。前半はロースの内外部空間の決定的な差について書かれている。後半はコルビュジエである。前半しか読めなかったが、どうもこの論考はどこかで日本語訳を読んでいる気がする。『マス・メディアとしての近代建築』の中にこの論考がそっくり載っていたのか?それとも類似した論考が載っていたのか???探したが研究室にこの本が見つからない。

英語が入らない日

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by 卓 坂牛

午後の勉強会のことをすっかり失念。H君から電話「今日は長野?」と聞かれ「いや東京」「今日は勉強会ですが」と言われあわてる。急いで事務所へ。今日のパートは面倒くさい箇所が数か所あり全然進まない。6時ころ帰宅して夕食をとり、さあ長野へ出かけねばならないのだが、ついつい家で時間を過ごし遂に最終の時間。意を決して家を出る。車中ウィグリーのジェンダー論を読み続ける。今日は一日英語漬けだがなんだかあまりすらすら入って来ない日である。

大掃除

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by 卓 坂牛

午前中のアサマで東京へ。今日は事務所の大掃除。カタログ庫の整理、不要物廃棄。材料部屋整理、不要物廃棄。模型室整理、不要な模型は写真撮影して廃棄。各自の机の周り整理、不要物廃棄。ここまで来ると事務所の前にゴミの山。毎年この量に驚く。どこにこれだけあったのさ?そして床のワックス落とし。これが腰にくる。そして水ぶきして乾かしてからワックスがけ。これも腰にくる。そして夜になる。毎年大掃除のあとに忘年会なのだが、今年は22日。後が詰まってないとついのんびりやってしまうのか、なかなか終わらない。

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by 卓 坂牛

朝一ゼミ、講義、午後製図。長野は昨晩から雪。今晩も降り続きそうである。

身体能力

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by 卓 坂牛

今日は二人のリクルーターの方にお会いした。数人の求人のために地方へも足を伸ばしていただき感謝である。午前午後と四年生の卒論のゼミ。夕方センター試験のリスニングテストの講習会。もうこれを受けるのも4回目。何事も起こりませぬように。夕食の後マークウィグリーを読み続ける。しばらく読んだりスキャンしてテキストにしてノートにしたり、飽きたのでgoogle booksのダウンローダーをダウンロードして試してみた。これは確かに本がダウンロードできるのだがなんたって画像データーだから滅茶苦茶重いし時間がかかる。検索して必要なページだけ落とせるのなら使えるが。疲れたので思想地図のvol4想像力を読む。序文で東浩紀がつまみ食い的に自分の好みの想像力だけ読んではいけないと書いているので最初の中沢新一、東、白井の鼎談から読む。途中まで読んだら飽きた。つまみ食いはいけないが全部読まなくともよいと書いてあるので次の仲正論文を読む。これは一気に政治論。オバマの話で始まる。これも2ページ読んだら飽きたので次の村上隆、黒瀬陽平、東の鼎談に移る。うーんあまり面白くないが、芸術は身体能力だと言うのは納得がいく。これは本当にそうだと思う。いろいろな意味で。体が動かない人間には芸術は無理だ。建築も無理。芸術も建築も僕の中ではやっぱりスポーツに近い。そういうとメディアアートのようなものはちょっと違うのだろうが、だから村上もメディアアートをあまり評価していない。僕は評価をするけれど芸術だとは思っていない。あれは違うもの。まあなんというかあれは術ではあるが芸はつかないというか。敢えてつけるなら電。電術。

Sexuality and Space

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by 卓 坂牛

午前中ややこしい電話の対応に追われ書類を作る。無理難題を押し付けられるが立場が弱いとノーと言えない。2時のアサマに乗らないと行けないのだがこういう時に限っていろいろと面倒くさいことが起こる。東京駅で駅弁を買って車中食べながらBeatliz Colomina ed.Sexuality and Space Princeton University press1992の中のMark Wigleyの論考‘Untitled : The housing of Gender`を読むウィグリーは言説空間の中のジェンダーの役割 とジェンダー言説の中の空間の役割の関係を辿ると述べ、アルベルティの建築論における家父長制を紹介する。そしてその由来をクセノフォンの言説に求める。そして女性のセクシュアリティがルネサンス建築空間において(初めて)生産されたと述べる。ふむふむやっと見つけた西洋建築の意味論上の(使い勝手上の)ジェンダー論。これはフォーティーのジェンダー論にはなかったもの。彼の議論はあくまで視覚的な形状の男女性だったと記憶する。次にウィグリーが俎上に上げるのはゼンパーなのだがその章に入ったところで長野。急いで市役所へ。市民会館建設検討委員会に遅れて出席。今日は大詰めの議論でテレビが三社くらい入っていた。4時に始まり終ったのは9時である。自転車で大学へ。今日は一段と寒い。零下だろうか?途中でサンドイッチを買って研究室でほおばる。朝の続きの書類を作って事務所にメール。これからマンションに行くと冷蔵庫状態である。帰るのが怖い。

驚き

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by 卓 坂牛

午後東工大のすずかけ台にS先生を訪ねた。僕の修士生をこちらのドクターに受けさせる予定。S先生は中東の建築史を専門としており、今まで何度かこれらの遺跡調査報告書を戴いたことがある。写真が美しく、実測図面がまた素晴らしい。うちの学生もここに来たら実測調査なのだろうと思っていたが、今や実測ではなく写真撮影で図面になるのだという。200万で買ったソフトを使い、撮影データー(市販のデジカメで十分と言う)をコンピューターに入力すると自動的にワイヤフレームの3次元データーに変換されるという。そんな便利なものが世の中にあるのかと思い、気になって事務所に戻ってそのプログラムを検索するとなんと建築だけではなく(当たり前だが)地形だって写真にとれば3次元データーに変換できるものである。驚きである。http://www.kurabo.co.jp/el/3d/kuraves_g2_01.html
今日はもう一つ驚いたことがある。それはグーグルの書籍検索である。これは2004年から行われておりなんとなく知っていたが実際にそれを使ったことはなかった。何故そこにアクセスしたかと言うと友人の専修大学の先生からもらったメールで彼がグーグルの著作権無視の無断スキャンを訴えていると知ったから。そこでこの機能にアクセスして驚いた。自分の気になるコンセプト(言葉)が登場する本を検索できるのである。例えば「消費の空間space of consumption」が本文中に出てくる本を検索すると、ル・フェーベルの『空間の生産』を筆頭に347冊検索される。例えば「女性的建築feminine architecture」を検索するとマルグレイブの『建築理論』を筆頭に81冊出てくる。そしてその本文中のその言葉の登場部分を読むこともできる。もちろん多過ぎではあるからこれらを評価するのはちょっと大変だけれど、それでも本の中身があっという間に検索できるこの機能は驚きである。

雑用

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by 卓 坂牛

一日中年末の雑用を片付ける。こういうことはやりだすとたくさんあるものである。午後、日建設計からnikken journal01なる小冊子が届く。日建設計の2009年の活動と副題がついている。どれもこれも技術的レベルが高いのはよくわかる。日建をやめて外から見るとますますこの凄さはよくわかる。しかし相変わらず作る姿勢が同じだなあと感じる。こういうのをよく言えば伝統。悪く言えば旧態依然というのだろう。夕方研究室のobが訪ねてくる。一人は20000㎡くらいの病院を設計中。もう一人は8000㎡のオフィスビルの確認を出し終ったところ。荒木町で野菜鍋を食べる。

男建築・女建築

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by 卓 坂牛

建築の男性性vs女性性を考えている。きっかけは翻訳した『言葉と建築』にそういう章があったから。そして西洋建築はギリシア以来そういう評価の基準がある。言葉と建築で問題視しているのは建築形態である。例えばがっしりとして頑強そうな建築は男性的と言われ古来建築に必要な属性とされた。一方優美で華奢な建築は女性的であり、こちらはあまり評価されなかった。こういう形態の話とは別に、建築の使われ方の男女性について数年前ゼミで考えた。その時は日本の近代住宅が家父長制からその崩壊に合わせて平面が変わっているのに気が付いた。親父の居場所がなくなったというわけだ。つまり、その昔主人は書院で勉強をした、それが書斎になって応接になってついに無くなり、居間と言う名前になって主婦の居場所になったのである。つまり男から女のための作り方になった。というような変遷を西洋の住宅でも見つけられないかと考えた。後藤久『西洋住居史』彰国社2005は住居プランの変遷がエジプト時代から近代まで追いかけている。これを読むと男女性に関して二つのことが分かった。一つは古代エジプトにはハレムがあり中庭を挟んで一番奥に王の部屋があるが中庭の周りには10くらいの女性の部屋があること。二つ目は、古代には比較的小さな家、あるいは集合住宅のような一戸一戸こじんまりと住んでいたのが、中世から近世にかけて金持ちの家が出来彼らにとって応接の場所が重要になる。パーラーと呼ばれるこうした場所が邸宅の一番いいところに作られる。これが近代市民社会になると不要になり、家全体が比較的小さくなり、応接は居間へと変化する。モリスの赤い家などがその嚆矢かもしれない。西洋の住居史なんてあまり気にしたことが無かったが勉強になった。

小春日和

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by 卓 坂牛

昨日の雨とは打って変わっていい天気。ジョギンングしてオペラシティに行く。パントンの展覧会を見るつもりだったが、行ったらICCでもコープヒンメルブラウなどやっていていたのでまとめて全部見た。http://ofda.jp/column/。パントンの次の展覧会予定がセシル・バルモント。オープニングのレクチャーチケットを買ったのだがその日はセンター試験の監督で行けないことが後で分かった。ショック。今日は12月だが17度あり日差しも強い小春日和。新宿御苑の緑がまぶしい。たっぷり汗をかき帰宅後のシャワーが爽快。家族とランチをとりながら、レートショウの映画を誘ったが今日は家にいたいと断られた。
先日丸善から届いた本をはじから斜め読み。昨日来これと思った本以外は時間をかけないようにと心に誓う。原田泰『日本はなぜ貧しい人が多いのか』新潮選書2009。新潮選書は当たり外れが多い。この本もまあ興味深いが所詮それまで書いた原稿の寄せ集めなのでエッセイ集の域を出ない。著者は日本の地方の貧困を指摘したうえでその原因を探る。彼の指摘する格差原因の中で最もリアリティを感じるのは夫婦が共稼ぎするかどうかである。これは顕著である。年収が下手すると倍である。そしてこういう夫婦に限って子供を作らなかったりする。こうなると夫婦の可処分所得は夫だけ働き子供が二人の家族に比べると4倍くらいの差になる。本書掲載の統計値だと、40代より上の年齢層の夫婦では旦那の給与が上がれば妻は働かない傾向があるのだが、30代では逆で旦那の給与が上がると妻の働く率も上がるのである。これってつまり高学歴者は高学歴者とくっつくと言うことである。そしてこういう夫婦は地方に住む確立が低い。なぜなら地方に高学歴女性が高給で働く仕事が無いからだそうである。こうなると今後所得水準の高い世帯はますます都市に移動し、地方の貧困率が上がる可能性が高い。一体これはどうしたらいいものだろうか?
吉村仁『強い者は生き残れない―環境から考える新しい進化論』新潮選書2009。この本はタイトルがスポーツ新聞のようである。強い者は生き残れないという表現はおかしいのではなかろうか?強い者が必ずしも生き残るとは限らないというのが正確な書き方だと思う。八代嘉美『ips細胞』平凡新書2008を読み始める。評判の本だけあってこれはなかなか面白そうだが途中で夕飯。また明日。