On December 21, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		K.マイケル・ヘイズ『ポストヒューマニズムの建築』ではジェフリー・スコット『人間主義の建築』が文字通り批判的に読み込まれている。という内容のツィートをマイケル・ヘイズの翻訳者松畑さんから頂いた。そう言えばそうだろうなあと思いながら読み返してみた。ヘイズはハンネス・マイヤーとヒルベルザイマーを通して反ヒューマニズム的建築の読み込みを行いながら統合的で中心的な人間主体を放棄した建築の可能性、現代性を提示する。そこにおいてスコットはと言えば、人間主義を賞揚する過去の人として取り扱われることとなる。
	 
 
		
				
			
			
				On December 20, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		午前中事務所で打ち合わせ。午後一のアサマで大学へ。教員会議を終えてからゼミ。この時期のゼミは精神衛生上よくない。誤訳だらけの難解な哲学書を読まされるような状態である。自分もかつてこうだったのだとすれば先生には謝罪したい。
	 
 
		
				
			
			
				On December 19, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		 The Architecture of Humanism  ―A Study in the history of taste―  1914、本日脱稿。この作業2006年に始めたから4年まるまるかかったことになる。『言葉と建築』よりも時間がかかった。皆で3回ずつ読みなおししたからそのくらいかかるわけだ。でもとにかく終えた。香山先生曰く「今まで翻訳されていなかったことが信じられないくらい重要な本」なのです。来春にはSD選書となって本屋に並ぶことでしょう。ご期待ください。
	 
 
		
				
			
			
				On December 18, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		http://ofda.jp/column/ 。この周辺は巨大再開発の餌食となる予定地のようだ。日比谷パティオは既に消えてなくなっている。そして高橋コレクションが入居している三井のビルと隣の日生劇場も壊されると聞いている。このギャラリーも12月19日までの命だそうだ。四ツ谷に戻りジムで汗を流し帰宅。年賀状に着手。印刷は終えているので後はコメントを書きこむ。100枚くらい書いたら疲れた。宮崎学『近代ヤクザ肯定論』ちくま学芸文庫2010を読む。この人の本はかつて『突破物』というのを読んだことがあったようなないような??忘れてしまった。
	 
 
		
				
			
			
				On December 17, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		朝一でゼミ。今日の輪読本は土屋淳二『モードの社会学』。ファッションの社会学的分析では成実弘至の著書は定評があるが、それらはトピカルな話題をその都度フィーチャーしており初心者向けではない。一方土屋さんのこの本は上下巻あり体系立っておりやや生真面目だが、学生にきちんとした用語の定義から学んでもらうには好著だと思う。特にファッション、モードという概念を過去の使用例から正確に定義づけており、これらを建築分析に借用する場合も誤解を生まない。
	 
 
		
				
			
			
				On December 16, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		
	 
 
		
				
			
			
				On December 16, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		
	 
 
		
				
			
			
				On December 14, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		この季節になると恒例の大学業務の自己評価申告書というのを書く。事細かに自分のやったことを書いて規定の点数を入れていく。そうすると簡単に合計点が出てそのエクセルシートがあなたの価値になる。民間企業ならこの自己申告書をもとに上司とコミュニケーションして「おまえはそう言うけれど認めない」とか「なかなか良くやった」とか査定されていくのだろうが、大学では(おそらくどこの大学でも)そういうフィードバックは行われない。そうなってしまうのには二つの理由がある。一つは大学と言う場所が近年ますます組織的なヒエラルキーを排除したことにある。つまり誰かが誰かの上にたって下の人間を評価するという仕組みが消滅しつつあるからだ。次によしんば上下関係が残存している場所でも、学問の専門化は他人の領域をブラックボックス化させている。つまり人の仕事の内容について量を超えて質を評価することは難しくなりつつある。こうなると評価の基準は客観性を唯一保てる数が頼りとなる。論文何本書いたか?学会の役職をいくつやったか?学内の委員をいくつこなしたか?企業の研究費をいくらもらったか?ということがその人の価値とならざるを得ない。大学と言うところに来た時そのことには少々驚いたが、気楽なものだとも思った。企業の営業棒グラフみたいなものでノルマをこなせ契約取ってこい!!というのに近い。とは言え研究って数値だけに還元できないだろうからこんな状態だとちょっと危ないよなあとも感じるのである。
	 
 
		
				
			
			
				On December 14, 2010 
				by 卓 坂牛  
			 
		 
		その昔サントリー学芸賞を受賞した『アフターアメリカ』という本を読んで保守やリベラルを超えたアメリカの姿にちょっと希望を持った記憶がある。その同じ著者の『アメリカン・デモクラシーの逆説』岩波新書2010を読んでみた。あとがきにこんなことが書いてあった。ブッシュ政権で国務長官を務めたコリン・パウエルが2008年の大統領選の最中「オバマはイスラム教徒である」と吹聴する共和党の一部を戒めて次のようなことを言った。オバマはイスラム教徒かと聞かれたら、キリスト教徒というのが正解だけれど、もしイスラム教徒だとして何か問題があるのか?答えは否。アメリカではそんなことが問題であるはずがない。これを読んで日本にこうした決然とした態度をとれる政治家がいるだろうかと考えてしまった。党派性に縛られることなく自立した発想を持てる政治家である。数日前に話題にした吉本隆明の思想はこれに近いものがあるのだが、よく考えてみると今の日本でこういう発言は政治家向きではない。日本にはこういう発言をできる政治家がいないと嘆いても無意味なのかもしれない。なぜなら日本とはこういう発言が効果的に政治を動かせる構造を持たない国だからである。
	 
 
		
				
			
			
				On December 13, 2010 
				by 卓 坂牛