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Dec 2010

ポストヒューマニズムの「ヒューマニズム」建築について

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by 卓 坂牛

K.マイケル・ヘイズ『ポストヒューマニズムの建築』ではジェフリー・スコット『人間主義の建築』が文字通り批判的に読み込まれている。という内容のツィートをマイケル・ヘイズの翻訳者松畑さんから頂いた。そう言えばそうだろうなあと思いながら読み返してみた。ヘイズはハンネス・マイヤーとヒルベルザイマーを通して反ヒューマニズム的建築の読み込みを行いながら統合的で中心的な人間主体を放棄した建築の可能性、現代性を提示する。そこにおいてスコットはと言えば、人間主義を賞揚する過去の人として取り扱われることとなる。
さて「ヒューマニズム建築」という言葉はあちこちで耳にするものの一体その語の意味合いとはいかなるものか?体系的に書き連ねることなどできないが少なくとも二つの書を整理すれば恐らく3つくらいの意味が読み込める。
1) 哲学的な言説と呼応する意味で「確固とした人間主体が計画した建築」(そこには人間精神のバランスと合致した統合的な姿が現れる)
2) スコットが説明するところの「人間と同一視され得る建築」(そこには人体が持つ比例関係が投影された古典主義的な姿が現れる)
3) これもスコットが説明するところのもので「人間が感情移入できる建築」(これは建築受容の側面から分析された考え方であり建築の姿を規定はしない。ただし人間の感情移入を誘引するためには建築自体が2)で示したようなアンソロポモロフィック(人体同形)であることはその可能性を高めることなる)
さてこんな整理をしてみたのは、昨今作品選奨の審査で1)を否定するような反ヒューマニズム建築と2)3)を賞揚するようなヒューマニズム建築を見せていただいたように感じ、その感じ方を整理してみたかったからである。しかし整理しながら思い返してみると、それらの建築の良さはどうもそうした差によって明確になるそれぞれの性格の中にあるというよりは、むしろそれらが共有する特質の中にあるのではと感じるのである。ではそれは一体何なのか?するとどうもここにまた人間が登場する。それは「人間を疎外しない」とでも言えるような性格である。最近の建築はどんなにとんがったデザインをしながらもどうもこの点を外していない場合が多い。人間が何らかの意味でデザインの支配的な部分にいる。その意味で昨今の建築はポストヒューマニズムの「ヒューマニズム」建築と呼べるようなものなのかもしれないとふと思うのである

ヤクザにも歴史あり

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by 卓 坂牛

午前中事務所で打ち合わせ。午後一のアサマで大学へ。教員会議を終えてからゼミ。この時期のゼミは精神衛生上よくない。誤訳だらけの難解な哲学書を読まされるような状態である。自分もかつてこうだったのだとすれば先生には謝罪したい。
夜のアサマで帰京。車中『近代ヤクザ肯定論―山口組の90年―』を読み続ける。山口組の歴史は神戸に出て仲士を始めた淡路島出身の山口春吉(一代目)に始まる。仲士に必要な連帯感と体力に長けた彼はあっという間に仲士のボスに見込まれた。そもそも仲士の仕事は義理と人情が不可欠でありヤクザの世界と密接に結びついていた。よって春吉も必然的にその世界に入っていったわけである。それからはまさに、あれよあれよと山口組の日本制覇が始まるが、しかし、忘れてはならないのは山口組とて日本の底辺労働者の構成要素であったということ。彼らが下層労働者の階級闘争の一翼をも担っていたこと。加えて無法状態に近い日本の戦後の警察力を補強もしていたこと。などなど。つまり民衆の側にも権力の側にもつきながら社会の誰もやれないできないことを担っていたのがヤクザだったということだ。もちろんここに書かれていることの裏をとるなんていう芸当はできないけれど、宮崎学の血統からしてこの内容の概略は間違っていない。やはり歴史は知っていないとまずいな。今起こっていることには皆歴史ありということだ。表層だけ見て騒ぐのは余りに愚か。

やっと脱稿ー4年かかった

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by 卓 坂牛

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やっと終わった。A0勉強会で翻訳中だったGeoffrey Scott The Architecture of Humanism ―A Study in the history of taste― 1914、本日脱稿。この作業2006年に始めたから4年まるまるかかったことになる。『言葉と建築』よりも時間がかかった。皆で3回ずつ読みなおししたからそのくらいかかるわけだ。でもとにかく終えた。香山先生曰く「今まで翻訳されていなかったことが信じられないくらい重要な本」なのです。来春にはSD選書となって本屋に並ぶことでしょう。ご期待ください。
さて次は何にとりかかるか。この不思議な集団は増えたり減ったりしながらでも粛々とこんな作業をずっとしていければ嬉しい限り。

高橋コレクションも今年限り

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by 卓 坂牛

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午前中明日の勉強会の原稿をチェック。終わって修論の梗概に赤入れ。飯を挟んでさらに赤入れ。数年前から6ページまで許容されたせいか文章が冗長になってきた。6ページ使って6ページ分の内容がない。午後日比谷の高橋コレクションを覗く。日比谷のオフィス街から一歩入ると現代アートのカオスが突如現れる。このギャップは楽しいhttp://ofda.jp/column/。この周辺は巨大再開発の餌食となる予定地のようだ。日比谷パティオは既に消えてなくなっている。そして高橋コレクションが入居している三井のビルと隣の日生劇場も壊されると聞いている。このギャラリーも12月19日までの命だそうだ。四ツ谷に戻りジムで汗を流し帰宅。年賀状に着手。印刷は終えているので後はコメントを書きこむ。100枚くらい書いたら疲れた。宮崎学『近代ヤクザ肯定論』ちくま学芸文庫2010を読む。この人の本はかつて『突破物』というのを読んだことがあったようなないような??忘れてしまった。

多様性を包容

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by 卓 坂牛

朝一でゼミ。今日の輪読本は土屋淳二『モードの社会学』。ファッションの社会学的分析では成実弘至の著書は定評があるが、それらはトピカルな話題をその都度フィーチャーしており初心者向けではない。一方土屋さんのこの本は上下巻あり体系立っておりやや生真面目だが、学生にきちんとした用語の定義から学んでもらうには好著だと思う。特にファッション、モードという概念を過去の使用例から正確に定義づけており、これらを建築分析に借用する場合も誤解を生まない。
午後製図。今年の2年生は昨年に比べるとややデザインの意欲が希薄なようにも感じていたけれど二つ目の課題ともなるとエスキスの会話も徐々に深みが増してきたようにも思う。特にデザイン論で講義しているものの見方や概念が応用されるのを聞くと少し嬉しくなる。
夜のアサマで帰宅。車中読みかけ渡辺靖『アメリカン・デモクラシーの逆説』を読む。著者はアメリカの陽気で公平で自立的な側面を好ましく思う一方でそうしたアメリカがいつでも山積みの問題を抱え右往左往する姿にジレンマを見る。オバマがあれだけ多くの支持を得て大統領になりながらその政治信頼度は戦後最低になってしまうのはどうしてなのだろうか?もちろん実態として数字の上でアメリカが豊かになれていないという事実はある。しかしではブッシュのようなアメリカに戻る方が正しいことなのだろうか?常にカウンターパートが様々な形で登場して強い方向性を打ち消していくのが最近のアメリカなのだろうか?まあそれを言えば日本も同じようなものなのだが。多様性を包容するということはとても難しいことだろうがそれを諦めてはいけない。

クライスラーの工場がコンヴァージョンされて集住へ

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by 卓 坂牛

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午前中のアサマで大学へ。駅から自転車で大学へ向かう途中でばったりアルゼンチン留学から戻った香川君と会う。1年近く会わなかったけれどアルゼンチンに行ったのがつい昨日のように思えてくる。ロベルトから預かったという本を貰う。この本Buenos Aires Ayer y Hoy 英語で言えばBuenos Aires now and then ブエノス・アイレスの今と昔が見開きの両側に掲載されて説明がついている。ペラペラめくっているとこんな面白い写真発見。左側の写真は20世紀初頭でクライスラーの工場・オフィス。競輪場みたいな楕円のバンクは走行試験コース。その建物が20世紀後半に集合住宅と商業のコンプレックスにコンヴァージョンされた。結構大胆な変化である。敷地はラテンアメリカ美術館のすぐわきで僕も何度となくこの前は通ったことがあるが、こんな楕円の中庭があるとは知る由もない。

responsive architecture

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by 卓 坂牛

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一日事務所で打ち合わせ。年内に塩山現場仕上げ未決事項を決定したく荒探し。一方、「周辺と呼応する建築(responsive architecture)」スタディは粛々と進む。こういうスタディは仕事の谷間に蓄積しておかないと。仕事が来てからでは手遅れで、、、

自己評価申告書の緩さ

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by 卓 坂牛

この季節になると恒例の大学業務の自己評価申告書というのを書く。事細かに自分のやったことを書いて規定の点数を入れていく。そうすると簡単に合計点が出てそのエクセルシートがあなたの価値になる。民間企業ならこの自己申告書をもとに上司とコミュニケーションして「おまえはそう言うけれど認めない」とか「なかなか良くやった」とか査定されていくのだろうが、大学では(おそらくどこの大学でも)そういうフィードバックは行われない。そうなってしまうのには二つの理由がある。一つは大学と言う場所が近年ますます組織的なヒエラルキーを排除したことにある。つまり誰かが誰かの上にたって下の人間を評価するという仕組みが消滅しつつあるからだ。次によしんば上下関係が残存している場所でも、学問の専門化は他人の領域をブラックボックス化させている。つまり人の仕事の内容について量を超えて質を評価することは難しくなりつつある。こうなると評価の基準は客観性を唯一保てる数が頼りとなる。論文何本書いたか?学会の役職をいくつやったか?学内の委員をいくつこなしたか?企業の研究費をいくらもらったか?ということがその人の価値とならざるを得ない。大学と言うところに来た時そのことには少々驚いたが、気楽なものだとも思った。企業の営業棒グラフみたいなものでノルマをこなせ契約取ってこい!!というのに近い。とは言え研究って数値だけに還元できないだろうからこんな状態だとちょっと危ないよなあとも感じるのである。

自立の思想

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by 卓 坂牛

その昔サントリー学芸賞を受賞した『アフターアメリカ』という本を読んで保守やリベラルを超えたアメリカの姿にちょっと希望を持った記憶がある。その同じ著者の『アメリカン・デモクラシーの逆説』岩波新書2010を読んでみた。あとがきにこんなことが書いてあった。ブッシュ政権で国務長官を務めたコリン・パウエルが2008年の大統領選の最中「オバマはイスラム教徒である」と吹聴する共和党の一部を戒めて次のようなことを言った。オバマはイスラム教徒かと聞かれたら、キリスト教徒というのが正解だけれど、もしイスラム教徒だとして何か問題があるのか?答えは否。アメリカではそんなことが問題であるはずがない。これを読んで日本にこうした決然とした態度をとれる政治家がいるだろうかと考えてしまった。党派性に縛られることなく自立した発想を持てる政治家である。数日前に話題にした吉本隆明の思想はこれに近いものがあるのだが、よく考えてみると今の日本でこういう発言は政治家向きではない。日本にはこういう発言をできる政治家がいないと嘆いても無意味なのかもしれない。なぜなら日本とはこういう発言が効果的に政治を動かせる構造を持たない国だからである。

6軒長屋

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by 卓 坂牛

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午後ジムに寄ってから伊藤君のオープンハウスに行く。笹塚から歩いて7~8分だが案内を忘れてきた。スマートフォンのGPSおかげで苦も無く着いた。便利だなあ。建物は200㎡に6軒入った長屋である。高度斜線の影響で家型が双子のようにくっついた形。層毎に世帯を分けると下層階の環境が悪くなるので1階と3階をつなぐなどなかなかアクロバティックな構成になっている。外装のクロス入りモルタルがいい風合いである。
夕刻八潮先生ズたちとの打ち合わせ。公園設計の方針は決定して年度内基本設計そして来年度実施設計となる。どこでデザインの詳細検討を挟み込むかがポイントである。3月4月が山だろうか?その後浅草で忘年会。去年も来たえびす丸。去年はすっぽん。今年はあんこうである。