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Jan 2011

稲葉なおと『ゼロマイル』

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by 卓 坂牛

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大学の同級生で作家となった稲葉なおとの『ゼロマイル』という単行本が最近小学館から文庫本になって売り出されたそうだ。しかも解説をあの重松清が書いているという。そこで新宿に行ったついでに紀伊国屋で買うことにした。小学館文庫のコーナーに行ってあいうえお順に並んだ作家名を目で追いかけた。あ行の最後にいるはずなのだが見つからない。コンピューター検索すると在庫ありと出てくるのでお店の人に聞いた。すると書架を探すでもなくこれですかと手にとって渡してくれた。なんと平積みではないか。すごい。驚き。えらい。そばのカフェで小一時間読んでみる。おおおお面白い。彼は物書きであると同時に写真家でもあり、その写真家としての自分の内面と家族への愛が重なって描かれている。
重松さんの解説にこんなことが書かれている。この小説は写真家の父と小学校2年生の息子がマイアミを旅する話なのだが、親と息子の二人旅は父親ならだれもが夢見ることであり、そして多くはそのチャンスを逃す。だからこそこうして小説の題材として魅力的なのだと。そして娘しかいない父(重松さんも僕もそうである)にとっては見果てぬ夢というわけである。そうである。こんな小さなかわいい息子がいたらなあと思うことしきり。

動物と共生

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by 卓 坂牛

午前中かみさんが出かけるというので一緒に家を出て森美術館へ。4回来れば元がとれるというので友の会の会員になる。国立新美術館なんかだとちょっと俗な企画が多いのだが、ここは当たり外れが少ないので4回は来るだろう。
午後は家で雑用、早稲田のシラバス書き直し。最近シラバスはどこでも毎年修正以来が来る。大した作業じゃないし、授業を見直すにはいい機会ではあるが。その後ユルギス・バルトルシャイティス(Baltrusaitis, J)馬杉宗夫訳『異形のロマネスク』(1986)2009 の装飾図を見る。「ああ人間は動物や植物とこれほどまでに仲良しだったのだなあ」と思う。われわれの周りに、動物は動物園にしかいない(ペットは別だけれど)し、たまに話題になる動物は常に迷惑もの。もう少し共生する社会にしないとなあ。夜は東京にいる建築の先生たちと新年会。さあ今年もがんばりましょう。

北村movementを楽しむ

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by 卓 坂牛

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北村明子さんのダンスを見にかみさんと鎌倉近代美術館へ。鶴岡八幡宮はすごい人出。参道が動けない。着いたのが2時40分。3時までHITO展を見る。ムサビ名誉教授の麻生三郎という素敵な画家を知る。ペンのラインと色が好みだ。3時ころ1階の彫刻室で最初のダンスが始まる。北村さんとインドネシアのマルチナス・ミロト氏の対話的なダンスである。崩れ落ちるような、体を不自然に捻るような、そんな北村movementが随所に表れていた。対話といいつつミロト氏のジャワ的な動きはむしろ北村さんの動きを無視し意図的に勝手に動いているようにも見える。それに対してそれを追いかけるようなあるいは先回りするような北村さんの動きが興味深い。第二部は場所を少し変えて大谷石の壁に映像を映しながらその前で行われる。ミロト氏はジャワの踊りを始め何事かインドネシア語で語り始める。北村さんはインドネシア語は分からないと言いながら日本語で今回のダンスの作成プロセスを語り始める。このインドネシア語と日本語の語りがどんな関係にあるのか見ているものは分からない。謎かけのようである。その関係が三部の踊りにも現れる。一体二人の動きには関係があるのかそんなことはどうでもよいことなのか。
会場で研究室のOB山田君に会った。9月からシリアに留学するとのこと。頑張れよ!鶴岡八幡を回りあんみつ食べて帰宅。車中上野千鶴子の以前読んだ『おひとりさまの老後』をぺらぺらめくる。『世代間連帯』で何度も登場した本なので来る時本棚から抜き出してきた。これを読むと、やはり未婚でいるのはその人の生き方の選択。それをどうのこうの言いたくはない。その中で無縁社会を回避するにはどうするべきか?と考えるの筋である。

ルーズ縁社会

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by 卓 坂牛

去年の初めに「無縁社会~‘‘無縁死‘‘3万2千人の衝撃~」というNHKスペシャルがあったそうだ。結構な反響があったようで、本になったので読んでみた。NHK取材班編『無縁社会』文藝春秋2010。無縁社会とは文字通り、地縁、血縁、社縁などの「縁」がなくなった社会てある。そこで人々は最終的には行旅死亡人(こうりょうしぼうにん)となって官報にのって無縁仏専用墓地に葬られるという寂しい世界がルポされている。
もちろんこうした問題は孤独死に代表されるような老人に限ったことではない。未婚率が上がる現在、30代40代にその予備軍が確実に生産されているという。本誌に掲載されていた生涯未婚率の推移グラフを見て目が点になった。2010年現在生涯未婚率は男性19%女性10%である。これが20年後の2030年には男は30%、約3人に一人、女は23%4人に一人が生涯未婚なのだそうだ。もちろん独身でいることは個人の生き方の選択でありそれ自体が問題視されるべきではないが、未婚でいる理由がその人の意志でないとるするならば考えものだ。
本誌によれば未婚男性が増加する理由は4つあるという。
① コンビニなどの増加で一人で住まうことの不便さが減少した。
② 非正規労働が増え結婚する経済力がつかなくなった。
③ 結婚年齢の社会規範がなくなった
④ 女性の経済力が増加し女性に結婚する必然がなくなった。
これらの理由を見ると。個人の意志とはうらはらにという感じである。そして職が不安定ということは明らかに政治の問題である。となれば未婚率の上昇は単に個人の意識の変化として見過ごしていいことではない。
さらにもう一言加えればこれら4つの理由のうち二つは「夫パラサイト妻という旧態依然とした社会状況を前提とした理由である。そんな社会の枠組みを先ずさっさと取り換えなければいけないのだろうと思う。
縁で縛られる社会は、それはそれで息苦しいけれど、無縁は無縁で寒々しい。いい加減な繋がりというのが一番いい、ルーズ縁である。こんな無縁状態の危機感が一昨日に取り上げた『世代間連帯』を生んでもいる。

詩人のように人間は住まう

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by 卓 坂牛

朝から大雪。長野は今年一番の寒さだそうだ。でも雪が降るとそれほど寒さは感じない。朝早く研究室行って、あっちの原稿校正し、こっちの原稿送って、ゼミ本(井上章一『伊勢神宮』)の説明して(と言っても酔っぱらって無くしたので半分しか読んでいない)それから講義。昼は生協のサンドイッチを立ち食いして来客と打ち合わせ。結構重要な話なのだが40分でなんとか終える。午後製図エスキス。これ最終回。あとは講評会。今年は去年に比べ詰めが一つ甘いかなあ?
6時台のあさまに飛び乗る。車中ハイデガーの「詩人のように人間は住まう」(ハイデガー、オルテガ、ベゲラー、アドルノ伊東哲夫、水田一征訳『哲学者の語る建築』中央公論美術出版2008所収)を読む。タイトル「詩人のように人間は住まう」とはヘルダーリンの詩の一節でありハイデガーはそれを読み込む。もちろんキーは「詩人のように」の部分である。曰く「人間の本性とその広がりを測る拠り所となる尺度を受け取るということ」。それを僕が勝手に解釈するなら、動物が巣の中で生きるのと異なり、人間は自らの欲求のままに生きることはしない。排泄はトイレで行うし、食事は横たわっては行わない。つまり人間はおのれの本性と人間化された慣習の狭間で生きているそれが住まうという人間化された状態なのである。しかるに人間化はどこかで息詰まる。どこかで本性に即して生きて行きたくなる。そして想像にふけり自らの動物状態を思い描く。そしてその動物状態と人間化の臨界点を見極め(人間の本性の広がりを測る拠り所を受け取り)ながら人間は住まう。この観察に僕は賛成である。角窓の家を設計した時に住人が炬燵に足を突っ込んで皆が十字に寝っ転がれるような無法地帯、動物的な状態が設計のイメージの中央にあった。そしてそんな無法地帯を住まうという人間化された状態にする作業をしていた。それはまさにこんな臨界点を探すことだったのではないかと思う。
僕の勝手なハイデガー解釈である。全然違うことなのかもしれないが、それならそれでこれは僕の考えである。

普通の国ニッポン

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by 卓 坂牛

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クローバー型枠のコンクリートも無事打ち上がった
午前中あずさで甲府の現場へ。残りは外構。午後塩山の現場。躯体が打ち終わって上棟。さて残り2.5カ月で仕上がるか?定例が終わると真っ暗。温度も急激に下がる。ああこのまま長野に行くのは凍え死に行くようなものだと思いつつ、あずさで松本経由長野。案の定、長野は=3度。駅で夕食をとり少々アルコールも入れてマンションへ。暖房をつけっぱなしでベッドへ。寒さのせいか夜中腹痛で目覚め、正露丸を飲んで耐え忍ぶ。
長野へ来る車中読んでいた上野千鶴子、辻本清美『世代間連帯』を思い出す。あまり政治の話に強くない僕は常にノンポリを決め込んでいるのだが、久しぶりに文句言うべきところは言わないと世の中住みにくくなり続けるという危機意識を煽られた。
彼女らに強く同意するのは日本はもはや大国ではないという自国の認識。そしてそうであるにもかかわらず、60代以上の政治家や財界のオヤジたちは(経済)大国という幻想としての日本を忘れられないでいるという認識のずれ。(経済)大国という幻想を捨て(経済)普通の国ニッポンとなった時に僕らが目指すのは普通の幸せである。
2001年に大塚英志が『中央公論』誌上で公募した「私たちが書く憲法前文」の優秀賞に次のようの文章があったそうだ。
全くもってタイシタコトのない/世界的に見てソコソコの国がいい。(略)
世界なんていう単位で/立派で一番!になる必要はあるのか。/私たちから見て一番幸せになれる国。/そうなる必要は大いに/有。
景気ばっかりよくって/高ーい車買って/宝石ジャラジャラつけたくって/そんな/目や手や/そんな物で感じる幸せは/ソコソコあれば十分。/タイシタコトナイ平凡な国がいい。/穏やかに過ぎる時に/心で幸せを感じられるから。(略 )
上野は審査員の一人で1こんな文章に驚き感動したそうだ。これを書いたのは17歳の女子高校生。娘と同年齢である。どう思うか聞いてみたい。

デザインの明日は誰が何をするのか?

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by 卓 坂牛

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久しぶりのホタルイカ。学生さんたちがちょくちょく見学に来ているらしい。
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プライベート写真を載せてしまいました。ごめんなさいね。同期のN君です。
新年事務所の仕事始め。新しくやる仕事の打ち合わせ。明日の現場定例の打ち合わせなど。今年もいい仕事をしたい。大学に送る原稿のチェックなどして夕刻日建の同期との新年会。場所はホタルイカ。久しぶりに自分の設計したレストランでの会食。できて5年くらいたったがきれいに使われていて嬉しい。日建同期のYとNが執行役員になったのをお祝いしての新年会だったがYは忙しくてこられなかった。同世代が活躍しているのは嬉しいものである。Nは中学、高校、大学、会社とずっと一緒だった仲である。おめでとう。しかし彼も心配していたが、建設業界は今後どうなることやら?もう量を得る時代は終わった。これからは質を問う時代である。では今後質とは何か?恐らくその一つはグローバルなテーマであるところのサステナビリティである。そしてもう一つは人間の本能であるところの何か。金とか経済原理では代えられない何かである。日建は前者を突き進むしかない。一方で人間の本能の部分は僕のやるテーマである。さてどちらが長持ちするだろうか?

ETHの教科書の凄み

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by 卓 坂牛

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大学仕事始め。朝一で大学へ。教室会議を終えて午後は赤を入れた4年の梗概を渡す。4年の梗概に毎年見られる悲しい事実。
① 自分の意見と人の意見がごちゃごちゃ(小学校の作文で教えることだと思うが)
② ろくすっぽ調べていないのに断定する(中学生の社会科のレポートで注意される内容)
③ 自分だけ分かった気になっている(これも中学生くらいで注意されることだな)
書かれている内容と目指す志は大学生だが文章のレベルは小学生である。まあ今年に始まったことではないし、この大学だけの問題だとも思わないけれど。
夕方事務所に戻り先日届いた本を開く。平瀬君に教えてもらったETHの教科書である。タイトルはConstructing Architecture materials processes structures a handbook
出版社はBirkhauser である。
アマゾンで注文した時はまあ新建築くらいのヴォリュームと思っていたのだが届いたら電話帳である。Hand bookなのだからまあそいうものかもしれないのだが、内容は単なる事例集ではない。タイトルが示す通り建築をいかにconstructするかが丁寧に記されている。まずは材料。組石、コンクリート、木、鉄、断熱材、ガラス。次に部位ごとの説明。基礎、ファサード、開口、床、屋根、階段。次に構造。そしてやっと建物事例が出てくる。それで終わると思いきや最後にその図面の描き方がまた部位ごとに説明される。
これは教科書としてはパーフェクトである。こんな教科書を使ってみたいものである。でもこれを日本の大学のどの時間に誰が教えるべきなのだろうか?そもそもこんな教材がないということはおいておいて、日本では学部時代はかなり総合的な教育をさせている。だからもうこれ以上カリキュラムに何か新しいことを入れ込む余地はないのである。先ずはそこを変えたいところである。やはりどこかの大学のように建築学部ができれば少しは変わるのかもしれない。しかしそれは何時のことやら。隣の芝生を羨ましがっても仕方ない。そうなると残るは院の教育をそれぞれ専門化させることが考えられる。しかるにその場合講義数だけが教員に比例せず増えていくことになり教えられる先生がいなくなる。恵まれた国立大学の余裕のある先生にしかできない芸当である。やれやれ、、、。

仕事は何のためにするのか?

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by 卓 坂牛

年末年始は好き勝手に過ごしていたので、今日はプロジェクトの資料読んだり、学生の梗概チェックしたり、仕事モードに頭を切り替え中。夕方風呂に入りながら上野千鶴子、辻本清美『世代間連帯』岩波新書2009を読む。年収300万というのが妥当な数字だと言わんばかりの二人の論調。上野は言う「年収三00万だと「それじゃ、結婚もできないし、子供も持てない」という人がいますが、そんなことを言うのは、たいがい男。自分ひとりで家族を養おうと思わずに、同じ年収水準の女性と結婚して共働きすれば、合わせて六00万になる、、、」この上野の言うことは至極もっとも。少なくとも設計やりたいなんて言う人は男も女もこう考えないと話にならない。でも疑問を抱く人も多かろう。僕も大学で就職の相談など受けているとそう思うときがある。金を右から左に動かして3000万稼ぐ人と殆ど同じような家庭環境で、同じような教育を受けたのに、たまたま選んだ職業がマックのバイトより儲からないなんてどいうことだと感じる。でも10倍稼いでいる人が10倍幸福かと言うとそんなことはないのである。本当に幸せで本当に楽しいということは何なのか若い人にはなかなか分からない。そしてみな早まってつまらぬ会社でつまらぬことをする。お金などそんなつまらぬことの代償にはならないのに。

エロティシズム

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by 卓 坂牛

エロティシズムをテーマにして卒計を作っている学部生がいるので再度バタイユを読み直したり新たに読んだりしてみた。ジョルジュ・バタイユ、酒井健訳『エロティシズム』(1957)2004ちくま学芸文庫、『純然たる幸福』所収のエロティシズム関連の論考(1955~1957)2009ちくま学芸文庫、森本和夫訳『エロスの涙』(1961)2001ちくま学芸文庫、湯浅博雄『バタイユ』講談社1997。
人間は動物同様の欲求を持っている。しかしその欲求を動物と同様の形で表現するのに嫌悪を抱いた。そこで動物との差別化を図ろうとした。そのため人間は欲求を一度ため込み簡単に外に表出しなかった。それが人間化であるとバタイユは言う。しかし人間はこのため込み=人間化という名の禁止行為を再度拒否しようとした。禁止を乗り越え、ためこんだ欲求を露わにしようとした。それが欲望であり、バタイユの言葉でいえば「侵犯」である。そして人間はこの侵犯を人間たらしめるために理屈を捏ねて洗練した。味を楽しむために食べ、健康を維持するために眠り、愛の表現するために性行為を行った。さてここまでがバタイユの考えである。しかしこの侵犯は人間を人間たらしめる方向のみに行われるわけでもないように思うのである。ここからは僕の考えである。人間を再度動物に引き戻そうとする欲望もありそうである。人間を適度に動物化させる方向。そういうことの方がこれからの時代のエロティシズムという気もするのだが。どうだろうか?