On
by 卓 坂牛
小沢征爾、村上春樹『小沢征爾さんと音楽について話をする』新潮社2011を読むと村上春樹の音楽マニアぶりがよく分かる。おそらくとんでもない量のクラシックレコードを持っているのだろう。そんな村上のレコードを聞きながらこの本は始まる。最初はベートベンのピアノコンチェルト3番である。バーンスタイン+グールド、カラヤン+グールドのレコードを聞き比べ2人で議論が行われる。
小沢征爾はカラヤンに習い、バーンスタインのアシスタントをしていたので両方よく知っている。そして師であるカラヤンを心から尊敬し、カラヤンを称賛する。しかし僕はどうもカラヤンが分からない。一般にカラヤンの演奏は軽いと言われる。
その昔小学生の頃モーツァルトの主要交響曲のセットをフルトヴェングラー指揮で買うと宣言したら芸術好きの叔母さんが聞きに来ると言って楽しみにしていた。ところが何の理由か忘れたが買ったのはフルトヴェングラーではなくカラヤン。それを叔母さんに告げたらそれには何の興味も無いので行かないと言われた。子供心にショックであり、何故かと音を聞きながら考えたが小学生の耳にはよく分からなかった。それ以来カラヤンはなんとなく僕の中で????の人にとし保存されてしまった。
さて小沢はカラヤンとバーンスタインを聞き比べながらカラヤンの決定的な特徴の一つを「長いフレーズのディレクション」だと言った。それは細かなアンサンブルを犠牲にしても長いフレーズの一本の線を大事にすることだと言うのである。
これを読んでなんとなく小学校の頃の叔母のカラヤンへの無関心が思い出された。長いフレーズのディレクションとは音楽の大きな構成要素のことであろう。建築とパラフレーズすることもできる。すなわち建築の大きな骨格、構成を大事にするということである。エスキスの情景を思い浮かべるなら、スタッフがちまちま書いたスケッチの上にボスがマジックでバシッと一本(あるいは数本)の線を書いてしまうあれである。僕もよくやられた。太い色鉛筆か4Bでバシッと数本の線を描かれた記憶がある。あれはまさに全体を決める骨格のディレクション。混乱したスケッチにあれは大事かつ有効な指導である。特に学生に対してはそうだ。しかしよく考えられたスケッチの上にあれをやってはいけない。込められた様々な思いがバシッと飛散するからである。構成や輪郭だけが優先されて局部に込められた熱がはじけ飛んでしまう。
カラヤンが軽いと言われるのはディレクションを優先させた建築同様、曲の骨格や構成ばかりが勝ってしまい、音の中に込められた無限の豊かさが犠牲にされているからなのでは?とふと思った。
On
by 卓 坂牛
ピタゴラスイッチなどで有名な佐藤雅彦の『考えの整頓』暮しの手帖社 2011は佐藤の日常の心に引っかかることが書かれている。この本ちょっと変っている。ふつうエッセイのようなものは普段の暮らしの発見をうまく脚色して鮮やかにきれいに小気味よく書いてしまうのだが、そう言う技巧が全部省かれてだらだらと書かれている。下手するとそのひっかかることが一体何なのと思うようなところもある。
「引っかかる」ということは、何かの発見ではない、何かに気付くということでもない。あれっ何だろうと思ったことがどうも上手く理解できないそんな心の状態である。
つまり本人でさえよく分からないことなのだ。そんなものだから読んでいる人間もなんだかよく分からない。でもそれを著者といっしょになってどの切り口で考えてみたらいいのだろうかということをのらりくらり探るのである。彼の思考の過程がそのまま字になっているような書き方である。こののらりくらりは彼独特のものかもしれない。だからあの不思議なヴィジュアルソリューションがうまれるのだろう。
On
by 卓 坂牛
『一般意志2.0』を読んだので藤村龍至編『アーキテクト2.0』彰国社2011を読んでみる。藤村氏が情報化時代の建築、郊外化時代の建築について20名近い建築家と対談している。その中で2つの話が面白かった。
伊東さんは20世紀の建築ではあまり意識されなかった人間のプリミティブな行為:食べる、着る、住むが21世紀の建築では強く意識されるようになったという。それは先日クラウド時代の建築は人間の実存を強く意識するはずだと言う僕の考えにつながる。ヴァーチャルとリアルの二つの身体性を持つ現代人にとってイマココのワタシの空間が現実の現実たる根拠となるだろうというのが僕の読みである。伊東さんのプリミティブな行為はそうした実存を強く意識する契機になりやすいことなのだと思う。
もう一つは藤村さんの説明するツィッター。140字だから投稿が増えるという話。とても簡単な仕組みが大きな効果を生みだす。それが情報化時代の特徴だそうだ。なぜだろうか?それは情報空間とはマスが瞬時にアクセスする場所だからである。
単純に二つを足すとプリミティブな行為を意識する場所を簡単な仕組みで作ると言うことになる。重要なことである。
On
by 卓 坂牛
父の家打合せ。1時から5時半まで。大学に行かねばならずスタッフを置いて中座。6時から理科大非常勤講師懇親会。久しぶりに和田先生、寺本さんにお会いした。和田先生は非常勤をお願いしていて、寺本さんは非常勤教授である。2人ともお元気そうである。和田先生は僕が大学4年のころに日建から戻ってこられた。寺本さんは僕が意匠設計をしたアクアライン風の塔の構造設計を終えた頃日建をやめて理科大に来られた。理工学部には10年近く前に日建をやめて教授に就任した北村さんがいる。僕も入れると4人が日建OBである。
On
by 卓 坂牛
明日の打合せ図面をチェックしていたら決まっていないことがいろいろあって一つずつ考えていたら結構時間がかかった。夕方大学に行き、輪読本西村清和『現代アートの哲学』の説明をし、1時間設計の課題を与える。今日はHOUSE SAを料理する。この複雑な構成を変化させる力は4年生には無いのでアクソメを描けというシンプルな課題を出す。九段から神楽へ移動し製図エスキス。さあ残り一週間。
昨日『一般意志2.0』の読後感を書いたら、コメントをいただいた。巷の「2.0」系の話は「平均」を作る活動だと。なるほど確かに。僕が恐れた建築計画2.0(藤村さんの言う建築家2.0ではなく)も建築を平均値へ誘うクラウドデーターベースの暗黙の力を言いたかったわけである。
しかしこの力はいかほどのものだろうか?クラウドデーターベースは建築を平均値化して都市を均質化するのだろうか?と考えるとことはそう簡単ではない。建築計画2.0が厳然としてあるならば、創造と言う行為はそこからの距離によって計られるはずである?と考え直した。
我々の事務所にKという洋書屋さんが頻繁に来る。彼は有名どころのアトリエ事務所、組織事務所、ゼネコン設計部、大学研究室を売り歩きその売れ筋をデーターベース化して我々の所に来る。そして「この本はアトリエ系で売れているから是非どうぞ」「妹島事務所でよく売れた」「誰が買った」などと言って売りこんでくる。まるで人間アマゾン、アナログクラウドである。アマゾンではたまに推薦された本も買うがKさんの誘いに乗ることはめったにない。それは自分なりにデーターベースの質を読んで距離をとっているからである。建築計画2.0という平均値ができれば、我々は必ずやその性格や確かさを値踏みし、それに基づき自らを相対化する。結果それは均質性ではなく多様性としての建築計画3.0を生み出すジャンピングボードとなるのかもしれない。
On
by 卓 坂牛
東浩紀『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』集英社2011を半分読んだ。半分しか読んでいないのでこれから書くことは彼が結論としているだろうことの予測である。あるいは彼の最初半分をもらって僕が勝手に作った結論でもいい。
2世紀前にジャンジャック・ルソーは考えた。人々の個々の意志(特殊意志)は集合するとある合意(一般意志)を形成しそれが世を推進する。そしてそのための暫定的な機関として政府が存在する。またこの一般意志を作る過程において、個々は合意を形成するためにコミュニケーションを交わす必要はない。これを受けて東は考えた。この古典的民主主義の立脚点をラディカルに解釈するならば、人々の合意である一般意志というものは議会制民主主義のような場で生成されるものではないのではないか?むしろネット上のグーグルやアマゾンで人々の嗜好がデーターベース化されて行くように形成されるべきである。そうすれば談合や密室政治のような不可解な決定メカニズムを排除したクリアな民主主義が生まれるのではないか。それを一般意志2.0と呼ぼう。
と言うのがこの本の主旨(だろう)。とりあえずこうした社会的な決定ルールを認めるか認めないかは別として、ここで言うようなことが事実として政治では定かではないが、今後様々な局面で発生することを止めることはできないと僕も思っている。
そしてこんなことは建築でもおこる。ある建築が好きか嫌いか、使いやすいか悪いか、ある場所が広いか狭いか、明るいか暗いか?例えばフェイスブックとグーグルアースのようなものが合体すれば、人々の行く先々でスマホがあなたに問いかけてくる。そしてそれに「いいね」と答えることで世界中のあらゆる場所の物理環境が評価されデーターベース化され逆にそのデーターベースがあなたをあなた好みの場所に誘うことになる。
建築基準法で定める様々な数値は殆ど意味を持たなくなるかもしれない。廊下幅が1.2とか1.6なんてナンセンスとなり得る。必要な数字はグーグルが持つようになるのである。
今までの建築計画を建築計画1.0とするならば、クラウドに蓄積されたデーターベース上に構築される建築計画は2.0なのである。我々はそれを安易に無視できるだろうか?それこそが人々の最も求める建築となるのではなかろうか?しかしそうであるからこそ、そうしたデーターの対極を求める施主は必ずやいる。しかしその時でさえも相対的な位置を計るベンチマークとして建築計画2.0は君臨する可能性がある。
On
by 卓 坂牛
「気持ち悪!!」という声がコピー室から聞こえた。何事かと思ったら巨大な蜘蛛が現れたようだ。朝からアドレナリンが出る。眠気も吹き飛び大騒ぎ。蜘蛛が大嫌いな僕は見ることもできない。スタッフのT君がやっとのことで捕獲して事務所の外へ運び出す。こわごわ近寄りシャッターを押す。家の中にいる蜘蛛だからゴキブリなどを食べてくれるいい蜘蛛なのだとは思いつつそのグロテスクな体を見ていると寒気がする。そこへやってきた木島さんがこんなの阿蘇には沢山いると平然としている。スゴッ!!
栃木の現場の往復で富井雄太郎編『アーキテクチャーとクラウド』millegraph2010を読む。柄沢さんがでクラウド時代の空間体験を「概念的一望性」と「身体的局所性」が2重化されている状態と説明していた。
現代はグーグルアース、ストリートヴュー等であらかじめ行く場所の空間をヴァーチャルには一望していても、その場所にリアルに身体を置いて見ると想像を超えて様々な迂回が発生するということである。
ヴァーチャルな空間の平べったさがリアルな世界ではとてもでこぼこしていることに気づく。それは単に物理的、固定的環境だけではない。いざ行ってみるととんでもない人の量に圧倒されたり、とてつもない寒さに震えたり、鳥の大群に出会ったり、その時その場所のその人の実存的な空間が現れるものである。蜘蛛との出会いもそんなことの一つである。
クラウドが発達すればするほど人間は自らの実存をより強く意識するものである。
On
by 卓 坂牛
卒計のエスキスをしながら彼らは自分の作りたい空間を作る新たな表現法に全く関心がないと感じた。模型と平立断という既成の表現法以外使わない。空間を創造するための新たなノーテーション(楽譜)を期待していない。
そんな不満を抱きながら帰宅後一冊の本を開ける。芸大出身者を中心とした集団ダブルネガティヴスアーキテクチャーによる『ダブルネガティヴスアーキテクチャー塵の眼、塵の建築』INAX出版2011という小さな本である。すると彼らの興味の中心にノーテーション(記譜法、楽譜)があることを知りその偶然にびっくりする。
楽譜と言うものが発明される前に人は音を奏で、字を書けるようになる前に人はしゃべる。レシピーが無くても素晴らしくおいしい料理を作れる人は沢山いるだろう。建築も同じだ。図面が無くても建物はできた。しかもいい建物が。
ノーテーションは記録のための、演奏のための、契約のための、伝達のための、道具に過ぎない。もちろんそれは創造のための小道具であったかもしれないが、創造は常に更新されていく。であるならばノーテーションも更新されなければならない。
音楽はノーテーションを更新している。武満が、ケージが、マークレーが、新たな記譜法を描いている。それに比べると建築は何時までたっても新たな記譜法を生み出せていない。何故だろうか?建築における記譜法は言語同様に多くの異業種の中での共通言語であり続けなければいけないからである。女子高校生言葉のような言語が突如契約書の一部を構成するわけにはいかないのである。
しかし建築のノーテーションも創造のツールとして考えるのであれば女子高校生言葉を使ってもかまわないのである。もっと自分にフィットした言葉を使うべきである。実施図面は現代社会の契約書であるからJISに則ったものである必要はある。しかし創造の場では違う。そこへ眼が向かないのであれば創造などできないと思った方がいい。
On
by 卓 坂牛
RC外断熱で勾配屋根にしたときの雨樋の作り方が分からない。一日考えてしまった。同じような雨樋数十個描いたけれどこれだって言うものに行きあたらない。とりあえず今日の結論は幅50高さ100のステンレス樋。さて一晩寝るとこんなのダメだと思うだろうか?
それにしても雨樋のディテール一つにこんな悩むのはどうしてだろうか?最近ディテールを描いてないから技術的な知識が希薄になっているからなのだろうか?それともやり慣れない外断熱に挑戦しているので知っていなければいけないことを知らないからなのだろうか?そのどちらかが分からないことが問題である。
と思っていろいろな人の外断熱の屋根のディテールを見るのだがどうもそれが正しいやり方なのかどうかが分からない。もちろん工法を分解すれば原理的に正しいかどうかはおぼろげに判断がつくのだが、建築のディテールは経験値がモノを言う。自分の経験の延長に無いものはお手上げである。
平瀬君から展覧会のお知らせが来た。素敵な案内状である。来週からオゾンで行われるようである。行って見よう。
On
by 卓 坂牛
西谷修『世界史の臨界』岩波書店2006を読み始めた。
「世界史とは世界の歴史ではない。<世界>として歴史を語り始めることを可能にした一つの文明の運動、グローバルな現実を作り出したヨーロッパ近代のプロジェクトの名である」というのがこの本のコンセプトである。なるほどさもありなん。
六本木でアメリカのモダンアートの歴史を見ながら、僕らはこうした歴史的な展覧会をもっともだと思って見てしまうのだが、これはまさに歴史家の一つのプロジェクトだと思った方がいいhttp://ofda.jp/column/。身近な例でいえば近代建築史なんて言うものはまさにそれ以外のなにものでもない。ペブスナー、ギーディオン、バンハムたちによって作られたモダニズムを僕らは何の疑問も持たずに受け入れていたのだが、ある時それはおかしいと皆が思い始めた。そしてそれをなんとかひっくり返そうとしたのだがフランプトンである。そうやって歴史はどんどん作り変えられる。しかしこれがまた歴史の難しいところだが後から唱えられたものが必ずしも正確であるかどうかなど分からないのである。
その昔多木浩二の西洋建築史の連続レクチャーを聞きに行ってどうして多木さんは西洋建築史をやるのか(日本建築史ではなく)と質問した。すると日本には理論が無いからだと言っていた。しかし本当だろうか?確かに理論書は少ないけれど現存する史料で歴史が組み立てられないことも無いではないか。それをやらないのは日本のそれをどんなにがんばって組み立ててもそれは日本に閉塞し、グローバルなプロジェクトにはならないからだと邪推したくなる。そしてもっと言えば、結局歴史が現代を拘束するたがになっているのであれば日本の現代建築にたがをはめているのは日本の歴史ではなく西洋の歴史なのだと多木は言いたかったのかもしれない。
そして最も重要なことはそうしたたがからどうしたら自由になれるかと言うことを歴史を通して知ることである。そのためにこそ歴史はある。