長野への車中で三浦展の『郊外はこれからどうなる?』を読み終える。第四山の手論に続き第四下町論が面白い。それによると下町拡張の四段階とは次のようなもの。
① 江戸期―日本橋
② 明治期―浅草
③ 大正昭和初期―玉の井、千住(隅田川の西)
④ 戦後―江戸川、葛飾(荒川の西)
さて東京は江戸以来山の手は東へ、下町は西へ拡張する。しかしその拡張の仕方は少々異なる。西はアメリカ型、東はヨーロッパ型だそうだ。アメリカ型とは中心に低所得層を残し、郊外に富裕層が移り住むタイプ。ヨーロッパ型は城壁に囲まれた都市部に富裕層を残し、城壁の外へ低所得者層を追い出すタイプ。
即ち東京の場合、山の手は拡張しながら中産階級(富裕層とは言い切れないが)が多くそこへ住み、一方下町は拡張しながら低所得者を西へ西へ追い出していったということである。
そこでまた理科大の引っ越しの話。以前所得の最も高い千代田区から最も低い葛飾区へ引っ越すと述べたが、この下町拡張論と併せて考えると合点がいく。すなわち千代田から葛飾への移動とは第一の山の手(というか、日本の中心)から、第四下町への移動なのである。
ところでこの移動はその昔西郊外へ大学が大量移動した時のそれとは少々違う。その昔の西移動は単に都心に拡張の余地が無くなったからだけではなく、郊外二ユータウンが大学を必要としていた。しかるに第四の下町には残念ながらそうしたニーズは無い。この移動が生み出すものは何か???
三浦展『郊外はこれからどうなる―東京住宅地開発秘話』中公新書クラレ2011によると東京は山の手の拡張という視点から四段階に発展した。
① 第一山の手時代(明治半ばまで)本郷周辺が山の手―その西側が郊外
② 第二山の手時代(20年代手前まで)山手線の中が山の手―西側私鉄沿線が郊外
③ 第三山の手時代(60年代半ばまで)私鉄沿線、田園調布、成城、吉祥寺あたりまで山の手―その西側が郊外
④ 第四山の手時代(現在まで)二子玉、たまプラ、新百合、所沢までも山の手
東京の人口増加は地方からの流入による。そしてその流入人口が処理できなくなったこと。また一億総中流化でだれでも山の手に住めるようになったこと(その昔山の手は武士、下町は工商人が住んでいた)で山の手は拡張した。
僕の両親も20年代に青森から駆け落ちしてきた流入組である。そういう人たちは少なくとも第三山の手かその郊外にしか住めない。江古田(第三山の手)に生まれ大泉学園(ぎりぎり第三山の手)に引っ越した。
大泉学園に引っ越したのが小6。文京区の国立大学付属中学校に入り附属小学校から来た生徒がとてもお金持ちに見えた。彼らの多くは学校の近く、即ち第一山の手でうまれ育っていた。そういう親はやはりそこで生まれ育つ。こう言う家の多くは家を買う必要が無い分可処分所得が多いわけである。お金持ちに見えたのではなくお金持ちだったのである。そして今でも第一山の手出身の輩と会えばその羽振りの良さにびっくりしたりする。
僕は江古田に生まれ西に向かって大泉に移り住むものの、結婚して東へ向かい日建そばの早稲田(下町)に賃貸。子供が生まれ、早稲田では手狭だがこの場所では大きなところに住める余裕もなく西に向かって移動。方南町、下高井戸と西へ進む。しかし信大赴任を契機に一念発起東へ向かい第二山の手の四谷に住む。これは僕に限らず現代的な傾向とも思える。都心空洞化とともに住宅供給が都心で増えており、郊外からのリターン組が結構住み始めているのではないだろうか?