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Sep 2012

紙を読むスピーチ

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by 卓 坂牛

午前中滞中時の御礼メールをあっちこっちに出していたら事務所から電話、「もう出る時間ですよ」と言われ「あれもう11時」と気付く。あせってパソコンを閉め、中央線で一本、山手線で一本、常磐線でさらに数本メールする。
昨晩家に帰るなり、興奮してかみさんに中国での話をしまくったら、かみさんに言われた僕は何かに刺激を受けて帰ってくると凄い勢いで話しまくると。それは僕もよく自覚している。「中国建築はすぐに日本建築の手ごわいコンペティターになる」と言うことを力説していた。でもそう思った理由は、中国がユウロアメリカンの文化圏において強い存在感の持ち始めたというところにある。なんのことはない。ユウロセントリシズムを思いっきり肯定しているのである。そんな自分が情けないが、、、この気持ちは中国の前近代性に一通り痛い目にあった人間にしか分からない。
帰宅後、ひたすらスピーチ原稿を英語で打つ。いままで日本語のスピーチで原稿を作ったことは無い。紙を読むスピーチは抑揚がないので好きではない。よって自分のスピーチも紙は作らない。当然英語になってもそういうことはしないと心に決めていたのだが、今回ちょっと限界を感じた。というのも今回のシンポジウムにおいて10人以上のスピーカーのうち紙を持っていなかったのはAAのマーク・カズンくらいである。後はMITやコロンピアの教授陣もネイティブのようなチャイニーズも紙を用意していた。そんな中で手ぶらの僕は冷や汗ものだった。だから今回は簡単なペーパーは作っておこうと思いひたすら打ちまくった4分の3くらいはできたのだが、力尽きた。続きは明日早朝。

日本の読み変え文化をどう乗り越えるか?

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by 卓 坂牛


上海行き帰りの機中で豊川斎嚇『群像としての丹下研究室―戦後日本建築・都市史のメインストリーム』オーム社2012を読む。日本の近代概念(建築の)の生まれる現場を見たいのである。そのためには戦前戦後の見えていない糸を見つけなければいけない。そしてそれに応えてくれることが大まかに3つ感じ取れた。
一つ目は戦前の生産力の拡充を巡る企画院、内務省、そして建築家として、前川・坂倉(コルビュジエ派)という緊密なつながりが戦後全総計画を巡り、安本、建設省、丹下研に引き継がれたという事実。にコルの流れは何らかの形で丹下研に血肉化している。
二つ目は戦中西沢らが階級意識を根底に住宅問題を検討していたことに対して、戦後丹下は経済復興を軸にそれを乗り越えていったという事実。つまり戦後の浜口の「ヒューマニズム論」も階級意識を基盤としていたが、丹下は経済合理性を基盤とした。
一つ目と二つ目の事実は明らかに丹下事務所のモデュール設計に繋がり、モデュール設計こそが初期丹下設計のインターナショナルな風合いを作り上げたのではなかろうか。
三つ目は哲学的な知を求める当時の東大建築学科の風潮の中で、立原道造がヴァレリー、あるいはヴェルフリンから建築における現象の重要性を読みとったのに対し、丹下は同じヴァレリーから幾何学を読みとっていたと言う事実。
丹下健三だけが日本の近代(建築)を作っていたわけでは無いにしても、著者が言うように彼がメインストリームであることは明らかであり、彼の戦前からの思考の受容と連続が日本の近代概念(あるとすればだが)の核であることは間違いない。
コルビュジエ、経済、モデュール、幾何学。乱暴に言えば、この辺りが近代概念の核であろうことが、おぼろげに見えてきた。
そしてではこれらは一体僕らにとってどういう意味を持つのだろうか?海外文化の読みかえ(何時も日本はそうなのだが)を僕らはどう消化して乗り越えていくのか?今度はグアテマラで話さないといけない。

同済大の建築学科も落ち着きがあっていい

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by 卓 坂牛


○同済大の建築学科左、右、奥全て建築学科の建物。日本のどの建築学科よりしっかりとデザインされている。

○MAO事務所の階段がたレクチャーホールでの講演。同済大の部屋よりはるかにいい空間である

○教え子神山君のガラス張り個室
早朝同済大学キャンパスをジョギング。学生が波のように押し寄せ、自転車が縦横無尽に走り回る中をスラロームするようにジョギング。朝食を食べてパワポを修正していたら11時。信大を出て上海のMAO事務所でチーフアーキテクトをしている神山君が迎えて来てくれた。事務所の社長マオさんは坂本研の後輩で今日初めてお会いした。車で上海の倉庫をリノベしたスノビッシュなレストランでランチ。マオさんは坂本研から首都大小林研に移り日本設計で数年働き上海に戻り事務所設立。現在150名くらいの事務所に成長し、3500㎡のオフィスを構えている。凄いものだ。
30年代の食後屠殺場をリノベした商業施設を見る。凄い面白い構成である。2時半にホテルに戻ると通訳をしてくれる同済のリー君が来て打合せ。彼は10月から東工大に留学予定。本日やっとビザがおりたそうだ。3時半からレクチャーをして6時ころまで質問を受ける。坂本先生から同済のレクチャーすると質問が凄いぞと聞いていたのだが、そうでもなかった。同済の建築学科は建物が4棟もありどれもなかなかよく出来ている。6時ころ同済を出てマオさんの車でMAO事務所に行く。できたての巨大事務所は後輩の事務所とはとても思えない広さと優雅さである。そこの階段室レクチャーホールでさっきとはまた違うテーマでレクチャー。急きょパワポを入れ替えてしゃべること1時間少し。そこから様々な質問を受けた。皆積極的で素晴らしい。
全て終わってから神山のオフィスを覗く。彼はチーフアーキテクトなのでガラス張りの個室を持っている広さは10畳くらいだろうか。素敵である。

久しぶりに上海

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by 卓 坂牛


10時の新幹線で南京から上海に向かう。帰りはコロンビアの建築史准教授Reinholdと2人。彼はケネス・フランプトンの教え子。シンポジウムだと余り話せなかったせいで、2時間近く会話が止まらない。
今アメリカ建築の良い建築は誰が作っているのか?と聞くとgood question と言って言葉を濁す。じゃあ誰が学生に最も影響を与えているのかと聞くとやっぱりレム、あるいはクールハースキッズたち。例えば学生がBjake Inglesなんかすぐ真似るけれどひどいもんだと言う。クールハースの形だけ真似て何も考えてない。
じゃあ日本人では?と聞くとかなりSejima。ローザンヌはどう思うと聞くとOKと言い、ニューヨークの美術館は?と聞いてもただOKというだけなので彼自身はまあso soと言うところなのだろう。
アメリカでは昨日までのようなシンポジウムはよくあるだろうね?と聞くと、あるけれど歴史とデザインを一緒に語ることは少ない、そもそも歴史家とアーキテクトだと求めているモノが違うからねと言う。確かにシンポジウムで建築作っているのは2人くらいしかいなかったので僕なんかは結構away感があったよというと、そうだろうねと言う。でも彼もよくスタジオに呼ばれるけれどなんとなく場違いな感じがあるようだ。
なんて、取りとめの無いことを話しているうちに上海。時速300キロで揺れもまったく感じ無い快適な旅だった。
上海には学生の代わりにWANG教授が迎えてくれて、プドンの絶景レストランで昼食。最近の中国の食事は変わったのか彼のチョイスがソフィストケイトされているのかもう残すことも無い。WANGさんはおそらく僕と同じくらいの歳だが東南大を卒業してスェーデンに留学し、そこで働き計12年、その後コロンビアで学び中国に戻ったとのこと。僕の時代に海外に行く日本人が少なかったのに中国人でこれだけの海外経験をしている人なんて稀有だろうと思いきや、そうでもないのが実は日本人の甘いところ。
昼食後同済大脇のホテルに案内してくれた。何とも素敵なホテル。夕刻食事に連れて行ってくれたがこれも今までの大倉の経験とは大違いでとにかく洗練されているのだが、どちらも大学の施設の一部と聞いて唖然とする。日本の大学は淋しいねというかんじである。
食事同席したもう一人のWANG先生は初めて会うのだが僕の建築のことをいろいろ聞く。そしたら日本で僕のArchitecture as Frameを買ったのだそうだ。ありがたや!!

中国にも良識人はもちろんいる

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by 卓 坂牛


シンポジウム二日目。さて今日は昨日のメンバーに加えてModern Architecture since1900の著者William Curtisが来る予定だったが、なんとキャンセル。しかし、原稿とパワポが送られていて代読すると言う離れ業をやってのけた。カーティスのこの本は僕が卒論を書くときにまめに利用した本であり懐かしさもあって一目お会いしたいと思ってわくわくしていたのだが残念である。この本は1982年の初版に続き2版が87年、三版が96年に出ている。それが最近中国語に翻訳されその歴史叙述の方法について議論され、さらに、そこには中国建築は殆ど書かれていないのでこの本はNon-Chinese Modern Architecture since 1900と言うべきだと同済のWang先生が言う。するとAAのマークはヨーロッパ建築だってたいして載っていないのだからこれはExtremely small number of modern Architecture since 1900 と言うべきであると笑わせた。
午後のスピーカーは3人とも中国人。1人はメル大の教授であり残り二人は同済と東南の建築史の教授である。彼(彼女)らが中国建築史を詳細に語ってくれたので僕も殆ど初めて中国建築史を少し知った。彼らは1949年に中華人民共和国ができて徹底した社会主義建築を造った。その特徴はmonumentalization とobjectificaitonだったという。さもありなん。われわれ日本が戦中にやっていたことにかなり近い。僕らは戦後にさっさとそれをやめて民主主義の名のもとにモダニズムを受け入れた(と言っていいのかどうかはまさに今調べているところだが)一方中国はナショナルスタイルをひたすら追っていたのである。
このレクチャーはとても勉強になるのだが、この後のディスカッションは中国建築の明日を巡ってアメリカとヨーロッパの激論である。中国人も入る余地が無い。まして日本人には言葉の問題以前に問題の所在が自分からはかけ離れていた。割り込んで質問をするのに命がけである。
夕食の時に右隣の東南大リー先生に招待のお礼を言い、でも余り話ができなくてスイマセンと謝ると彼女もとてもじゃないけれどこの戦争のような会話に割り込むのは難しいと言う。そうしたら逆隣りに座っていたよくしゃべるイギリス人ピーターがThis is too competitive for you guysと言って彼らも自らの主張を通すのに必死なのだと言っていた。少々見習わないといけないかもしれない。
帰り際に同済大のWang先生が深刻な顔をしてやってきた。彼は僕の同済大での講演会を企画してくれた方。状況がどんどん悪化しているし、僕のレクチャーの日が運悪く18日でかなりまずいと言う。横にいたよくしゃべるピーターがすかさずDoes the18th have special meaning? と聞く。彼らはこういうデリケートな問題にもお構いなしに入って来る。Wangさんも言いにくそうだったけれどThat is the day of Japanese invasionと説明した。満州事変のきっかけとなった鉄道爆破事件の日であり、、、、なんて史実を説明する気もなくただその言葉にドキッとした。英語だとストレートには響かないけれど、日本語にすれば日本が侵略した日ということになる。
部屋に戻ってメールを見ると明日上海駅に迎えに来てくれる同済大の院生から完璧な日本語メールが入っていた。
「・・・・・明日私は上海駅へ出迎えに行きます。最近反日デモが続いているので、他人に目立たないために、英語の『SAKAUSHI Taku』を書いてある紙を記号として使います。
ちなみに私は背が高いので、分かりやすいと思います。こんな意外状況が起こりまして、誠に大変失礼だと思いますが、どうかお許しください。
よろしくお願い致します。」
まるで国外逃亡者の出迎えのようである。しかし良識ある中国人だってもちろん沢山いるのである。

日本建築の明日?

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by 卓 坂牛


○最前列に並ぶゲストスピーカー

○荒木町スタジオのポイントを披露
昨晩は上海で無事に東南大の院生と空港で会えた。空港から新幹線の駅までタクシーで小一時間。なんと切符は完売で南京まで食堂車の廊下でスーツケースに座って2時間。ホテルはなんとキャンパスの中。
今日は朝からタフな時間。今年で3回目となるAAスクール東南大学の共同主催である第三回現代建築理論フォーラムの初日。完全な英語のシンポジウムに参加したのはこれが初めて。テーマは「過去を発明する(Invention of The Past)」というもの。しかも今日のゲストスピーカーと座長は。
Mark CousinsがAAスクール
Adele N. SantosとYung Ho ChangとStanford AndersonがMIT
Reinhold Martinがコロンビア
Donald BatesとJianfei Zhuがメルボルン大
そして僕(汗)。
しかも演題は
History versus Past
Professional Histories
Rational Reconstructions and Architecure
The Style Versus Method
Learning from History: A case study of the Museum Bridge in Anren
ちなみに僕のタイトルはObserving, Preserving, Transforming La Preesitenze Ambientali (preexisting surroundings)である。簡単に言うとデザインに必要なのは過去の歴史だけでは無く既にそこにある何か(歴史的物語がないもの)も重要でそれを見つけ取り入れて変形させることが重要と話した。
このメンバーがこんな演題を極めてtheoreticalに話すわけである。フーコーやらレヴィ・ストロースやら著名な社会学者や哲学者の引用満載である。これを英語でフォローするのはかなり手ごわい。いや、日本語だとしてもタフな議論である。建築の歴史がデザインにどれだけ有効か?なんていうテーマを朝から晩まで話し続けたことなどないではないか!!!
そして全員のスピーチが終わってディスカッションである。司会のDonald Bates が幸運にも私の提示した問題「歴史とは物語りである」をディスカッションイシューにとりあげてくれたのでラッキーと思ったのものつかの間。話が盛り上がって行くともう迷子である。頼むからこの状態で当てないでくれよと思っていたら、話題が建築は写真か?という問題に移動した。そしたらReinhold が僕が何故プレゼンにヴィデオを使ったのかと分かりやすい質問を投げてくれたので事なきを得た。
いやはや今日は考えされられた。先ずこんなメンバーで(明日はこれに輪をかけて凄いのが来るのだが)シンポジウムを中国で行いしかもそれをアメリカ式に本にしてしまうという企画力と資金力。そして東南大学の教授陣がこれらのメンバーに丁々発止渡り合っているという語学力。そして何よりも中国人デザイナーにとって歴史は借り物ではなく自分たちのモノという事実である。最近日本のモダニズムを考えているとどうにも日本のモダニズム概念の希薄さに焦る。そもそも日本の近代化で入ってきた様式建築が借り物なのに、それを乗り越えるために死に物狂いになるはずもない。とするならば21世紀の建築は何を乗り越えればいいのだろうか?一体僕らは希薄な歴史によって何を目指して建築を作るというのだろうか?
金もない、語学力もない、歴史も希薄な日本の状況はかなり危険である。今日のインターナショナルなメンバーにとって世界はかなりフラットなようである。そんな中でMITもコロンビアもAAも昔は日本人もいたけれど今は留学生の大半は中国と韓国だと言っていた。アジアの国の中では日本はかなりドメスティックな国に見えるようである。そうして今後インターナショナルになったChineseは華僑の協力なコネクションのもと(これは僕の推測)世界中で建築を作り始める。Donald Batesが食事をしながら、「今にイギリスの仕事の大半は中国人がやるようになる。冗談じゃない、そんな状況は10年以内にくるだろう」と言っていた。
先日のコーネルの方が言ったように日本人の建築家を彼らはもちろん知っている、安藤、妹島、西沢、伊東は最も有名ではあるが知っているのは雑誌ネットに氾濫している彼らの写真のようである。彼らが何を考えているのかと言うところまであまり知らない。そしてそういうビジュアルは一体どれだけの意味があるのかと言うのが今日のディスカッションの話題でもあった。必要なのはそれを支えるロジックだと彼らは言いたげであった。もちろん今日集まったのは世界のインテリ理論家である。限られたサークルの中だけで世界を見た気になってはいけない。そうは思う。しかしそう思って見たくないものを放っておいていいのだろうか?
昨晩も今朝もCCTVは魚釣島の話しで持ち切りである。朝ジョギングをしようか戸惑い、今週末は上海で大抗日デモがあるというメールに不安がよぎったのだがシンポジウムを終えたらそんなことはどうでもよくなってしまった。

学会終えて中部国際空港へ

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by 卓 坂牛


名古屋大学駅で理科大の熊谷さん首都大の小泉さんにお会いする。そのままデザイン会議の会場へ。研究室の学生は2か所で発表。移動しながら見ようとしたが、司会もあって全部見られなかった。終わって食事の誘いを断り、あせって豊田講堂を初めて拝んでいたら(お恥ずかしい)信大の浅野先生、理科大の郷田先生と会う。
飯を食えず、地下鉄、名鉄を乗り継いで中部国際空港へ。いつもスーツケースを宅急便で空港へ送る殿様旅行をしていたが、今回は名古屋経由なのでガラガラ運ぶはめになった。転がして初めて分かる。世の中バリアフリーになっていないものである。
初めて行く場所は予想通りことが運ばない。チェックインして出国管理過ぎてから何か食べようと思ったらこの空港には何もないようである。飢え死にしそうだ。
ゲートでコンピューター開くと「中国御気を付けて」と言うコメントが10個くらいありちょっと緊張気味である。

言葉の選び方が杜撰である。

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by 卓 坂牛

あれよあれよとあまり準備もままならぬうちに明日の夜は南京。じたばたしても仕方ないのだが、英語のレクチャーはきちんと準備しないとひどい目に会う。日本語では伝えられるような微妙なニュアンスを伝えることはできない。だからと言って話す内容の水準を下げるとただ馬鹿みたいな話になる。つまり小学生相手に話すような内容になる。言葉が稚拙でも奥深いことを語るには、話の枠組みを変えないといけないのである。その枠組みが未だできていない。
なのだが夕刻研究室で出版社の方と学生、助手と打合せ。最初に編集者から内容が上手く伝わってこないという指摘を受ける。そうだろうな。未だ未だだよな。だいぶ直したんだけれど、僕自身未だ良く分からないところが多い。再度頭をクリアにして、自分が何を求めていたのかをよーく考えなおして欲しい。言葉の選び方が杜撰である。もっと丁寧に言葉を使わないと。

Rules of Architecture

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by 卓 坂牛

The essence of my book Rules of Architecture is as follows
1 Making architecture is defined as the activity which you evaluate some essential elements of architecture on the several design value scales.
2. The essential elements of the architecture based on the current architectural situation according to the historical study are thought to be 物(Things)and 間(Space)
3. As for the design value scales , we could propose firstly 3 axes with the help of philosophers Aristotle and Immanuel Kant. 1)Substance axis 2)format axis 3)Relation axis.
4. These 3 axes are broken down into 9small design value scales
Substans axis
1)Flatness⇔Roghness
2)Colour⇔White
Format axis
3)Transparency⇔Covertness
4)Horisontality/Perpendicularity ⇔Cuvilinearity/Diagonality
5)Bigness⇔Smallness
Relation axis
6)Stratification⇔Planness
7)Integrality⇔Partiality
8)Exclusiveness⇔Inclusiveness
9)IndependencyCooperativity
5. Now architecture is defined as follows
物(Things)and 間(Space) be evaluated on the 9design value scales.

建築の規則の効目

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by 卓 坂牛


同済大学のWang教授は大学院で建築論を教えている(と言ってもまだお会いしたことは無い)。その彼に拙著『建築の規則』について話して欲しいと頼まれた。日本語も堪能なのかと思ったが、HP上に載っている英語のサマリーを読んで興味を持ってくれたようである。
そんなわけで午後自分の本を読み返してみた。この本の後半部分は講義で使っているので頭に入っているのだあ、前半部分は少し記憶が薄れている。
この本は時代によって可変的な建築意匠の指標作りと思いながら考え、「質料」、「形式」、「関係」という3つの軸を紡ぎだした。しかし書き終って、ちょっと違う水準でもっと社会構築的な指標があることに気付いた。そこでジェンダー、消費、他者性、倫理、視覚、グローバリズム等を軸に新たな枠組みを作って一つの講義を作った。それは「建築の条件」というタイトルで後期理科大の一部生向きに講義をする。そんなわけで最近建築の規則は普遍的な建築原理だと人に言うようになっていた。しかし読みかえしてみるとやはりこれらの指標は暫定的だよなと思い直した。
そもそも形式はモダニズム的だし質料はアフタモダンな価値観。関係に至ってはとても現代的である。というわけでやはりこの指標は、可変的、暫定的。そしてその可変性は単に時代に応じるだけでは無く場所にも応じるものであるだろう。ということはこの『建築の規則』21世紀日本の生ものなのであり中国でも旬であるかどうかは定かではない。これはちょっと面白いことになってきた。若い中国学生はどう感じるだろうか?
夕刻Wang教授からレクチャーのポスターが送られてきた。この前のグアテマラのポスターに比べるとシンプル。お国柄でしょうか?