日本は成熟に向かっているか?
数か月前に友人の新聞記者と食事をした時に安倍のミックスを真っ向から批判していた。彼曰く、国家の貨幣価値を下げる政策なんぞあり得ず、実に対処療法的であるというわけである。その時他の友人はそれに賛同しなかったのだが、自分は確かにそういわれてみればそうだと感じていた。
今読んでいる柏原英資『国家の成熟』新潮新書2013には彼の言ったことがそのまま書いてある。彼がこれを読んいたかどうかは知る由もないが、この本を読むと彼の言わんとしたことが納得できる。曰く「成長の時代は終わった」「円安よりも円高を」「もはや貿易立国には戻れない」などなど。円高は成熟のシンボルだとこういうのである。
そうなのである。成長の時代を終え、成熟社会にスムーズに移行すことが我々の必要とするヴィジョンなのである。ところが実態はそうなっていない。経済政策も、エネルギー政策も、我々は現政権にミスリードされているように感じる。しかしそれは現政権が横暴なのではなく世論がそれを許しているからに過ぎない。我々がもっとしっかりしないと本当に日本は間違った方向に進んでしまう。
最近思考はますますアナログ化
屋根の勾配と睨めっこ。軒の高さを一定にすると棟はどこに来るのか?軒を一定にしないとどういう形になりうるのか?屋根の勾配と天井高さは?建物密度が高い都市的環境ではそうしたことは往々にして法律の縛りの中でほぼ自動的に決定されていく。一方でそうした縛りが少ない地方的環境では形態の自由度ははるかに増加し、設計者の主体的判断が前景化する。場所によってこんなに自由度が変化すると発想ももガラリと変わり得る。変わることがローカリティなのか変わらないことが設計者の理念なのか??設計者の主体とは何なのか?「希薄な主体」などと講義しながら、前景化した主体にあたふたする自分がここにいる。
それにしてもこういう算数を竹の物差しと鉛筆と電卓で考えているのだから呆れる。最近ますます思考がアナログ化している。
アルゼンチンWSの課題はスラムの社会化
朝一で金町の教室会議。今年最初の入試を前にして準備会議。入試準備が学科長マターと言うのが理科大のシステム。信大の時は入試委員がいたのだが理科大にはない。これが学科長の仕事量を膨大にする。これから年度末にかけて頭が痛い。
午後大学の膨大な資料を自宅に運びそのあと事務所で週末の打ち合わせ資料をチェック。夕方神楽坂で二部の3年生を相手に12月、1月に行うワークショップの説明をする。今年の坂牛班の学生はやる気があってとても頼もしい。理科大に来て初めて感じるガッツのある学生たちである。その後深夜までお施主さんと重要な打ち合わせ。
帰宅後アルゼンチンから来ているワークショップのメールに目を通す。1月に行うワークショップのテーマはブエノスアイレスのスラム街の「スイッチング(変更)」という課題となりそうだ。ラテンアメリカでは有名なブラジルのファベーラだけではなくほとんどの大都市が巨大スラムをかかえる。ある時までスラムのクリアランスを考えていた政府も今ではスラムを生かしつつそれを改善し孤立した貧民街から社会化した居住地とすることを模索している。建築家にとってもそれは大きな課題。その効果がどの程度出ているのかは分からないがとにかく喫緊の課題であることは確かである。日本の学生がそれをどれほど身近に感じられるか分からないけれど、日本では想像を超えたこうした問題に想像を張り巡らすのは建築学徒の素晴らしいトレーニングである。
国税滞納の半分は消費税だそうだ
国税徴収官の話を行きかえりの電車で流し読み(高殿円『トツカン』ハヤカワ文庫2012)。これが結構面白い。毎年新規で発生する国税滞納額の半分は消費税と源泉徴収税で占められるそうだ。つまりは弱小企業がモノを売ったときに頂いた消費税そして社員から預かっている源泉徴収税を預り金とは知りつつ、生活苦からつい使ってしまい納税時期になるともう無いというわけである。徴収官はそんなところへ出向き無駄を承知で支払いを迫る。彼らは一円もないから好きにしろと開き直る。100円とるのに人件費がいくらかかっているのだろうかという世界である。これから消費税が上がればまたしても滞納額は上昇するのだろう。
さてこの消費税やら源泉徴収やらなんだか人ごととは思えない。設計事務所も似たようなものだ。設計料をもらった時は消費税までいただくわけだが、きちんと分けておかないと知らぬ間にあれあれよと消えていく。いざ納税のときに会計士様に「これだけ払いなさい」と言われてドキッとする。「こんなに預かっておりましたっけ???」これから消費税が8%になるとこのショックは5分の8倍になりいつか10%になればさらに4分の5倍になり、これがずっと続くと思うと精神衛生上悪い。消費税を事業者が預からないというシステムはできないものか?????
祭りのつながりと地形
先日理科大の卒論発表会で市ヶ谷柳町、薬王子町あたりのお祭りの来場者はどこから来るかという調査があった。それを聞くと来場者は東西方向にはかなり遠くからも来るのだが南北方向は比較的近隣からしか来ないという結果が出ていたのである。
この二つの町は僕の住む三栄町や荒木町から外苑東通りで北上したところにある町なのでたまにジョギングしたりしてその存在は知っていたのだが、七夕祭りをしているなどまるで知らなかった。一方私の住む四ツ谷あたりも祭りはあるがその連合は東西に緊密に繋がっている。四ツ谷駅あたりから四ツ谷4丁目あたりまで10個くらいの神輿が出るがそれらは東西軸に連なるまちまちである。
さてなんで町は東西につながれど南北には切れているのか?今日江戸の地図をしげしげと眺めながら一つ気が付いた、四ツ谷あたりと市ヶ谷柳町あたりは今でこそ外苑東通りで連続しているように思えるが、この道ができたのは明治に入ってから。そして外苑東通りの下を垂直に横切る靖国通りは四ツ谷と柳町あたりを分断する谷なわけである。つまりはこうした谷筋で祭りの連なりは切られていたということなのでは?とそんな推理に至った。果たして正しいか?
安部公房の硬い字
○米田知子『米田知子 暗なき所で逢えれば』平凡社2013より
米田知子の写真展に行きそびれてカタログを買って眺めている。その中にvisible and invisibleというシリーズがある。著名人の自筆を彼らの眼鏡を通して見るというもの。その一つがこの安部公房の眼鏡―『箱男の原稿を見る』2013.箱男自体は1973年に出版されているから40年以上前の原稿である。著名人の字はそれ自体その人となりを表し興味深いしそれが誰でも知る小説の一部であればなおさらである。
正直言って達筆ではないし、俗に書き慣れたと言われる字でもなく、妙に硬直してまさに箱のような字である。