先日内田樹編『日本の反知性主義』を読み、その言葉の輸入元であるアメリカの反知性主義が気になり森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮選書2015を読んでみた。そうしたらこの意味がかなり違うことが分かった。アメリカのそれはある意味ポジティブなものである。それはニューイングランドでのアメリカの始まりにさかのぼる。アメリカ宗教の始まりであったピューリタンが高学歴のエリート牧師に支えられていたのに対して、大衆的なリバイバリズムがそれを凌駕し、信仰上の平等を導いたという歴史が、政治的にも時として知性ではなく大衆性と平等感が国を導くことを良しとする伝統がアメリカにはある。一方昨今日本で使われる反知性主義とは政治的暴走を事後的に観察する言葉に過ぎない。そこには反知性であることの、これっぽっちの理由も意義もない、とてもネガティブな言葉である。同じ言葉を使うのもある意味おかしい。つまり日本にだってアメリカ的な反知性主義があるはずである。即ち権力と知性の固定的な結びつきを崩す意味でのアクティビティである。お笑いや音楽や漫画などである。それに比して政治の暴走は単なに知性の欠如、すなわち無知性なのだろう。それに主義を付けるのもおこがましい。
中野明、大久保喬樹『ナナメ読み日本文化論』朝日新聞出版社2015をナナメ読みしてなるほどと頷いた。第一章に登場するのは日本文化を世界に発信した三大名著として三冊紹介されている。最初は新渡戸稲造の『武士道』、岡倉天心の『茶の本』、そしてこれは読んだことが無かったが内村鑑三の『代表的日本人』である。これら著者の生まれたのは
新渡戸1862年
岡倉1863年
内村1861年
つまり同世代の人たちであり、
それぞれの本の出版年は
武士道1900年
茶の本1906年
代表的日本人1908年
この年代は日本が日清戦争、日露戦争に勝利し国力が増強され日本に自信がみなぎる時期である。そして自国が単に力だけでは無く精神的に文化的にも西欧に引けを取らない存在であることを主張するナショナリズムに同世代の三人は後押しされたのだと記されていた。伝統はナショナリズムで美化されるものである。昔は素晴らしかったという話の半分は誇張。と誰かが言っていた。
2年間快調に使っていたNEC Lavie が、今日突然電源が入らなくなった。バッテリー切れかと諦め帰宅後アダプターにつないだのだが立ち上がらない。 データーは前回の失敗いらいすべてクラウド状なのでいいのだが、予備のエアマックにつなぎかえ、さてどうすればいいのだろうか?当面平気だが、、、、
●Latin America in Construction Architecture 1955-1980 photo by Mario Fontenelle
この写真を見てどこか分かったらなかなかのものである。これはブラジリアの役所関係の建物が中央軸の両側に整然と並ぶ部分の工事中の写真である。2年前にブラジリアに来た時に地元の建築家に街を案内してもらった。その時にこの整然と並ぶ役所の建物だけが鉄骨造と聞いて驚いた。多くの建物をニーマイヤーが設計し、そのほとんどの建物が鉄筋コンクリート造のこの場所で、鉄骨造は意外である。その理由を聞くと工期がなかったからだとその建築家は言っていた。鉄骨はアメリカから輸入したらしい。
そんな話が頭の中に残っていたのでこの写真を見て納得した。これは今朝届いたLatin America in Construction Architecture 1955-1980に掲載されている写真である(写真撮影は1958Mario Fontenelle)。見事なラーメン構造である。
最近I phoneの充電コードとヘッドフォンのコードが擦り切れて中の金属コードが露出してきた。軽くしなやかにするために被覆のビニールが相当薄くなっているからと思われる。薄くて軽くて強靭な被覆材料はないのだろうか?カーボンなんかだとどうなるのだろうか?そんなんの高くてダメなのだろうが。
最近こういうのを直すコーキング材のようなものが売られていると聞いたが、どこに売っているのだろうか?
上野毛のキッチンハウスに行く。現在工事中の建物で、スペックしていた下に引っ張る換気扇(グリーン排気)のメーカーが会社を閉じるということで急遽設計変更の打ち合わせ。その後東工大で最後のエスキスチェック。僕と金箱さんが別々にチェックしているのでこっちでチェックして、あっちで金箱さんがチェックして、またこっちでやって、、、、というやり方はいかにも無駄が多いのだが、、、仕方ない。
最後のチェックだがいかにも力ずくで大スパンを持たしているものが未だいくつかあった。結局大スパンを持たせるにはアーチにするかドームにするかトラスにするか引っ張るしかないのであろう。その仕組みをさりげなく入れることが重要なのである。
修論ゼミでグアテマラからの留学生ルイスが東京という街のサステイナビリティを論じるにあたり、駅に注目したいと言う。外から見ると東京のトラフィックシステムが実に精巧に、正確に機能しているのに驚き、加えて駅が都市を組織化する拠点としてうまく機能しているという。その興味はとても正しいし面白いと思う。去年やってきたアルゼンチンの建築家二人は京都の田舎の駅に綺麗なトイレとキオスクがあるのに感動していた。駅が街のコミュニテイプレースになっているという。そうかもしれない。そのこととサスティナビリティという概念がどのように上手く関連ずくのかはまだよくわからないのだが。彼らから見るとこういう風に街を上手に統合し点在するコアこそが街の持続性を担保し、人々のアクティビティの無駄を省くと説明する。そうなのかもしれない。
ジョナサン・クレーリー岡田温司監訳、石谷治裕訳『24/7眠らない社会』NTT出版2015を読んでみようと思ったのは彼が視覚文化論の古典的名著『観察者の系譜』の著者だからである。そしてその共通点は前著が視覚にゲーテの生理光学が入ったことによる変化を論じている。今回はインターネットが人間を四六時中追っかけまわすことで人間社会は不眠になるという話だが、90年以降のドラスティックなネット環境の変化を問題にしている。そしてそれに対してどう対処するべきかということでの」著者の示唆は「「待つ」ことを知ること、誰がそれを必要としているのかと問いかけること、夢想や白日夢にその本来の価値を取り戻してやること、1960年代のカウンター・カルチャーを積極的にに再考すること」と監訳者の岡田氏が記している。結構重要な示唆である。
朝一で富士吉田の方々と製氷工場再生プロジェクト打ち合わせ。模型の山を前に、まだ決まらず。しかし来月頭に図面説明の予定。学生たちががんばって図面模型を作成中。午後市ヶ谷法政大学で秋の上越トークインのキックオフミーティング。先生が9人(川口先生、渡辺真理先生、木下先生、山城先生、安原先生、西沢先生、高橋先生、今村先生)と学生さんが40人くらい集まった。今年の幹事校は理科大ということで焦ったが、安原さんとジャンケンして、理工が幹事校ということになった。
その後理科大に戻り、建築学科のOB会築理会主催の特別講演を聞く。演者は㈱富田製作所の富田英雄氏。世界一のプレス機を持ち、厚板精密板金を行う会社である。スカイツリーの大経柱の制作を行った。ものづくりのスピリットの話が清々しかった。
今日の輪読は拙著『建築の規則』。さすがに皆がきちんと理解しているかどうかは気になるところだったが、概ね間違ってはいないのでほっとした。建築の規則はブルデューの『芸術の規則』にあやかった名前ではあるが、『芸術の規則』が芸術の社会的影響を問題にしているのに対して『建築の規則』はそこをあまり問題にしていない。よって今後本当の建築の規則を書くつもりだと「はじめに」に書いていた。そして今書いているので有言実行となりそうでホッとしている。