ドイツ写真の現在は必見
昨日レクチャー終わって谷川先生たちとご飯食べたときの話題で杉本博司の写真が登場。谷川先生はあれは「劇場でシャッター2時間開けっ放しという技を思いついただけ」なんて割と冷めていたのだが、勝谷さんなんかは、あれはすごいというのでじゃあちょっと見てくるかと、どうせなら近代美術館でやっているドイツの写真とザンダー展も見てこようと、朝一で竹橋へ。
なんといってもティルマンスが目玉と意気込んでいったのですが、気持ち悪いほど圧倒されたのはAndreas Gursky でした。デュッセルドルフ芸術アカデミー卒だからベッヒャーと同窓。15くらい若いけれど。ガスルキーの写真は香港証券取引所と称してそこに見事に並んだ机で同じユニフォームでコンピューターを睨む証券マン500人。あるいはアメリカの牧場を高さ100メートルくらいからやや斜めに見下ろす。グリッド状に柵が作られておりその中に見える馬の数約一万頭である。
つまりはその量に訴えている。数学的崇高さと言ってもいいかもしれないその訴求力は問答無用である。もちろん現物のその画面の大きさもすごい。一つの写真の大きさが2メートル×3メートルくらいある。
昨日の話で言えばこれはもちろん圧倒的な視覚性に訴えているのでる。一方ティルマンスは日常派であり、日常の風景。ペットボトルの水、隣であくびしている兄ちゃんなどなど。写真の大きさも大きくてA1小さいのはキャビネである。
Thomas Demandoはまるで安村崇のようである日常の解像度の高い切り取りで、輪郭はシャープだがその内側はきわめて平面的でポスターカラーで塗りつぶしたようである。HansーChristian Schinkも土木的規模の物の形の力に訴えている。とても視覚的である。
昨日の話でなぞらえて言えば、日常的な視覚性の力に期待したいところだが、今日の作品で見る限り、崇高的な形や現象の方が強度ありというところなのである。
さてその足で六本木に行き杉本博司を見た。この人はとても分かりやすい人でテーマを決めたらそれで何十年も追い詰めるのである。多分皆さんもそういうと思うけれど、見た中ではseascapeという世界の海をとった写真がいい。何十年もとっているから同じような写真がたくさんある。そしてそれが真っ暗な部屋に水墨画のように飾られ池田亮司の音楽が流れる。この総合性と量である。
やはり量である。まいったな今日は。非日常性や量にやられてしまった。
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