大学時代に考えない人間がいつ考えるというのか?
昨晩も駅前の本屋に立ち寄った。『丸山真男の時代』竹内洋、中公新書 を買って蕎麦を食べながら読んだ。これはちょっと内容が濃いのでまだ読み終わっていない。ところで同じ著者の『教養主義の没落』を読み始めた、とこの日記で書き、その没落を嘆き、果たして読み終わる頃には、納得がいくのだろうか読み終わったら再考してみようと記した。そして先日読み終わり考えてみた。結局教養主義の没落は教養主義を生み出していた、いくつかの社会的要素が消滅したことに起因しているというのである。その理由の最大のものは、誰でも大学生になれるようになったということである。大学進学率が15%を超えるともはや、大学生は社会的エリートではなくなるそうだが、日本は60年代(だったかな)にその時期を迎えたとのことである。それまではエリートとして教養を身につけることは誇りだったのである。しかし60年代のマス教育の中での大学生にとって、もはや大学で勉強することは誇りでもなんでもなくなってしまったのである。大学は、学問をする場ではなく、サラリーマンになるための技術を磨く場へと変貌したというのが著者の分析である。
そうした時代分析はきっと正しいのであろうし、自分たちが大学生であった80年代大学は既にそういう状況だったのかもしれない。
しかし私の個人的な意見で言えば、やはり大学とは学問するところであるべきであり、サラリーマンとなるための技術を磨く場所では無い。断じて無い。建築に限って言わせてもらうならなおさらそうである。その昔日建設計において、尊敬すべき林昌二は大学でもっとプラクティカルな技術を身につけさせるべきであり、わけの分からないドローイングを練習させても仕方ないという発言をしていたが、僕はそれには賛成できなかった。わけの分からないドローイングを良しとするものではないが、プラクティカルな技術など就職してから鍛えればよいし、その方がはるかに効率が良い。大学でいくらプラクティカルの真似事をしてもそれは真似事に過ぎない。プラクティカルというのはそれに付きまとう責任の重さも背負ってこそのプラクティカルである。
大学とはものごとの表層を獲得する場所ではない。とことん思考した上で頭に残るものを探す場所なのである。それは一般にものごとの原理原則のようなものになることが多く、その意味で哲学だということも可能だと思う。つまり大学とは哲学を学ぶ場所なのである。林昌二のように旧制一高で既に哲学を学んできた人間にとって、大学がプラクティカルなものを獲得する場所であるべきだというのはそれも一つのあり方かもしれない。しかし現代っ子がモノの原理を考える時間を大学時代に持たなければ、一生そういうことを学ばずに終わるのである。それはどんなことがあっても僕には納得がいかないのである。その意味でやはり教養主義の没落は必然であっても放置できることとは思えない。
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