やっと一年のお勤めの締めくくり
昨晩は卒論発表会。50名あまりの発表を8時半から一人7分ずつ聞いた。終わったのは夕方。僕の部屋の人。他の部屋の人もご苦労様。卒研のカタチは全員しっかりおさえていた。20数年前の自分を思い出した、東工大の小さな教室で同じような発表をした。信じられないかもしれないが、(僕自身信じられないが)当時の論文は全員手書きが普通。僕等スチュワート研だけは、英語で書いていたので少し違った。藤田は手書きだったが、辺見はタイプ、僕はあるところからパソコンを借りてきて打った。(当時パソコンはよほどのオタクでなければ持っていなかったのである。研究室はどこを見渡してもどこも持っていなかった。大学に一台大型コンピューターがあり、それにパンチカードで入力するという信じられない時代だった)梗概もロットリングで手書き。一字も間違えられないし、一字一字美しく書かなければならなかった。僕等スチュワート研は論文を最初から英語で書いていたから、辞書片手に英語の論文を日本語に訳しながら日本語の梗概を書いていたのであった。
さて、とにもかくにも全員passできて卒業が決まった。4年生とともに僕自身この大学に来て最初の仕事をこなせたという安堵感と喜びがある。(設計の内容はまだちょっとではある。だからpassではあるけれどaとは限らない。僕がuclaの修士の時、修士設計を4人の審査員の前で発表した時、主査であるチャールズムーアがpass と書いてサインしてくれたのを思い出す。アメリカではpassか否かだけなのであった)
さてこうして学部生、修士生が卒業できたのは下級生の絶大なるヘルプがあったからである。先輩を手伝う習慣がなかったこの大学に手伝いを徹底させようととにかくことあるごとに手伝え手伝えを連呼したせいで、本当に多くの人が彼等をサポートしてくれた。そういう下級生にお礼をしようということで50人近くでお礼の会を開いた。4年は昨晩も徹夜という状態で(発表会の前まで徹夜するというのもしかし、本当に計画性がないよなあ)ふらふらになりながらよくのみよく騒いでいた。会を仕切ったのはm1だけれどお見事。本当に忘年会に続いて大いに笑わしてもらった。健康にいいなあ。「これがあるだけでも信大に来た甲斐があった」と言ったら「それだけですか?」とすかさず突っ込まれてしまった。「それだけではない」と言いたいがそれは来年の今頃卒計、修士設計にもっと満足できるかにかかっている。来年の4年、修士はいい3年を見つけ、3年はいい2年を見つけて手伝ってもらうそれが君たちの権利だし、そこで自分の力を伝授するのが義務でもある。
こんにちは。
今、過去のブログをさかのぼって拝見しております。
私の卒論発表の時には、是非聞いていただきたい先生に聞いていただけなかった。坂牛先生は皆さんのを聞いてあげたんですね。やはり、先生はそうするべきですね、学生は一生懸命にやってるんですから。
先日、土木学会の景観デザイン委員会で初めて論文発表を経験しました。結構熱心に聴衆が聴いてくれるものなのですね。
坂牛さんは英語がご堪能との噂を聞いていましたが、UCLAだったんですね。辺見さんも夢は英語のを見るという伝説がありましたね。今、私も英語をやらなきゃいかんのですが、バークレー出の優秀な後輩君にまかせっきりで、反省してます。