gw最後
gw最終日は天気も悪く、家でじっとしていた(いや、今日に限らず現場に行く時以外はじっとしていたのだが)。そこで犬と戯れたり、娘とじゃれたり、かみさんと無駄話したりして過ごした。その間にリオタールとバルトを飛ばし読みした。リオタールはA0の星野君が書いた論文に触発されて読み返した。崇高論関係をよく読んでみた。しかしどうして彼はあれほどニューマンに拘るのかよく分からない。本物見てないのによく言うよと自分でも思うのだが、この手の作品はモダニズム期アメリカにいろいろあるようにも思うのだが、、、、、どこに言ったら本物見られるのだろうか?知っている人がいたら教えてください。
バルトは『映像の修辞学』。クラウスの指標論Ⅱの骨格となっているのがこれなので読み返した。コードなきメッセージは本当言うとまだ正確には理解できていないような気がする。
夜長野に向かう。車中 岡田暁生『西洋音楽史』と森田慶一『建築論』を読む。西洋音楽史はなんと言っても西洋芸術音楽の定義が面白い。それは知的エリート階級によって支えられ、主としてイタリア・フランス・ドイツを中心に発達し、紙に書かれ設計される、音楽文化となっている。つまり紙に書かれて設計されない、民謡とかジャズをはずし、800年以前のローマ時代をはずし、紙に書かれても読めない人たちははずすのである。明快。
森田さんの建築論は始めて読むが、なんとその骨格はヴィトルヴィウス「用」「強」「美」でした。
長野もすっかり暖かくなっている。やっと春だろうか?
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