篠原一男逝く
一昨日午後1時、恩師篠原一男がこの世を去った。81歳。突然の幕切れであった。氏はこの一年くらい。最後の蓼科の作品作りと、本作りのために、奥山氏と私を含めごく少数の人間にしか会っていなかった。蓼科の家は着工寸前であったし、本についても出版社の企画会議も通りさあこれからという時であった。一月前くらいから安定しない病状を知っていたものの氏の生命力は常人のものではないと勝手に想像していたもののやはり自然の摂理には勝てなかった。通夜の席に喪主から「本は坂牛と奥山が立派に作ってくれる。篠原スクールの弟子たちはもう一人前になった」と申しておりました。と言われた時には、目頭が熱くなった。
僕は4年にスチュワート氏に習い、院で篠原研に入り、卒業するときは篠原坂本研であり、ハイブリッドと呼ばれている。しかし、篠原から受けたものはもちろん多大に血肉化している。設計で言えば形態の貫通や融合、スケールなどで自然と篠原のそれが現れる時がある。また文章においては学生の時には直接指導された記憶は無いのだが、卒業後鼎談を行い、共著で本を出し、誌上で篠原の趣意書に返信を書き毎回氏の手厚い指導を頂いた。氏は常に文章の人称に拘っていた。「私たち」ではなく「私」に拘った。建築家とは「私」であるというのが一生篠原の信念だった。作家性が云々される昨今、ここまで作家性に拘った建築家は少ないと思う。
全ては建築の為にあるような人生だったと思う。昨年建築学会大賞を受賞した時にもお祝い会の提案を拒否され、そんな暇があったら本作りの打ち合わせをしようとおっしゃっていた。最後まで、本当に最後まで建築家を生きた人であった。
はじめまして、三浦と申します。
実は私1994~2年間、神奈川大学の大学院で篠原一男先生に指導していただいた者です。東工大卒の方はご存知ない方もいらっしゃると思いますが、事実です。神奈川大学は東工大出身の先生が多く、私の学部の指導教授が谷口吉郎先生の弟子の白濱謙一研究室だった事で、東工大の同級生が集まり、篠原先生も一私立大に来て頂いたと聞いています。オフィシャルには発表された事はあまりなく、建築MAP横浜で吉松秀樹さんが多少記事でそのことに触れているだけです。
その時はハウスインヨコハマはまだありました。松本さんが模型を作り、粘土の制作を見て驚いたり、その数年後に自由が丘の街でよくお会いまして街で1時間くらい立ち話などをしたりした記憶があります。
先生の記事を検索してまして坂牛さんのHPにたどり着き日記を読ませていただきました。丁度私が学生の時は、横浜国際ターミナルの時期でその経緯を目の辺りにしてGAJAPAN15にファックス批評等に何回か書かせていただいたことがあります。たしかあのころ、ご自分の葬式等もデザインされていた、計画されていたような話をどこからか聞いた覚えもありました。ありがたいことに冗談でここは篠原スクールの分校だともおっしゃってました。
先生なくなられてしまったのですね。数年前にコンペの審査員の高橋晶子さんにお会いした時に元気がないとの事聞いておりました。とても悲しいです。何度か引越しされてから連絡先がわからず、お会いできませんでしたが、僕自身の問題としては、ろくな作品もできずに何もお見せできずに、逝かれてとても残念です。
篠原一男先生のそばにいれた2年間と少しをありがたく思っています。とても幸せだったと。
坂牛さんの日記に勝手にコメントしてしまいまして。篠原先生のお通夜に行かれた方に僕のような輩もいたんだと知ってほしかったからです。すいません。