下手な考え、、、、
夕刻研究室で学生と話す。就職などの進路についてである。設計者になるかどうかの悩み時である。自分の能力との相談をしているようだが果たして建築家の能力など生まれつきかどうか疑わしい。そこで少し自分の話をした。一体自分はどうして設計者になることを決意したのだろうか?都合の悪いことは忘れてしまったから思い出すことは美談にしかならないのかもしれないが、そんな決意をした覚えはない。ということはよほど自分に自信があったのかというとそんな自覚は無い。コンペ荒らしだったわけではないし、製図の成績がいつでもトップだったわけでもない。ただ自分は設計者になると決めただけでそこに判断材料はない。そうただそう決めたに過ぎない。もとより設計がうまいか下手なのかというようなことは時代と適合するかどうかだけの問題などと大それたことをその時代から考えていたのかもしれない。つまりは誰かに上手い下手を判断される言われは無いとおぼろげに思っていたのかもしれない。だから後はやるかどうかだけの問題だったように記憶する。
もちろん最低限の能力は必要だが設計力はむしろ努力である。生まれ持った才能は20%くらいだと思う。それは天才的建築家の生き様を見ているとそう思う。サーリネンは朝食のバター壺の中でバーターをこねくり回して建築の形を作っていて離婚されたとある人が言っていた。これを努力といわずなんと言おうか。むしろ設計者になるための才能がいるとするなら、その努力をする能力である。さらに言えば努力でカバーできる設計力ではなく設計者としての人間力のほうである。それらはコミュニケーション能力とマネージメント能力。これは残念ながら生まれつきであることが多いように思われる。能力との相談をするなら自分のこれらの力と相談するべきだ。しかしこれも誰かのもとで一生やるなら不要である。となると生まれつき持った何かと相談する必要は無い。やるかやらないかを決めるだけの話である。ということは建築と一生付き合う気があるかどうかだけの問題である。ここでまた一生なんていうとやたら気が重くなるだろうが、それもたいしたことは無い。まあ結婚するようなものである。別にいやになったら離婚するだけのことである。そんなしかめっ面して考えるほどのことでもない。離婚が怖い人はやめたらいい。しかしそういう人は結婚だってできないということになる。
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