色
朝のアサマで大学へ。車中クレーリーの『観察者の系譜』を読み、気付かされることが多々ある。例えば色彩に関すること。クレーリーはこの問題に関して、ことのほかゲーテとショーペンハウアーの意義を訴える。その理由は二つあり一つは彼等がニュートンによって形成された色の光学的(客観的)価値を、生理学的(主体的)領野においても価値づけたこと。そしてもう一点はロックやカントによって比較的に2次的な価値として扱われていた色の問題を、大規模に転倒したという事実である。前者は特に驚くほどの内容ではないのだが、後者は少し考えさせられる。もちろんゲーテの色彩論がそれ相応の意義あるものであることは知ってはいたいたものの、カントに対抗するほどのものとは思っていなかったからである。なるほど、近代の美=カントなどと早合点してはいけないのである。やはりモダンは一枚岩ではない。そんな当たり前のことを再認識させられた。
午後大学のキャンパス計画ミーティング。4時間近くかかった。やっと全体像が見えてきた。ほぼ一年くらいかかったのだがあと少し(だといいのだが)。夕食後成実弘至の『20世紀ファッションの文化史』河合出書房2007を読む。第一章がチャールズ・フレデリック・ワースの話である。彼の意義はオートクチュールを確立したこと。それまで洋服は富裕層が先ず生地をを買いそれをドレスメーカーに持ち込みデザインの注文をして作らせていた。そこではデザインのイニシアティブは発注者側あった。一方ワースは、自らのデザインをモデルに着せてアトリエに並ばせた。発注者には洋服の制作技術に加えてそのデザインを売ったのである。ここでは受注者側にデザインのイニシアティブがある。これがオートクチュールの確立であり技術に加え創造を商品としたのである。建築も常にこうありたい、、、、、
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