母性の喪失
2月25日
後期日程の入試。朝から雪かき、というか構内歩道にへばりついた氷割り。昼から晴れてきて一安心。
夜、江藤淳『成熟と喪失』河出書房1967再読。「江藤淳」、本名、「江頭淳夫」だったと思うが、僕は大学時代この先生のゼミをとっていた。ゼミのタイトルは忘れたが内容は日本の近代化を当時の外交文章(アメリカのもの)を精読することで明らかにしようとするものだった。今でも頭に焼き付いているのはmodernization(近代化)=westernization(西洋化)というテーゼである。
『成熟と喪失』は子が母性にそむかれ、そしてそむく中で成熟する精神的な成長を、安岡章太郎、小林信夫らの小説を分析しながら跡付けたもの。しかしそのこと自体はむしろ比較的当然の事実であり、ポイントはそうした母性との決別を通して日本のアメリカ化が日本文学の中でどのように表出してきたかを明らかにしている点にある。と僕には読める。なんでこんな本を学生時代以来再度引っ張り出してきて読んでみたかと言うとこの母性との決別という江藤のテーゼを「建築の他者性」というゼミの1テーマの中で議論の中心に据えてパワポを作った学生がいたからである。しかし繰り返しになるが、僕の読む限り、子が母との葛藤のなかで成熟すること自体は別に江藤の専売特許でもなんでもない。そうではなくてそこにアメリカとの関係を持ち込んだことが彼の卓見である。昨日読んだ大衆消費社会との関係で言えば、戦後日本に怒涛の勢いで流入されたアメリカ的豊かさに敏感に反応し、消費の海の中で平衡感覚を失った日本人を察知したことが江藤の慧眼だったと言ってもいい。建築においてもし母性と言うような言葉使うのならば、こうしたコンテクストをどう関連させ得るのか?そここそが問題なのだと思う。さてそれではこのパワポをどう修理しら良いものやら??
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