統治
午前中卒業ゼミ。m2と4年の発表。このm2が4年の頃は何を言っているのか全く分からなかった。まるで異星人と話をしているようだったが2年たったらやっと同じ地球の人間であるようでほっとしている。とは言うものの同じ地球人として同じ言葉を話しているとなると、それだけに逆に言っていることが分からないと腹立たしい。ゆえになるべく言葉を使わず発表してくれる方がこちらは苛立たない。美しい絵と模型だけ見ていられるのならそれに越したことはない。しかしそれだとこちらもリアクションの言葉のきっかけがないし、結局それで彼等が何かを獲得できるかどうかは賭けである。難しいところである。何をさせることが彼等にとって最も伸びていくことなのかそれは相手の成果とそのプロセスを確認しながら一人一人対応せざるを得ない。
夕刻森政稔『変貌する民主主義』ちくま新書2008を読み始める。この手の本の最近の傾向は現代の主流である新自由主義を中心に話しが進む。しかしこの本はもちろんそうした側面をもちながらもより民主主義における個人の自由の問題がフィーチャーされている。僕にとっても今の自身の興味から言えば、経済的側面より、むしろ政治的な国家統治の方法と効果が気になる。その理由はそうした方法と効果が研究室、事務所、家庭という僕の当面の相手を適切に管理する方法を示唆するからである。例えば今風に言えば最小国家という概念があり、僕は比較的その考え方を指示している。そこでそれに則るならば、つまり僕自身が最小となり管理対象の自由を最大限とするならば彼等は最大の成果をあげかつ最大の幸福を得られるということになる。しかし現代政治の事例はそうした最小国家の欠点も教えてくれる。その欠点からみれば、成員の最大自由が彼等を非生産的にし、かつ不幸にする可能性も常にあるわけである。自由の目盛りをどこにセットすることがベストなのか悩ましい。言い換えればどの程度自由にしどの程度規制(指示)をしていくことがいいのかよく分からない。しかし今のところ、一律に自分のルールを決めることはナンセンスだと言うのが僕の態度である。国家としては数億人相手にケースバイケースと言ってられない。しかし高々3人の家族と、10人弱の事務所と20人程度の研究室ならケースバイケースで人の顔を見ながらやるのがいいのではなかろうか?と今は考えている。しかしこの人数がある閾値を越えるとこれは制度化していくしかないのかもしれない。それは最小の私なのか最大の私なのかは分からないのだが。
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